Fairy tale 1





私は、私の血を未来に送るの。私の血と貴方の血が交われるように。
私達の血は、遠い未来で結ばれるの。そういう魔法を掛けるのよ。






鬱蒼と茂る深い森の中、湿った空気が通り過ぎた。
それは細かな霧だった。けぶるように一箇所に集まると、その中から人が浮かび上がる。

見目麗しい青年だった。彼は一つ小さな溜息を吐くと、顔を上げた。


重い空気を含んだ堅牢な屋敷が目の前に姿を現す。それは青年の家だった。彼は、重い空気を身に纏いながら、軋む扉を開いて中に入る。


最初に帰宅の挨拶に行ったのは、長女の部屋。
長女・紅子は、長い黒髪を持った美しい魔女であった。魔女の中でも最も強い力を持つ者の一人に名を上げられる彼女は、何時も何かしら奇妙な媚薬を作り続けている。
彼が「ただいま」と小さく声を掛けると、大瓶の前で何かを混ぜていた彼女はふとその動きを止めて振り返る。

そして、呆れるような小さな溜息を一つ。
「だから止しなさいと言ったのよ、私は」
今夜の出来事を全て見通したかのような言葉に、青年は内心うなだれる。

「魔女でもないあなたには、そんな事する必要なんてありはしないのに。……この失敗は当然よ」
言葉はきつくとも、その口調は優しい労りが含まれている。

「これに懲りたら、今後二度と王宮には近付かない事ね」
紅子の忠告に青年は黙って頷くと、彼女の部屋を辞した。


次に向かったのは、次女の部屋だった。
次女である志保は、薄い紅茶色の髪を持つ精然とした美女だった。魔女としての能力は紅子に劣るものの、それでも魔女の家系には充分過ぎるほどの力を持ち合わせていた。彼女は、何時も青年には理解できない分野の研究を続けている。
長女の時と同じように、彼が「ただいま」と声かける。彼女はその声に振り返りはしなかった。

しかし、紅子の時と同じく溜息を吐いたのはその背中で分かった。
そして、小さく「バカね…」と呟いた。

彼女は多くを語らない。しかし、どのような気持ちでいるかは、手を取るように分かる。
青年は、「分かってる」と一言だけ残して、その部屋の扉を閉めた。

その後、何時も溌剌とした園子の元へ。そして、穏やかに眠る歩美を始めとした可愛い妹達の寝顔を確認してから、自室へと戻った。



青年は、魔女の家系に生まれた。名前は新一。代々女しか生まれない家系で、唯一例外的に生まれた男子である。
男である新一は魔女ではない。魔女しか住む事が許されないこの館で、彼が生きるのは不自然であった。しかし、古い家系の何処を紐解いても、魔女が魔女以外の者を産んだという事実はなかった。

本来ならば、魔女として産まれる筈が、どうした事か男として生を受けた。当然魔力など持ち合わせていない。
無力な子供はそのまま成長し青年となった。魔法の一切は使えなかったが、その分溢れんばかりの知識と教養は身につけた。……だからと言って、この館で役立たずであるという事実は変えられないのだが。


役立たずな新一だったが、だからといって疎まれる事はなかった。それ所か、魔女達の愛情を一身に受けて、健やかに成長した。
新一自身、とても恵まれた境遇だと思う。男である新一に、これ程までに大切にしてもらって。
……しかし彼女達の役に立つことなど何一つない。
女達はそんなものを欲してはいない。理解ってる。……しかし、だからこそ、彼女達の役に立ちたいと強く願っていた。



どれほど昔からだろう。
妖精の国で、魔女は忌み嫌われる存在だった。奇妙な術を使うからではない。魔法使いも魔術を使う。しかし、彼等は妖精達と仲良く共存していた。
魔女だけが違うのだ。『魔女』と呼ばれる特殊な家系に産まれる者達だけが、妖精の国では忌み嫌われていた。

魔女達ですら、その原因が何であったのか知る者はいない。ただ一つ、代々課せられてきた使命がある。

───それは、妖精の国に生を受けた代々の王子を呪う事。

どのような手段を用いても、魔女達はこの国の王子達に忌々しい呪いを掛け、不幸という名の贈り物を与え続ける。
魔女として産まれてきた者の、それは宿命でもあった。


紅子も志保達も、歴とした魔女である。
当然、代々伝わってる使命を完遂すべく、様々な策を弄した。しかしながら、ことごとく王子やその周りを守護する魔法使い達に邪魔され、本人は至って前途洋々な日々を送っている。

しかも、ついに王子は妃を迎えると布告まで出したのだ。王子が結婚すれば想像力の乏しい者でも、それは絵に描いたような幸福を得る事になるだろう事は必至。しかも、家庭を持てばいずれ子も産まれる。
その子が男子であれば……魔女達はまた新たな標的を作る事になるのだ。

何としても、王子に不幸にしなければならない。妃を迎えさせるなんて、もっての外だ。


妃選びの舞踏会。これが対面的なものであって、実質、王子の幼なじみである少女が妃として選ばれる事は、誰の眼にも明らかだった。
何が何でも阻止せねばならない。
だからと言って、魔女達は王子の想い人を手に掛ける真似はしなかった。代々、彼女達は王子に呪詛の声を上げていたが、その周囲の者達を直接的に呪う事は決してしなかった。

それが、彼女達のプライドでもあった。


魔女達が次の策を早急に論じ合っている所に、それまでその場には決して姿を現さなかった新一が顔を出したのは、逢魔が訪れる刻。
それまで、何度も煮え湯を飲まされてきた魔女達に、新一は自分が王子に取り入ってみせようと提案したのだ。

当然皆は反対した。成功するしないの問題ではない。新一にはそんな事をする義務などないのだ。
新一は確かに魔女から生まれたが、彼自身は魔女ではない。魔女ではない新一が王子を呪う事は出来ないし、その必要性もありはしない。

しかし、それでも新一は彼女達を掻き口説いた。
何の使命もないままに、このまま朽ち果てるのは辛いから、せめて皆の役に少しでも立ちたいからと。

役になんて立たなくても良い。新一の存在そのものが、彼女達の心の拠り所になっているのだ。そう姉達は口々に言い聞かせたが、新一は納得しなかった。

一度でいい。たった一度だけで良いから、機会を与えて欲しい。そう懇願する新一に、彼女達はとうとう折れた。


新一は、姉達が見ても惚れ惚れするほどの美貌の持ち主である。
王子を虜にするしないはともかく、彼女達は彼の気の済むようにしてあげようと思った。

一度懲りれば、もう二度と馬鹿な事は考えまい。そう結論付けたのだ。


こうと決めた魔女達の行動は早かった。

一切の魔力を持たない新一に、紅子は幾つかの魔術を使えるように施した。ほんの一時だけだが、これで紅子の魔力を新一が代わりに使えるようになった。
園子は新一の為に薄い紗の美しい黒いドレスをあてがった。かもじをつけて大胆に結い上げ、薄く化粧を施す。それだけで、どこから見ても立派な淑女であり貴婦人になった。

そして、最後に志保が小さな小瓶を手渡して囁いた。
「これを王子の飲み物に垂らして、飲ませなさい。きっと上手く事が運ぶから」と。

しかし、結局それは使われる事なく、正体を見破られ慌てて逃げ出した。

……使うつもりなんて、更々なかったけれど。

新一は今宵の一時を思い出すと、小さく苦笑した。
彼女達の言った通りだった。
恐らく、あの場に人間の少女が居なくても、大した時も置かず新一の企みは露見していただろうと思う。

だけど……もし、あの少女が居なかったら。


あの王子と、一曲くらいは一緒に踊れていたかも知れない。
そう思うと、ほんの少し少女に恨み言を言いたい気持ちになった。







新一の存在は、誰にも知られる事がなかった。
魔女の家に魔女以外の者が住んでいる事など有り得ない話であったから、新一の存在はこれと言った理由もなしに伏せられた。
そんな立場に、新一は少しだけ寂しい気持ちになったが、それ以上に自由に動ける身が嬉しかった。

新一は、魔女達が行きづらい場所へでも、平気で赴く事が出来た。周りには新一を妖精の一人とくらいしか認識しなかったから、妖精達が集う野原や、魔法使い達の住処である魔法街にも顔を出していた。

そして、王宮にも。


新一が気まぐれを起こしたのは、もう随分以前の事である。
長女の紅子が忌々しげに王子に呪詛の言葉を吐いたのがきっかけだったように思う。

彼女の仕掛けた罠に後一歩で掛かるという寸前で、するりと交わされたと言うのだ。
魔女を出し抜くなんて、優れた知性を持ち合わせているのだろうと、新一は興味を持った。

魔女が代々呪いを掛けているというその末裔の顔を、ちょっと見てみたくなった。理由はそれだけだった。
魔女達よりも自由気ままに行動出来る新一は、直ぐさま己の好奇心を満足させる為に王宮へと向かった。王宮をうろついても咎められない程度の身分の衣装に身を包み、なるべく目立たぬように、王子の姿を捜した。

彼は、程なくして見つかった。一度も顔を見たことはなかったけれど、王子の証である冠が彼の頭上に輝いていたから、見間違うはずはない。


そして、唐突に新一の胸に衝撃が走った。


一瞬、何が起きたのか理解出来なかった。彼の姿を眼にした時、彼の声を耳にした時、胸の中が急にカッと熱くなった。燃えるような、息苦しくも感じる……今まで経験した事もないような強く痺れる感覚。
突然、原因の判らない発作に見舞われたかのようにその場に崩れ落ちた。近く柱の影に逃げ込んだが、動悸は収まる事がなかった。

暫くそうして身を顰めるようにしていたが、ふいに頭上から気遣うような声が聞こえた。

「どうしましたか?」と、低く艶やかな声が新一の胸を打った。思わず振り仰いで……新一はその瞳を大きく見開いた。

王子だった。魔女達が躍起になっているあの王子が、新一のすぐ目の前にいた。


驚きに声も出ない新一に、王子は心配そうに覗き込んだ。
どきり、と新一の心臓が大きく跳ねた。思わず胸を押さえる新一に、王子は益々気遣うような表情で見つめてくる。

胸の鼓動の意味も判らず、新一は混乱した。しかし、その中で何度も心の中で繰り返す。
正体を知られてはいけない。己が魔女の家系に連なる者であると知られては絶対ならなかった。他の者であれば、新一が魔女の血を受けているなど気付きもしないだろうが、彼は違う。この王子は、自分の姉の企みを易々と見抜いた男だ。気を抜いてはならない、と。

大丈夫、大丈夫。何度も言い聞かせる。今の新一は小貴族の妖精だ。髪の色も瞳の色も変えてある。身元を問われたところで、何とでも言い逃れが出来る。


「気分が悪いのなら……私の部屋で休まれては如何ですか?」
王子の突拍子のない申し出に、新一は慌てた。
身元も知れぬ新一を私室に招き入れるなんて愚行、普通の王子ならするはずがなかった。精々、警備の者に預けるか……良くても王宮付きの医師に看られるのが関の山だ。

まさかとも思うが、……よもや正体を気付かれている!?

そう思うと、余計に苦しくなった。しかし、もしそうなら、こんな所で蹲ってはいられない。只でさえ、厄介者の新一がこんな場所で捕まったりしたら、姉達の身が危なくなる。

新一は胸の痛みも動悸も押し殺して立ち上がった。自分で身を起こす前に王子が新一の手を取った。そのあまりの事に狼狽え、思わずその手を振り払った。

礼もそこそこに急いで退散しようとしたが、しかし相手は逃してくれなかった。
「見かけぬお顔ですが……よろしければ名前をお聞かせ下さい」と、この国の王子としての振るまいとは思えない低姿勢に言葉を失う。彼ほど教養ある人間ならば、己の臣下である貴族全てを把握出来ていない自分を恥じたのかも知れなかったが、新一はそこまで気が回らなかった。

この王宮に上がれる程の者ではございません。お許し下さい。と、掠れた声で告げるのが精一杯で、無礼にも王子の制止を振り切って逃げるように王宮を後にした。


怖かった。……今まで感じた事がないくらいの恐怖が新一を取り囲み襲ってきたような錯覚を覚えた。

『好奇心は身を滅ぼす』
そう言った志保の言葉が脳裏を過ぎった。この身所か、新一の軽はずみな行動如何によっては、魔女達にも災いをもたらし兼ねないと悟った。



もう二度と、こんな真似はしないようにしよう。家路を急ぐその間ずっと、何度もそう心に誓った。
しかし、胸の動悸はまるで収まる気配を見せなかった。王子の顔を思い浮かべると、益々酷くなる。

すらりとした長身に、金糸の縫い取りの美しい豪奢な衣装を身に纏った王子。クセのある柔らかな黒髪、深い夜空を思わせる藍色の瞳は透き通っていて、美しかった。王子としての教養ある柔らかな物腰。そして、血筋を思わせる高貴な魅力に溢れた態度。

思い出そうとすればするほど、胸の痛みは激しくなって、抑えきれなくなる。だから、脳裏からそ王子の姿を消し去ろうと必死になるのだが、どうやっても消えてくれはしなかった。



この想いが恋である事に気付いたのは、それから一週間も後の事だった。






新一は、窓辺に腰掛け月を見ていた。
玲瓏と輝く月。妖精の世界では、月は全ての魔力の源でもあった。『月の力を得た者は、月によって力を奪われる』との謂われがある程、その力は果てがなく、そして畏怖される存在だった。

今頃、王宮では王子の祝福の宴が催されていることだろう。彼の隣にいた可憐な少女。彼女は青薔薇の精だった。今はまだ若く可憐な花だが、数年もすれば、その名に相応しく気高くて優美な薔薇となるだろう。

新一はひっそりと嗤った。

今頃になって、惨めな自分に気付いたのだ。
「……オレって、バカだよな」
志保にも開口一番に言われた言葉。分かっていると答えたけれど、……本当に自分はバカな男だと思った。

新一はこの日の為に、密かにダンスの練習を積んでいたのだ。……しかも、女性のステップを。


……これではあまりにも滑稽すぎる。

だけど。
新一の瞳は寂しげに愁いだ。

たった一度、……一度で良いから踊りたかった。何もいらない、言葉すら必要ない。ただ、一度だけ彼とステップを踏んでみたかった。
愚かしく女々しいこの想い。魔女の家系に生まれた男は、何処か捻れているらしい。新一はそう思って、また嗤った。
口唇に微笑を湛えて……だが、瞳は濡れていた。

新一は立ち上がり、バルコニーへと続く窓を開け放った。煌々と降り注ぐ月の光が新一に長い影を作る。強く肌に感じる濡れた空気。深夜を過ぎた森の中は、月と霧が幻想的な風景を作り出していた。

湿った風が頬を掠める。髪や服が湿りを帯びていくのも構わずに、遠くの王宮に想いを馳せた。……だから、気付くのが一瞬だけ遅れた。
正面から受けていた風が微妙に変化したのを。
不自然に歪んだ風が脇から吹き込んできた。ふわり、と、それはこの森では珍しく、すっきりと乾いた夜風だった。

「……?」

怪訝に感じて、風が流れてきた方へと視線を向ける。……すると視界に見慣れぬものが飛び込んで来た。
大して広くないバルコニーの端に、白い影が見える。暗い夜の中、白い影ははっきりと浮かび上がった。


───それは、人だった。


真っ白な衣装に身を包み、新一の方に向かって佇んでいる。
新一は誰何の声を上げるのも忘れ、その人物に魅入った。

頭の上からつま先まで真っ白だった。あまり見たことのない、異国風な衣装を身に纏っている。たっぷりとふんだんに生地を使った外套が湿った風を払拭するかのよう棚引いていた。

まるで正体を隠すかのように、掛けられた片眼鏡。しかし、新一は露わになった方の瞳に吸い込まれるように釘付けになった。

晴れ渡った夜空のような、藍色の瞳。


「こんばんは」
先に声を掛けたのは、白い影だった。しっとりと落ち着いた艶のある響き。新一はびっくりしたように顔を上げた。


瞳も声も……新一が恋したあの人に似ていた。



「……泣いておられるのですか?」
男はそう声を掛けた。

泣いている?新一はそう問われて思わず瞳を拭った。
そうだ。さっきまでは悲しくて悲しくて、泣きたい気持ちで一杯だった。

しかし、突然現れたこの男の所為で、悲しみは吹っ飛んだ。今は、ただ驚愕している自分が間抜けに思えて、瞬時に表情を改めると、見知らぬ男を睨み付ける。

「貴様……此処を魔女の館と知っての振る舞いか!」
「失礼。しかし、私はまだ何もしていませんが……?」
「許可なく館に踏み込んだだけで、充分だ」
強い口調で言い放つ。すると男は、少し考え込むような仕種をした。そしてすぐに顔を上げる。

「それでは、滞在の許可を」
まるで何でもないように軽やかにそう求めてくる男の態度に、新一は一瞬強い脱力感に見舞われた。

思わず唖然とする新一に、男は少し悪戯を仕掛けるような顔で微笑いかけた。


「……お前、誰だ」
「私こそお聞きしたい。その魔女の館に住む貴方は、一体誰なのです」
問いかけを問いかけで返され、新一は口を噤んだ。
自分自身が何者かなんて、生まれてから今まで一度だって確信した事がない。

魔女の腹から生まれた、魔女でない者。今まで、誰も新一の事など気に掛けなかった。新一の存在は外界には知られることがなかったのだから。

無言で立ち尽くしている新一に、男は少し困った表情を浮かべた。
「……不躾な質問をしてしまったようですね。お許し下さい」
新一相手に、優雅に腰を折る。その物腰は洗練されて、気品すら漂う。

卑しい生まれの者でないのは確かだった。付け焼き刃では到底真似出来ない。余程の教養を受けていない限り、このような振る舞いは出来はしないだろう。


新一は内心大きく戸惑いながらも、目の前の男を追い出せなくなっていた。
いや、最初から追い出すつもりなどなかった。あの藍色の瞳を見た時から。……その艶やかな声を耳にした時から。

「私の名はキッド。……只のしがない魔法使いです」
男、キッドはそう自らを名乗った。

「キッド……魔法使い……?」
新一は、警戒を解くことなく彼を見た。魔法使い?……本当に彼は魔法使いなのだろうか。
確かに、只の妖精でないのは分かる。……しかし、魔法使い程度の身分にも見えなかった。
そう。……この男の血は、もっと高貴なものを感じる。
よしんば魔法使いだとしても、かなりの能力の持ち主であるのは確かだ。


無力な新一とは明らかに違う。


新一は、内心自嘲した。結局の所、自分はこんな男一人、追い出す力さえないのだ。

考え込んだ新一を余所に、ふいにキッドが動いた。ゆっくりと近付いてくるその男を、新一は制止出来ずに見つめていた。
新一のすぐ傍迄来るとキッドは立ち止まり、白い絹で包まれた掌を彼の前に差し出した。
ふわりと空気が揺れて、その手の中から見覚えのある物が現れる。

「これは……」
思わず声を上げる新一に、キッドは微笑む。

「落とし物ですよ。……貴方のものでしょう?」
そう言って差し出したのは、白金で出来た髪飾りだった。精緻で繊細な装飾を施されているそれは、今夜の舞踏会で新一が身に付いていた物。

指先が小刻みに震えた。一体、何時何処で落としたのだろう。覚えがない。
よもやこの男も、今夜の舞踏会に出席していたのだろうか。
もし、その時に新一を見たのなら……。新一が王子を誑かそうとした事実に気付いているなら……!

「森の入り口で貴方が落としたのをたまたま目にしました。……これだけの品、さぞ大切な代物でしょう?なくされては困ると思い、こちらまでお持ちしたのですが……」
ご迷惑でしたか?とそう問われ、新一は思わず首を振った。

帰る途中に落とした覚えは無い。しかし、何時落としたかも覚えていない新一だった。目の前の男の言葉を完全に信用するのは危険かも知れなかったが、彼が嘘を付く理由も見あたらなかった。
……何より、何故彼が此処に来たのか、その理由がようやく分かった事に何処かほっとしたのだ。

キッドは、考えを巡らせるのに夢中で受け取ろうとしない新一の手を取って、そっと持たせてやる。それに気付いて、新一は慌てた。
「……あ、ありがとう」
ぎこちなく礼を述べると、キッドは嬉しそうに笑った。



「名前をお聞かせ頂けませんか?」
新一が僅かに気を許し始めた事に気付いたのか、キッドは優しい瞳でそう問いかける。新一は躊躇う素振りを見せつつ呟いた。

「……新一」
「新一……良いお名前ですね」
キッドは眼を細める。そんな彼の態度に新一も少しずつ警戒を解いていく。

「その髪飾りは、貴方のその細絹のような黒髪にとても良く似合いそうだ。是非、挿している姿を見せて頂きたいのですが」
「ば、ばーろ。……オレは男だ、こんな飾りなんて付けねーよ」
羞恥の顔でがさつに応える新一に、キッドは軽く首を傾げる。

キッドは、それ以上何も言わなかった。余計な詮索はしないと言った表情で彼に微笑いかける。藍色の瞳が更に深くなった。

「この森の……こんな奥まで踏み込んだのは初めてです。まさか、こんな大きな館があるなんて思いもしませんでした」
「……お前は、魔法使いなのだろう?」
新一が訊ねると、キッドは軽やかに頷いた。
「魔法街に住む者なら、この森に魔女が住んでいる事くらい知っているはずだ」
魔法使いにとって、それは常識。同じ魔術を使いながら、王国に仇をなす存在に普通の妖精以上に忌み嫌われている。所謂、同族嫌悪だ。

「残念ながら、私は魔法街に居を構えておりませんので」
「……?魔法使いが、魔法街以外で生きていけるとも思えないが」
「諸国を気ままに旅している、程度の低い魔法使いなのですよ、私は。今夜は、この国で華やかな催しがあるとかで、久方ぶりに帰ってきたのです」
涼しい顔してそう告げる。新一の瞳には、その表情に嘘は見えなかった。

「残念ながら催しには間に合いませんでしたが、……でも帰ってきて良かった」
「……?」
「こうして、貴方と出逢えた事を、月に感謝します」
キッドはそう言うと新一の手を取り、その甲にそっと接吻を落とした。

「……!」
驚いて引っ込めようとする新一に、キッドは嫣然と微笑う。その瞳は、澄み切った穏やかな色をたたえていた。
手を取られているのも忘れ、その色をじっと見つめてしまった。

「……オ、オレは女じゃねーぞ」
「知ってますよ」
「…なら、……こんな事すんな」
「何故?」
「なぜ、って……」
新一は戸惑ったように視線を外した。

キッドは、まだ新一の手から離そうとはせずに、それ所か軽く握りしめてきた。その時何故か新一は、そこからまるで、労りや思いやり、そして優しさと言った目に見えない感情が、彼から自分に伝わってくるような、そんな不思議な感覚を受けた。

だからなのか。新一は無意識にそのすらりとした彼の指先に自分の指を絡ませるように動かした。
……彼は、それをどう受け取ったのか。
キッドは、それまでにないくらい優しい瞳で新一を見つめると、小さく頷いた。


この男は、ありのままの姿を新一に見せているような気がした。
キッドは、新一が何者であるのかなんて関係なくこの場に存在し、新一の前に居る。

彼が男に対して取る礼儀とは別の方法で、新一に敬いの意を示すのも、全てが彼流のスタイルなのかも知れない。


しかし、今まで魔女である姉達以外と、こうして正体を晒して見(まみ)える事など一度も無かった。
そう思い至ると途端に怖くなった。身を強張らせ、精一杯の声を振り絞って言う。

「……もう帰れ」
「それは、つれない」
あからさまに項垂れるキッド。相変わらず、掴んだ手を離そうともしない。
それが嬉しいのか嫌なのか、新一は複雑な気持ちにになった。

「これからも無事に生き続けたかったら、帰れ。……ここは魔女の館。お前がこの部屋に居る事を、既に姉達は気付いているだろう」
新一を守るためなら、あの魔女達は決して容赦しない。

何より、女しか住まわぬこの館に部外者の、しかも新一以外の男を招き入れて黙ったままではいないだろう。
これ以上、この男を此処に置いておくのは危険だ。


「大丈夫ですよ。貴方のお身内の方々は私には気付きません」
新一の心配を余所に、キッドはあっさりとした口調で、何でもないように言った。
「私はしがない魔法使い。しかし、己の気配を消すくらい容易い事。……でなければ、とうの昔に貴方の姉君達に追い出されていますよ、きっと」
キッドはそう言うと、彼の手を引いて室内へと誘う。燭台の光が心許なげに揺らめいている。キッドは灯りの傍まで連れていくと、新一の瞳を覗き込んだ。
その双眸は、蝋燭の明かりを受けて濡れていた。

「……キ…ッド?」
彼の行動が読めなくて戸惑う新一に、キッドはそれまでにないくらいに満面の笑みを浮かべていた。

「ようやく私の名前を呼んでくれた」
キッドは嬉しそうに言うと、掴んだままの手を一瞬だけ強く握りしめた。
不意に強まったその力に併せるかのように、新一の鼓動が大きく音を立てた。
その感覚に吃驚して、思わず頬が朱に染まる。それは次第に頬だけでなく、身体中に伝わっていった。

「夜風にあたり過ぎましたか?」
からかうような声に、新一は益々身体を熱くする。取られたままの手を振り解こうと躍起になって動かすと、キッドは包み込んだその手を強引に引き寄せ、抵抗する暇も与えずに抱きしめた。

「───!!」
新一は、さほど体格も変わらない男の胸の中にすっぽりと収まった。屈辱よりも、羞恥で声にならない。

心臓の鼓動が新一の意志を離れ、全くコントロールが利かなくなっている。不自然にバクバクと乱れて……その鼓動は相手の男にも知られるだろう。


「───はな、離…せ……!」
藻掻けば藻掻くほど、更に締め付けられるようにキッドの両腕が新一の身体に絡まる。


「運命を……信じますか」
「……え……」

「私は、貴方に……運命を感じました」
新一を抱きしめたまま、真摯な瞳で告げてくる、その表情。

「……キッ……」

「運命の出逢いに、時間なんて関係ない。───貴方が好きです」
戸惑いも躊躇いもなく、真っ直ぐに新一を見つめてくる。真摯な瞳は、この言葉に嘘偽りはないと語る。

整った端正な顔が新一だけを見つめ、彼の答えを待っていた。


新一は、彼から視線を逸らし……そして再び黙って答えを待っているキッドへと移した。
……何をどう言ったら良いのか。

戸惑ったままの新一は、どうして良いのか判らず、顔を伏せた。
だが、不思議と彼の新一に絡まる腕を振り解きたいとは思わなかった。


……これが、答えなのだろうか。新一は考える。

手渡されたままの白金細工の髪飾りが、新一の掌の中で小さな音を立てた。


「……何だか少し急ぎ過ぎてしまったようですね」
長い沈黙の後、キッドはそう言うと、ゆっくりと新一を解放した。

自由になった身体にほっとすると同時に、離れた温もりに小さな寂寥感が生まれたのに新一は気付いた。

「急いてしまうのは、私にはあまり時間がないから。……でも。もし、貴方が嫌で無ければ、次の満月の夜にもう一度逢って頂けますか?」
不安を混じらせた表情で訊ねてくるキッドに、新一は俯いた。

次の満月。

常日頃の新一ならば、即座に拒絶するだろう。人と……しかも魔法使いとの関わりなど、魔女の館に住まう者にとって許される事ではない。
そもそも有り得ない。忌み嫌われている存在である魔女の一族に近付く者が居るなど……。


次の満月。

もし。……もし、ここで新一が頷いたなら、この男は本当に再びこの屋敷にやって来るのだろうか。
この魔女の館に。


「やはり……ご迷惑、ですか?」
眉を寄せ、不安気な表情で寂しそうに訊いてくるキッドに、新一は思わず頭を振った。
そして、自分の取った態度に驚いてキッドを見る。

彼は安心したような、ほっとした顔で微笑んだ。


その表情を眼にして……に新一は答えを改めることを放棄した。











魔女の館は、鬱蒼とした樹木に囲まれた場所に在った。
一年中深い霧に覆われ、深閑たる森と相成って、来る人を拒む。

慣れない者がこの森に踏み込むと、それこそ命を落とす。四方を高くそびえる木々に囲まれ、常に靄のようにかかった霧の中はさながら森の迷宮。しかも、この森は魔女が支配している。好んで分け入る者は皆無に等しい。


新一は、そんな誰も入り込まないこの森を、この上なく愛していた。殊更社交的な性格ではなかったから、話し相手には姉妹達で充分であったし、様々な書物を読み耽るのには、静かな此処は、格好の場所だった。

湿り気を帯びた空気は、紙にはあまり適さなかったが、其処の所は姉達がちゃんと配慮してくれていた。鬱陶しい空気は、新一の肌を滑る事はない。

この日も新一はいつものように館の外へと飛び出して、お気に入りの場所にやって来ていた。たくさんの木々が取り囲む中、そこだけぽっかりと切り取られたように空いた小さな空間。
そこには柔らかく苔生している。頭上からは穏やかな太陽の日差しが降り注ぎ、乾いた空間を作り出している。
一見、生活しにくい環境である森にも、捜せばいくらでも気に入る場所はあった。
新一はその場所に腰を降ろし、携えてきた書物を取り出す。先日からずっと読み続けている本だった。しかし、一向に読み進まない。

ぱらりと頁を開いて……それから小さく溜息を吐く。

なかなか読み進められないのは、この書物が面白くないからではない。新一は、この本を手に入れるのをずっと以前から心待ちにしていた。それは、諸外国の文学。……しかも、どちらというと流行作家の書いた大衆小説であったが、新一はこの作者の書く架空小説が大好きだった。
スリルと謎に満ち満ちた架空の世界の物語。弾むような勢いのある文体に全てを忘れて引き込まれる。
いつもならそうなる筈なのに……。新一は一頁を読み終えると、もう一度最初の段落へと戻った。それを数回繰り返し、いい加減嫌になって本を閉じた。

何度繰り返し読んでも、ちっとも頭の中に入ってこない。



……そうとは気付かずに他の事を考えてしまう所為で、一向に読み進む事がなかったのだ。


新一は、小さく吐息を吐いて本を閉じた。
胸の鼓動が不自然に脈打っている。


今夜は、満月の夜だった。






白金のように輝く月が東から昇り始める頃、新一はその日一日の全てを終えて、自室に戻った。
姉達の前では、自然に振る舞っていた新一だったが、果たして彼女達は不審を抱かなかっただろうか。
勘の良い彼女達には、一度だって隠し事が出来なかった。

新一は、窓を開け放ちバルコニーに出ると、東の空を眺めた。森の木々に邪魔されて、月はまだ見えない。
彼は……来るのだろうか。
手摺りに身体を預けながら、ぼんやりと考えた。

新一自身、本当はどんな気持ちでいるのか分からなかった。
来て欲しいのか、来て欲しくないのか。会わない方が良いくらいは分かる。……けど、会えない自分を冷静に受け止められるだろうか。

「逢い……たい」
知らず知らずの内にそう呟いた事に、新一は気付かなかった。
穏やかな風が、樹木の葉を鳴らす。その音に紛れて、新一の言葉は空へと消えていく。

まだ宵の口だが、魔女の森の空は深い藍色が一面に広がって、まるで宝石のように小さな星々が瞬いていた。
暫くの間、夜空を見上げていたが、ふいに肌寒さを感じて小さく身を震わせた。

こんな風に外に出ているなんて、まるで待っているかのようだ。
そんな自分に小さく苦笑して、新一は身を翻した。

室内に戻り、開け放ったままの窓を閉める。……そして、暫く躊躇った後に錠を落とした。
まるで何かを吹っ切るかのように、些か乱暴な仕種で仕切布を閉める。
外界との関わりを完全に遮断したことで、ほっと息を吐く。

逢いたかった……もう一度その姿を見たかった。
あの日、初めて顔を合わせた時に感じた気持ちをもう一度感じたかった。

けど。……そうして、一体どうなるというのだろう。
新一は只の妖精ではない。魔法を使えない魔女。いや、魔女の腹から生まれた異質な存在。
魔女でなく、魔法使いでなく、只の妖精でもない。
中途半端な存在。……そして、厄介な境遇に生きる者。

自分の境遇を呪った事などなかった。新一の周囲の者達は皆優しい人ばかりだった。
魔女達の愛情を一身に受け、新一は幸福な人生を歩んできた。

こんな境遇で生まれたのにも関わらず過ぎた幸福の中で、これ以上幸せを強請るのは贅沢というものだ。

月は、ゆっくりと昇り始めるだろう。時の進みは万人の上に平等に降り注ぐ。
今夜の約束は忘れてしまおう。今宵、この窓は一切開けないでおこう。
そうして、時が過ぎ去るのをじっと待とう。夜が明ければ、それまでの新一に戻れる。

こんな風に心臓が跳ねる事もなくなるはず。


新一はそう決心して、窓辺を離れた。……しかし、時間の流れは新一が思っていた程、緩慢に進んではいなかった。
室内を仄かに照らす灯の中、新一以外の人物が悠然と佇んでいた。

「こんばんは」
優雅に、そして軽やかに投げかけられる声に、新一は絶句した。
気配などまるで感じさせなかった。……一体、何時の間に入り込んだのだろう。まさか表門から入り込んだ訳ではあるまい。
瞳を大きく見開いて凝視する新一に、訪問者は心の中で微苦笑を浮かべていた。

彼は、新一の心の内の全てを知っているようだった。

逢いたい。でも逢いたくない。
来て欲しい。でも来て欲しくない。

己の立場と気持ち。その両方がせめぎ合って、それでも強く新一に決断を迫る。
新一の心根は優しい。
正体の知れないキッドを自ら招き入れるなんて、それはこの館では決して許されぬ事。

「今夜も、滞在の許可をいただけますか?」
軽く腰を折って訊いてくる、その物腰。

「……勝手に入り込んでいるクセに」
憮然とした口調であるにも関わらず、表情は裏切っていた。
それを見て、キッドはにっこりと微笑んだ。

サイドテーブルに置かれていた燭台の炎が、一瞬だけ鮮やかに燃え上がり、元に戻る。
ゆらりと浮かぶ訪問者は、以前と同じ格好で佇んでいる。
新一はその姿をまじまじと眺め、首を傾げた。

彼は、不思議な格好をしていた。……少なくとも、この国ではあまりお目にかかれないような格好だった。
諸国を放浪していると言った彼の言葉が真実味を帯びてくる。

「……不愉快ですか?この姿」
心を読まれたかのような問いかけに、新一は吃驚して顔を逸らした。そんな新一にキッドは少し困ったように眉根を寄せた。
「お気に召さなければ、この国の衣装を身に着けましょうか」
「いや、……いい。そのままで」
よく似合っているし。と、そう小さな声で続けた新一の言葉をキッドは聞き逃さなかった。

「この衣装は、我が国より北方の国の衣装なのですよ。シィールと言う国をご存知ですか?」
「シィール!?」
その国の名に新一は驚くほど敏感に反応を示した。

「あそこは国交が盛んだと聞いたことがある。芸術文化が進んでいて、特に文学に於いては他国の追随を許さないくらい秀逸な作品が多くて……」
思わず声高に話し出し、ふいにばつが悪くなり口を噤む。

そんな新一の態度に穏やかな微笑を漏らすと、ふと室内に目を凝らした。
一面に造り付けてある書棚には、分厚い書物が数多く収められていた。よく見ると、それらの大半はかの国の物であった。

「書物が……お好きなのですね」
「……」
「あ。この話、続きが出版されてますよ。ここには3巻までしかありませんが……確かもう5巻まで出ているはず」
目に付いた書物の背表紙をなぞりそう告げるキッドに、新一は悔しそうな表情を崩さない。
新一のような身分の者には、特に他国の書物を手に入れる事は極めて難しい。その書物だって、やっとの思いで手に入れた物だった。
この書棚に治められているそのどれもがそうであった。

キッドは暫く間、一面の書物を眺めていた。中には王立図書館にあるような貴重な書物も並べられている事に内心驚いたが、大半は大衆小説の類だった。
「シィールの国の書物なら、私も多少は所持してます。この小説の続きもね」
「え!?」
思わず顔を上げる新一に、キッドはゆっくり微笑んだ。
「宜しかったら、差し上げましょうか?……私はもう読みましたから」

それは新一にとって、とてつもなく魅力的な申し出だった。

「この国に居たら、手に入れるのは大変でしょう。そもそも文学は貴族の嗜みですから、一般の方が容易に手に出来る代物ではない」
「……」
「貰うのを躊躇われるなら、お貸ししましょう。私は一度読んだ書物は、ほとんど読み返しませんし」
「……貸す…?貸して……くれる」
躊躇いがちに呟く新一。しかし、その瞳は読めるかも知れない架空の物語の続きの事で輝いていた。

「是非。……そうすれば、私も次に貴方に逢える口実が出来ます」
「え……?」
「他にもきっと貴方の読みたい書物をたくさんお貸し出来ると思いますよ。諸国を旅する私なら、かの国の物を手に入れるのは容易ですから」
まるで子供の様に瞳を輝かせる新一に、キッドは幸せを感じていた。
蒼く澄んだ瞳がキラキラと瞬いているその様は、まるで珠玉の宝石。

「だから、次も逢って頂けますか?」
キッドの問いに、新一は少し躊躇った後、頷いた。
それを見て、キッドはあからさまにほっとした表情を浮かべた。

「……有り難く、好意に甘える事にする」
新一はぶっきらぼうに言った。まるで、それ以外に理由はないと言わんばかりに。

それでもキッド満足気に頷くと、窓辺に佇む新一の傍に歩み寄る。
逃げることも出来ずに立ち尽くしたままの新一の右手を捉えると、キッドは厳かに彼の手の甲に口づけた。

「……!」

「約束、の証です」
一瞬だけの接吻は羽のようにふわりと触れただけで、新一から離れていった。

しかし、その一瞬だけ感じた彼の口唇の感触に、新一の頬は熱を感じた。



頬を染めて戸惑った風情で佇む新一と、次の満月の夜に訪う約束を交わすと、キッドはまるで慈しむような表情で微笑んだ











新一の戸惑いを余所に、キッドは約束を違えることなくやって来た。
空に満月を頂く夜は必ず。

手には新一が望む物を携えて。

気付いた時には、新一は純粋に彼の訪いを心待ちにしていた。当然、彼の運んでくる書物だけに惹かれたのではない。
……けど、それを理由にしているのは、キッドの目からにしても明らかだった。
そんな彼に内心苦笑しつつも、キッドは厭われていない事に喜んだ。
彼がこんなにも饒舌であったなんて知らなかった。頁を捲り、架空の世界での物語を嬉々として語る様は、見ていて飽きない。



「……何見てるんだよ」
視線に気付いたのか、じとりとした眼で見つめてくる新一にキッドは微笑う。
「楽しそうだな、と思って」
優しげに目を細めて、その表情に新一の胸が瞬間的に跳ね上がった。

視線だけで、まるで包まれているような錯覚に陥る、この感覚。


キッドは、初めて出逢った夜、新一に胸の内を告白した。
しかし、想いを吐露したのはその夜だけで、その後の彼は一切、言葉を用いて新一に想いを告げることはなかった。
あからさまに与えられる好意は存在する。しかし、あくまで友好的な関係を崩さなかった。新一はそんな彼の態度に安堵とほんの少しの不安を抱いていた。

こんな関係のままで過ごせたら、新一も相手を友として遇する事が出来るのに。
だけど、時折向けられる彼の想いの隠った表情にぶつかって戸惑う。彼と、そして自分の気持ちに。

自分は一体、何を望んでいるのだろう。

「どうされました?」
黙り込んだ新一を訝しんだキッドが、心配そうに訊いてくる。「不快な思いをさせてしまいましたか?」と不安気にそうに言葉を続けるキッドに、新一は頭を振った。

「なんでもない」
本当に……何を望んでいるのだろう。
心の内はまだ深く暗い。







キッドは、愁いを帯び始めた新一の秀麗な横顔をじっと見つめていた。
男にしておくには惜しい程の美貌だったが、女々しさはない。むしろ男性的で、誰がどう見ても間違える事はない。
一見して感じる線の細さ。しかし、凛とした瞳の輝きが外見通りの人物ではない事を物語っていた。
一本筋の通った、心の強そうな青年。しかしキッドの前では、時折「それ」が揺らぐ事があった。

それが堪らない。とキッドは思う。

何時までもこうして同じ時の中に居られたら良いのに。
本当は、もっともっと深く彼を知りたかった。しかし、新一は明らかに躊躇している。強引に腕の中に引き寄せて、そして嫌われるなどと言う情けない事態を招きたくはなかった。

もしそうなってしまっても、キッドには彼との関係を修復するだけの時間を与えられる事はないだろうから。

時間がない。でも急く事は出来ない。
彼と逢えるのは、月が夜を強く支配する、満月の夜だけ。
それが歯がゆかった。

それもこれも。

(……あの無能野郎!)
思わず内心毒突いた自分にキッドは舌打ちした。


燭台の明かりが一際大きく揺らいだ。風が強くなってきたようだった。


「あまり長居をすると、貴方のお休みの時間を割いてしまいますね」
殊更明るく告げるキッドに、新一は顔を上げた。
「……キッド?」
「次に来る時には、かの国の新しい書物をお持ちしますよ。貴方の好みそうなお話のものをね」
楽しげにそう告げて立ち上がる。つられて立とうとする新一を片手を制すると、そのまま窓辺に向かった。

「キッド」

「また……次の満月の夜に」











「最近ご機嫌ね」
二番目の姉である志保にそう言われて、新一は思わず言葉に詰まった。
「あ……と、そうかな?」
何時もと変わらないけど?
何気なくそう応える新一だったが、志保は相変わらず意味深な微笑を湛えたまま新一を見つめていた。

午後のお茶に無理矢理付き合わされていた新一は、彼女が手ずから淹れた琥珀の液体の入ったティーカップを取り上げた。
この席には、妹の歩美も居た。彼女は志保にとって、一番可愛がっている妹の一人だ。
志保には、優雅にお茶を嗜む趣味はない。だから、これはきっと歩美の為に催されたものなのだろう。
その歩美は、新一の隣で濃厚なミルクたっぷりの紅茶を美味しそうに飲んで、幸せに笑っていた。

新一も彼女に習って一口飲む。
苦みと仄かな甘みが口の中に広がった。


「そう言えば……日取り、決まったそうよ」
唐突に放たれた彼女の言葉に、新一は数瞬の間、反応出来ずにいた。
「何だ?日取りって」
「婚礼の日取りよ。この国の、憎き王子と可憐な青薔薇のお姫様の、ね」
さらりと返され、一瞬胸の中に小さな痛みが走ったのに新一は気付いた。

「……王子が……結婚……」
呆然と呟く弟に、姉は首を竦めた。
「当然でしょう?彼は、お妃を選ぶ為にわざわざ舞踏会まで開いたのよ?……ま、元々相手など端から決まっていた茶番のような催しだったけど」
呆れた声を隠さずに言い放つ志保に、新一はあの夜の事を思い出していた。


月の綺麗な夜だった。……そうだ、あの夜は満月。
王宮は贅を尽くしていた。装飾はきらびやかで、天井も壁も美しく磨き上げられ、輝いていた。
香り玉を放たれた広間は香しく、その豪華さに圧倒されそうになった。

その中で、一人悠然と佇む若者。

もちろん、大広場にはたくさんの貴族達が集まっていた。しかし、その誰もが王宮の美しさに霞んで見えた。
そんな眩い中で、唯一。凛とした佇まいの……深い藍色の瞳をした凛々しい青年に新一の眼は引き寄せられ、釘付けになった。

あの時の衝撃は、今でも忘れられない。
王子とは、あの夜が初めての出逢いではなかったが、それまで垣間見たどの時よりも心が騒いだ瞬間だった。


魔女達すら忘れてしまう程の昔から、代々受け継がれてきた使命。この国の王子に災いの呪いをと。
新一の心を奪ったのは、その当の王子だった。

新一は魔女の腹から生まれ出たれっきとした魔女の家系に連なる者ではあったけど、その使命を受け継ぐ義務も権利もなかった。
まるで……否、まさに用無しの穀潰しのような存在の新一ではあったが、魔女達はそんな風には誰も見ていなかった。


存在を隠されている代わりに、彼女たちは新一に過ぎるほどの愛情を注いでくれていた。
今、目の前にいる魔女もその一人。


「あの王子は本当に良く頭の回る、狡賢い青年だったわね。……次はもっと楽に事を運べたら良いけど」
「次?」
怪訝に訊いてくる新一に、志保は些か呆れた表情で彼を見た。
「王子が結婚したら、世継ぎが生まれるわ。その世継ぎが王子ならば、私たちの標的はその子へと移るのよ。……そして、今の王子が即位すれば、彼を狙う必要性もなくなる」

魔女が呪うのはこの国の「王子」であって「国王」ではない。
だから、もし現王子が即位し、そして夫妻の間に男児が生まれなければ、少なくともその時点では、魔女は手が出せなくなるのだ。

それはある意味、彼女達が望んでいる事でもあった。

「次の王子の時は、歩美もお手伝いするね」
あどけなく、楽しそうそうに言う歩美を見て、志保は一瞬複雑な表情を浮かべた。
まだ幼い彼女には、満足に魔法は扱えなかった。しかし、次の王子が成長する頃には、彼女も一人前の魔女になっている事だろう。
呪いとは、負だ。相手を呪えば、いずれ己が身に返ってくる。
歩美には、まだその事は理解出来ない。

新一は、志保が今どんな想いを抱いているのか。その心の内を正確に読み取る事が出来た。
館に住む者皆が、嬉々として彼を呪っている訳ではないのだ。しかし、リスクを背負っても、成さなければならないのが使命であり、宿命であった。

「……オレが、あの王子に見破られなければ……状況は変わっていたのかな」
ぽつりと漏らした言葉に、志保は眉を上げた。

そんな事……例え、正体を見破られなくとも、新一には出来ようはずがないのに。
志保はそう思いながら、冷めかけたティーカップを見つめていた。

「本当に……彼は一体どうするつもりかしらね」
呟きはほとんど声にはならなかったが、新一はそんな志保の態度に小首を傾げる仕種を見せた。


「本当に……あなたはそれほど体力ある方ではないのだから、程々にしなくてはダメよ?」
「え?何の事」

「夜更かし」
してるでしょう?確か昨夜も夜更け過ぎまで灯りが付いていたわ。と、志保が言うと、新一はあからさまに動揺したかのように、音を立ててカップをソーサーに戻す。

「あ、あの……!」
昨夜は満月だった。
何か言おうと声を上げるのだが、上手く言葉にならない。
「えー。新一お兄ちゃん、夜遅くまで起きてるの?夜は、ちゃんの寝なくちゃいけないんだよ」
少し大人ぶって説教する歩美だが、新一の耳には届かない。そして、そんな新一の心情を知ってか知らずか、志保は涼しい顔を外さずにこう言った。

「わざわざ夜遅くまで書物に夢中になっていてはダメよ?……あなたには、たくさんの時間があるのだから」
にこりと、何処かしら意味深な笑みを見せて窘める志保の声。しかし、新一は志保の心の内など知る由もなく、曖昧に笑って見せるしか無かった。
















彼の訪いは何時も突然だったが、今夜の彼の態度は今までとは明らかに違っていた。





月が昇り始めると新一は何時もそわそわと落ち着かない。
満月の夜は、夕餉の後早々に自室に引き上げて、彼がやって来るのを表面上は素知らぬ振りして待ち焦がれていた。

早く、キッドに会いたい。
先日、王子の婚礼の話を志保から聞かされてから、新一の心は落ち着かなかった。

焦がれる程に好きだった。女の格好までして逢いたい程好きだった。
それは、今だって変わらない。

だけど……この想いが伝わる事は、きっと永遠に無い。
王子は姫と結婚し、幸せに暮らしました。と、おとぎ話の結末のように……新一の入り込む隙などありはしないのだ。
そんな事、最初から判っていた事だ。

それでも未練がましく、せめて目通りが叶うだけでも良いから。
逢いたくて、逢いたくて。
決して好きになってはいけない人なのに、それでも逢いたくて。
只でさえ役立たずの新一なのに、更に姉達に迷惑までかけて。……それでも逢いたくて。

逢って、ほんの一言でもいい。
もし、言葉を交わせたら……それだけを抱いて、残りの人生を生きていけるとすら思い詰めていたあの頃。


もしあの夜、キッドと出逢っていなければ、今頃自分は壊れていたのではないかとすら感じた。


彼に早く逢いたかった。
逢って、いつものように他愛のない会話をしたかった。
普段通りに振る舞って、この気持ちの切なさを一時でも良いから忘れていたい。



新一はカーテンを勢い良く開け放つと、桟に手を掛けた。
窓を開くと、強い風が室内に流れ込む。その風の所為で燭台の灯りが消えた。
森の木々がざわめくように、葉と葉を摺り合わせる音が響いた。ゆっくりと昇り始めた月が、室内に光を注ぐ。

その光が新一に影を作り、夜の空気が周囲に立ちこめる。


その中、突然白い影が姿を現した。
新一がその存在に気付く前に、彼は音もなく彼に近付くと背後から身体毎抱き締めた。


「────!!」

一瞬にして自由を奪われる。新一は驚きのあまり、声にならなかった。
身体は束縛されたまま。

「………キッ、ド……?」
背後に向かって、躊躇いがちに問いかける。しかし、彼からの言葉は無かった。その代わり、抱いている腕が更に強く新一に絡んだ。


思い起こせば……こんな風に、いきなり抱き締められた事など、今まで一度もなかった。
彼は何時だって紳士的な振る舞いを崩さずに。それでも、初めて逢ったあの夜の告白の本気を疑わないのは、彼の新一を見つめてくる瞳の所為だった。
まるで、全てを包み込もうとするかのように、優しくて切なくて。

しかし、彼の態度の上に胡座をかいていたのも事実だ。
何も言われなければ……このまま、ずっとこのままでいられるとも。


「新一……」
絞り出すような声で、名を呼ばれた。こっちまで、心が締め付けられるような感覚が新一の胸を突く。

「新一……愛してる。こんな気持ちになったのは、貴方が初めてで……ずっと」
ずっと、一緒に居て欲しい。離れたくない。

「キッド……お前、何言って」
突然の真摯な告白に心臓の鼓動が大きく跳ねたけれど、新一は気付かぬ振りをして彼を見上げた。

キッドは双眸を固く閉ざし……それは、まるで新一を抱き締めているというより、しがみついているようだった。
伏せられた睫毛が僅かに震えている。

「キッド……何か、あったのか?」
まるで、新一に対して慈悲を請うているかのような彼の態度に、強く躊躇った。

「ちゃんと、オレに理解るように……」
「愛してる」
「キッド!」
思わず声を荒げた新一だったが、それ以上に厳しい眼で見つめられて、それ以上言葉が出てこない。

「新一は……私の事、お嫌いですか?」
「………んな事…」
「もし私を気遣うのなら、はっきり言って欲しい。……言って頂ければ、もう貴方のお気を煩わせる事はしない」

新一は苦しいくらいに抱き締めてくる腕を強引に振り解いた。自由になった身体をキッドに向けて、睨み付ける。

「お前、何そんなに急いてるんだよ!」
「私には時間がないから」


時間がない。
急いてしまうのは、私にはあまり時間がないから。

初めて新一に想いを告げた夜、彼はそう言っていた事を思い出した。
その時の新一は、彼の言葉の意味を深く考えなかった。

満月がやって来る毎に、彼は新一に会いに来ていた。それは、新一が何も言わなければずっと続くものだと、何処かでそう思い込んでいた。

「時間なんて、最初からあまり残されていなかった。……けれど、いよいよ残り少なくなってきた事に気付かされました。このまま、何時までも貴方の元へ訪い続けたいのに」
「……!」
この時になって、彼はもう此処には来なくなるのではないかと思い当たり、──新一の心が一気に冷えた。
……そんな事、考えたくない。



「私の事……嫌い?」
戸惑う新一を余所に、もう一度問いかけるキッド。新一はかろうじて小さく首を横に振って応えた。

嫌いな訳ない。
「愛」を確実に感じた訳ではなかった。それでも、好意以上の感情をキッドに対して持ち続けていた。
それはきっかけさえあれば、容易に「それ以上の想い」に成長を遂げるであろう要素を過大に含んでいた。

「なら……」

しかし、それが出来ないのは……多情な自分を認めたくないから。
新一は、そんな自分を恥じた。


「……ゴメン」
視線を逸らし呟くように放った声は、キッドの耳に届いた。




「ゴメン、キッド。オレ……好きなヤツがいる」

辛そうに告白する新一の言葉に、キッドは強い落胆と喪失感に包まれた。


キッドは気付かなかった。好きになった相手に、別の想い人がいたなんて。……考えもしなかった。


しかし、混乱したのは一瞬で、彼はすぐに冷静さを取り戻した。
辛そうに眉を顰めている新一を責めるような態度を見せたくなかったからだ。

「新一……そんな風に謝らないで。新一は悪くない」
そう告げるキッドに、しかし新一は首を振った。
「最初に言えば良かったんだ。……お前に初めて会った時、お前に好きだと言われた時、……他に好きなヤツがいる、って。……でも、言えなかった。言いたくなかった」
「何故……?」
「ゴメン……。全部、オレの心が弱い所為だ」
振り解けなかった、キッドの想いを。
「だから、お前に酷い事をした」
相手に気を持たせて、好きに振る舞った。自分の心が少しでも安らいだから。

「キッド。オレ、こんなにも好きになったの初めてで、その人の事考えるだけで心が落ち着かなくなった。……でも、オレの気持ちは届かない」

辛い恋の告白に、キッドは掛ける言葉が見当たらなかった。只、黙って彼の告白に耳を傾ける事しか出来なかった。
聞いているキッド自身も、新一以上に辛く苦しい。しかし、彼の告白は続いた。

「……最初から分かってる事なんだ。そもそも住む世界が違う、身分が違う。出会えただけでも奇跡みたいなもんなんだ。もちろん、相手はオレの事なんて、歯牙にもかけていないだろう。まみえた事なんて覚えてもいないだろう。……それでも、好きになった」
叶わぬ想い。最初から定められていた運命。それを承知で好きになった。……いや、好きになるのにそんなものは関係なかった。
一目見て、恋に落ちた。……たったそれだけ。しかし、新一にはそれで充分だった。


けど……その想いを抱えて生きていくのは、新一が想像していたよりもずっと辛い事だった。



そんな時、まるでタイミングを計ったかのように新一の前に現れたキッドに……新一は逃げたのだ。
「お前と一緒に居ると、オレは確かに幸せだった。楽しかった。元々人と接する事はほとんどなくて、オレの存在そのものがないような生まれ方をしていて……此処はオレの居場所だけど、本当のオレは此処に居ていい存在じゃなかった。けど、お前が此処に来てくれると、お前が近くに居てくれると……オレの存在を認めてくれたような気がして、嬉しかった」


「だったら……」

「お前をそいつの身代わりとしか見ていなかったオレが、今更好きと言えるか……?」
それは、キッドに対して失礼というものだ。いや、失礼なんてものじゃない。冒涜だった。





「……私は構いません。貴方の想い人の代わりでも」

背を向けて去っていくであろうと思っていた新一にとって、キッドの言葉は驚くに値した。

「おま……何、言って……」
信じられないと目を見開く新一に、キッドの瞳は優しかった。
「光栄な程です。……私の存在が、貴方を少しでも癒していたのなら」
新一が幸せなら、キッドは己の立場がどうであろうと構わなかった。愛して欲しいと願う事は止められないが、それでも彼の支えになっているのなら、それすら喜びだった。

「キッ……ド」
呆然と呟く新一に、キッドの眼差しは変わらない。

「人の心は容易ならざぬもの。貴方のその想いは誰にも抑えられない……そして、私も」
貴方を愛する気持ちは、貴方にすら止める事は出来ない。

「だから構わないんです。無理にその方への想いを押し込める必要はありません。どんな形でも良い、私は貴方の傍に居られれば、それだけで……!」

優しい瞳で優しい声で新一に語り続けるキッドに、しかし新一は堪らなくなって思わず彼の頬を叩いた。

「──んな事言うな!……言うんじゃねぇよ。そんな、そんな」
それではまるで、都合のいい男ではないか。
新一は、キッドをそんな安易に使い回し出来る様な存在にしたくなかった。

「もっと、自分大事にしろよ……オレみたいな男にそんな事言って、自分を貶めなくてもいいんだよ。……オレは卑怯者なんだから、さっさと見切り着けて出ていけば良いんだ……!」


「……貴方は、どうしてそんな事を言って、私を傷付けるのですか」
「キッド……?」
「『出て行け』なんて、今の私には死を宣告されたようなもの。私は貴方を愛してます。他の誰かが好きな貴方も含めて丸ごと全て」

「……じゃあ……オレは」
オレは一体、どうすればいいんだよ……!

新一の悲痛な叫びに、キッドは事も無げに言い放つ。

「私を受け入れて下さい。……同情でも、憐憫でも構わない。哀れな魔法使いにほんの少しでも良いから、貴方の心を傾けてさえくれれば……それだけで、私は幸せになれる」

「……やめておけ。オレの事なんか忘れちまえ!」
「今更、出来ぬ相談です」
堂々巡りだ。
新一は、それでも彼の言葉に縋ることは出来ず、激しく頭を振った。しかし、そんな頑なな態度をキッドはまるで無視するかのように近づき、そして再びその腕に抱いた。

「──キッド!!」
悲鳴のような声を上げて抵抗する新一に、キッドの腕はそれでも揺るがない。まるで、二度と手放さぬと言うかのように、きつく強く。

キッドは藻掻き続ける想い人の背中を強く抱いて、彼の肩口に口唇を寄せた。
ひくり、と肩を揺らして、彼の闇雲な抵抗が止まった。

「新一……。貴方が……貴方が心から厭うているのなら、私も諦められるのに……!」
だけど、私を見る貴方の瞳には、怒りや嫌悪と言った感情はまるで見えなくて……只その瞳の奥に、清らかなほど澄んだ色を湛えて見つめてくれる。

言葉でどれほど拒まれても……それでは諦められない。

どうにもならない想いを吐き出すように告げるキッドの声に、新一の双眸が大きく見開かれた。
灯りの消えた室内で、月の光だけが射し込む室内で、暫くの間、二人はまるで彫刻のように動く事がなかった。

森に住む虫たちの声が微かに聞こえるだけの静寂の中で……先に声を上げたのは新一だった。


「結婚する話を聞いたんだ……つい先日」
それは押し殺したような声だった。

「そいつが近い内に婚礼を上げる事は分かっていた。いずれはそうなる事くらい想像出来た。……けど、それを知った時、オレの頭の中に真っ先に浮かんだのは……キッド。お前の姿だった」
「……私……?」

「オレ、何の根拠もなく、お前がいるから大丈夫だって、思ったんだ。……お前をそいつの代わりにしようと、無意識にそう思った」

こんな浅ましい気持ちで、キッドの傍に居続けようとした自分。
これまで通りの、曖昧な友人のような関係のままでなら、保ち続けられたかも知れない。
けど、彼に対して代償行動をとる事は……それだけはしてはならないと思った。

新一に向けてくる想いが真摯であればあるほど……安易にその手を取ってはならないと。
戯れのように受け入れるのは……彼に対する侮辱に他ならない。


「新一は……その方が一番好き?」
キッドの突然の問いに新一は暫く躊躇った後、小さく頷いた。
「忘れられないほど?」

「……ああ」
少なくとも、現在(いま)は。

「でも、私のことも少しは想ってくれていますよね……?」
まるで願うかのような響きに、新一は数瞬躊躇った後、素直に頷いた。

多情だと思われる事に躊躇いはあったけれど、それが偽らざぬ本当の気持ちだった。

新一の気持ちを知ったキッドは暫くの間、じっと見つめたままだった。
藍色の瞳が新一の双眸を真っ直ぐ見つめ、暫くの後、口を開く。

「ならこう言いましょうか。……私は貴方の心の隙に付け入る事にします」
分かっていてそうするんです。卑怯なのは、私の方。貴方の失恋に付け入って、貴方の全てをこの腕に抱く。

「だから貴方は、私でその恋の傷を癒せば良いのです。……その方を無理に吹っ切らなくても良い。想いはそう簡単に消えてくれないのだから、一人で悲しむよりも、私の腕の中でほんの一時でも良いから安らぎを得れば良い」

「……キッド……」
「これ以上、拒否しないで下さい。もう、愛して欲しいなんて強請りませんし、どう思っているかなんて訊きません。貴方は私を利用すれば良いし、私も貴方のその脆さに付け込む」

「お前は……それで、良いのか……?」
「ええ。それですら、私は幸せです」
澄んだ双眸で迷いもなく応えるキッドに、新一も決心した。


おずおずと、縋るように回した新一の腕。
彼はもう、迷わなかった。











寝台が小さく軋んだ音を立てた。
しっとりと汗ばんだ身体が重なり合う。
何一つ纏わぬままの素肌が触れ合って、吐息や胸の鼓動までもが等しく重なった。

ぬくもりが優しくて。
さっきまでは、身体が軋むほど強く抱いていたクセに、今は壊れ物を扱うがごとく繊細に触れてくる指が愛しくて。
まるで恐々と言わんばかりな仕種でたどたどしく愛撫してくるキッドに、新一は切なく微笑った。
「……ヘンなヤツ」
月明かりだけが照らす室内で、ひっそりと発せられた声にキッドは、真剣な表情で想い人の顔を覗き込む。
「夢と現の狭間にいるのですよ。今の私は」
触れる事を許された自分が嬉しくて、同時に不安で。
……もし、己の都合の良い夢だったらどうしようかなんて、そんな事が脳裏を掠める。
キッドはそれ程めでたい性格ではなかったから、今のこの現実を有頂天になって貪り続けるなんて脳天気な真似が出来ない。

そう彼が言うと、新一はもう一度ヘンなヤツだと呟いた。

「かなり真剣に思っているのですが」
少しふてくされた態度で憮然とするキッドに、新一は益々笑みを深くした。……愁いを帯びた微笑みを。

「オレにとって……お前の方が幻のような存在だ」
突然新一の前に現れて、気付いた時には、彼の心の半分を奪い去っていた男。
初めて恋したあの人と会う事も叶わぬ自分の心の隙間に、易々と入り込んでこうして今、この男の腕の中にいる。

名前しか知らない、男の腕の中。
明日になれば、何処かへと帰っていく恋人。

その次があるのかどうかも分からない、不誠実な魔法使い。


何処か不確かな関係。


「……でも、それで良いのかも知れないな」
新一は肌を重ねたまま見下ろす恋人の頬をそっと指でなぞる。

キッドの事は好きだし、愛してる。こうして、身体を重ねる程に。
しかし、一途に全ての想いをぶつける事の出来ない新一には、いっそ相応しいと思った。


キッドは、そんな彼の触れてくる指先を掴んで、そこに静かに口づけを落とした。
「私自身が、信じられないですか?」
悲しみを含んだ響きに、新一は頭を振って否定した。
「信じてるぜ?……信じてなきゃ、こんな風になったりしない」

真剣にそう告げる新一の、だけど何処か曖昧な光を帯びたその瞳の輝きをキッドは見逃さなかった。

「私がどれだけ貴方の事を想っているのか、この身体を切り開いてお見せ出来れば良いのですが……」
そいつは困る、と笑って応える新一の柔らかな黒髪にキッドはキスを降らせた。くすぐったそうに身を捩ろうとする彼の額や頬に次々とキスをして、最後に甘い吐息の漏れる形の良い口唇をそっと塞いた。

「……ん」
吐息と共に漏れた小さな喘ぎに、キッドの欲は知らず知らずの内に煽られる。
ゆっくりと角度を変えて深くする口づけに、新一の身体が再び熱を帯び始め、無意識に彼の腕がキッドの背中へと回された。

戯れに終わらせるには些か官能的な口づけを与えると、キッドは名残惜しげにその艶めかしく濡れる口唇を解放した。

「……っ…はぁ」
伏せられたままの瞳。その目元がほんのりと朱に染まり、情欲を色濃く残す。

そんな新一の媚態に目眩を感じつつも、キッドは口を開く。

「明日の夜も、貴方に逢いに来てもよろしいですか……?」
「え……?」
満月の夜以外に、キッドが新一に逢いに来た事はない。その事に不自然さを感じずにはいられなかったが、此処は魔女の館。魔女の力が満ちたこの森のこの館で、彼女たちに気付かれる事なく存在し続けるには、絶対的な月の魔力が不可欠と考えれば、彼が最も強い光を放つ満月の夜にしか訪れない理由も分かる。

しかし。

「大丈夫……なのか?」
見上げる新一の瞳には、不安の色が隠せない。穏やかな逢瀬を重ねてきた二人だったが、何時彼女たちに見つかってもおかしくないのだ。

だが、そんな不安な新一を余所に、キッドは穏やかに微笑んだ。

「大丈夫。心配には及びません。明日も必ず貴方に逢いに来ます」
約束します。
安心させるようにそう微笑み、その表情を見た新一も嬉しそうに頷いた。

再び互いの口唇が静かに重なって、……夜明けまでの短い時間を二人は共有し続けた。











キッドは約束を違えなかった。
満月を過ぎたと言ってもまだ丸々と太った月が煌々と辺りを照らす森の中に忽然と姿を現すと、足元に伸びる影と木々の隙間から見え隠れする月を交互に見やって、小さく吐息を吐いた。

しん、と静まり返った森の中。只一人息づく己の存在に、僅かながら柳眉が寄った。
風も虫たちの囁きも消えた、静寂の空間に不審が募る。

と、その時。突然背後に気配を感じて、慌てて振り返った。


「こんばんは」
凛とした涼やかな声が辺りに響く。そこに立っていたのは一人の女だった。

「こんばんは。へぼ魔法使いさん」
反応しない相手に焦れたのか、彼女はもう一度言った。
月明かりが彼女に降り注ぎ、姿がはっきりと浮かび上がる。……彼女は魔女と呼ばれる一族の一人。

「これでも、王宮お抱えの魔術師の力なのですが」
キッドに驚いた表情はなかった。対峙する相手と同じように涼やかな顔をして、その口角にはうっすらと笑みすら浮かべていた。

「だから、へぼなのよ」
彼女はそう言うと、ころころと笑った。しかし、楽しげに微笑むその瞳は険を含んでいる。

「たかだか王宮付きの魔術師風情が、この森に住む魔女と対等に渡り合えるとでも?」
魔女である志保は、蔑むような口調でそう言い放つと、白ずくめの男を睨み付けた。薄紅茶色の髪がまるで怒りを表すかのように、ふわりと揺れる。

「端からお見通しよ。貴方の行動なんて、ね」
「……そうでしたか」
冷静に応えるキッドに、志保は苛立たしげに声を上げた。
「その気になれば……お前ごとき存在、今すぐにでも消し去っても良いのよ?」
「出来ますか?……貴女に」
キッドの双眸が光る。彼の纏っている純白のマントがふわりと風に靡いた。

「この魔女が支配する森の中で、まるで虫をいたぶる小動物のように私を嬲る事が出来ますか?」
それで、貴女の自尊心は平然としていられますか?

「……その邪魔なプライドのお陰で、今まで野放しにしておいてあげた事、忘れて欲しくないわね」
「そうでしょうか。……理由は他にあるのでは?」
飄々と核心を告げるキッドに、志保は知らす知らずの内に下唇を噛んだ。

「新一を……よくも新一を傷付けたわね」



「愛していますよ、彼を」
心の底から、ね。

「ふざけないで!」
「ふざけてなどいません。私は真剣です。……心から、愛してる」

「言うのは簡単な事。けど、言葉と行動が比例していないじゃない」
「……」
「ねぇ、へぼ魔法使いさん。あなた、ご自分の立場というものを理解していて?彼に近付くのは上流階級にありがちな只の戯れだとして、見なかった事にしてあげられる。けど、その所為で新一が苦しむなんて……苦しませるなんて、許さないわ」

「苦しめるつもりなど……」
「それでは、あなたは他の女を娶ったその腕で、新一を抱くとでも?」
そんな事が許されるとでも?
志保の責めに言葉を失うキッドに、志保は自嘲じみた笑みを見せた。

「ああ、確かに許されるかもね。魔女の子供、しかも男。身分も何もあったものじゃない。存在そのものすら認められていない若者。……そんな相手など、あなたの権力ならどうにでも出来るわよね?王子様?」

志保の言葉にキッドのモノクルが鈍く光った。
ざわり、と、上空で木々が大きく撓った音を響かせた。

「私は貴方自身には何の恨みもない。魔女に科せられた使命に則って呪っているだけ。……貴方にとっては迷惑な事でしょうけどね。そして、貴方は新一と関わりを持った。私達には許される事ではなけれど、彼は別だわ。彼は魔女の使命に縛られていないもの」
様子を見ようと言ったのは紅子だった。彼が新一に近付く真意がはっきりするまで見て見ぬ振りをしておこうと決めたのは彼女だった。
志保も、その後の新一の態度を見て、このままで良いと思った。
彼は、目に見えて幸せそうに日々を送っていたから。新一が幸せならば、幸せを与えるくれる者が何だって構わなかった。……それが、彼女達の忌むべき存在であったとしても。

けれど、その穏やかな日々が終焉を迎える事を、全ての事情を知る志保には分かりすぎるほど理解していた。
そして、目の前の男も。

新一に戯れ掛ける一方で、可憐な姫との婚礼の準備も進み、日取りまで決まっているというのに、それでも新一から離れない。
正体すら明かさず、最後には彼の全てを奪っていった。

その後、定められている運命に従うがごとく彼が裏切るのは必至。

この男は、次期王位継承者なのだ。彼に誠実を求める方が間違っている。新一を弄ぶだけ弄んで、最後にはうち捨てるであろう未来など、志保はゴメンだった。

愛していると囁いておきながら、真実は只の一粒たりとも告げてはいないこの男を最後まで信用し続ける新一が哀れでならない。

だから。

「……もう二度と、新一に関わらないで。新一を利用して私たちを封じ込めようなんて姑息な真似は、身分尊き王子様のする事ではないわ!」
怒りのままに叫んだ志保に、しかしキッドは打ちひしがれるような態度は見せなかった。

むしろ……志保よりも彼の方が……。



「……私が本気でそのような事の為に、彼に近付いたとでも」
先程までとは全く違う、その異質な低い声に、志保は喉を詰まらせた。

冷えた空気が白い炎となって周囲を取り巻いているかのような彼に恐怖を感じ、思わず後ずさりしそうになったが、志保は寸での所で踏み止まった。
呪うべき相手にのまれるなど、それこそ自尊心が許さない。

「私達が館への侵入を許したのは新一の為よ。彼が望んでいたから、私達も目を瞑っていてあげた。魔女にとっては、呪うべき相手だけど、新一には関係ないもの。彼が幸せそうに微笑っているのなら、私はそれを守るわ。……けど、不実な男には渡せない。偽りの身分で近付き、最後まで騙り続けるような男には」

反論出来る?全てを偽りで固めた貴方に。

志保の言葉は容赦がなかった。キッドは咄嗟に言葉を返せず、只硬質な表情で相手を見据えていた。

「それでも、私は会いに行かねばならない。……新一と約束した」
今宵も訪うと。
キッドにとって、新一との約束は絶対だった。しかし、対する志保の方は冷ややかな眼差しで口角を歪めた。


「なら、もう少し力のある魔法使いの力を借りるべきだったようね。……そろそろ限界なんじゃない?」
その言葉の意味を探ろうと眉を顰めたその時、キッドは己の身体の中から力が抜けるような感覚を覚えた。
くらりと大きく身体を崩すキッドに、志保は楽しげな笑みを益々深くする。

普通の者は、この森を訪れる事は出来ない。魔女の結界が張られているからだ。運良く裂け目から紛れ込めたとしても、再び森の外へ抜け出す事は出来ない。
キッド自身の力では、最初から踏み込む事すら出来ない土地なのだ。
それでも侵入が可能だったのは、彼が白の魔法使いの力を一時的に使えるような術を施されていたからだ。
それは、術をかけ続ける事によって、かけられた本人にもある程度の魔法を使う事が出来た。

しかし、その事を察知していた志保は事前に紅子の力を借りて、この森の外部からキッドへと送られて来る力の供給を遮断した。
元々彼には魔力などない。このまま留まり続ければ程なく力を失って、この森から出られなくなるだろう。

魔女の森は迷い森。彼女達の加護がない限り、何の魔力も持たぬ者が森の外へ出られる事はない。このまま野垂れ死ぬだけだ。

「魔術を使えない妖精には、この森の空気すら毒になるかも知れないわね。……特に綺麗な場所でしか生きて来なかった、高貴な妖精さんには」


志保の言葉を待つまでもなく、キッド身体は支えきれなくなって片膝をついた。
それでも、魔女から視線を外そうとはしなかった。

そんなキッドの態度に志保は冷酷な視線で睨み返した。
「……殺しはしないわ。呪い殺してあげても良いけど、それはまだ早過ぎるもの。……新一にしてくれた仕打ち、きっちり償って貰ってからでないと面白くないわ」
この手の男は、自身が不幸に見舞われるよりも周囲に災いが及ぶ方が堪えるタイプであることを志保は見抜いていた。



「このまま王位を継げば良い。そして、王妃との間に子を成し……その者が王子であれば、今度こそ全身全霊をかけてその子を呪ってあげる。手加減なんてしないわ。貴方にはもう、幸せな日々を送らせはしない。苦しんで苦しんで、そして後悔するといい。魔女の一族に連なる者を、戯れに手に掛けた事を、ね」











新一が自室への扉を開くと、消しておいたはずの明かりが灯されているのを見て怪訝に思った。
しかしすぐに燭台の傍にいる人影に気付き、ほんの少し躊躇する。

「おかえりなさい」
艶のある声が静かに響いた。

「こんな時間に……何処に出掛けていたの?」
声の主は艶やかな漆黒の長い髪を僅かに揺らして問いかける。燭台の灯りが彼女の美しい顔を更に神秘的な陰影を作った。

「……姉さん」
新一は問いつめる風でもなくさらりと訊いてくる姉の紅子に内心戸惑いながらも扉を閉めた。
彼女が新一の部屋を訪れる事は少ない。こうして、主のいない部屋で待っていた事など、今まで一度もなかった。

「姉さんこそ……わざわざオレを待ってるなんて珍しい。何か用でもあった?」
新一は戸惑いを押し隠して、殊更明るく声を掛けた。
夜露にしっとりと濡れた髪が跳ねた。

紅子は長居を決め込むかのように燭台の傍の椅子に腰掛けた。テーブルに無造作に積み上げられている書物を手元に引き寄せる。
「用……という程の事ではないの。只、久しぶりに貴方とゆっくり話をしたくて」
「こんな夜更けに?」
怪訝に問う新一に、
「こんな時間だからよ」
と、紅子はそう言って微笑んだ。

手持ち無沙汰のように、彼女は書物を開いた。それをゆっくり捲っていく。
「……新作ね、この本。貴方の好きな話ね」
でも、この国で手に入れるにはもっと時間が掛かるはずだけれど。

何気なく呟く紅子の言葉に、新一は彼女が何の為に部屋を訪れたのかを察した。


「最近ご機嫌だったのは、これの所為なのね」
ぱらりと捲っては、徐に次の頁へと進む。

「……借り物、なんだ」
瞳を伏せる新一に、紅子は「そう」と一言だけ興味なさげに応えた。
形の良い白い指が無造作に頁を捲り、暫くそれを繰り返した後、まるでそれに飽きたかのように書物を閉じた。

「新一」
「……何?」
紅子の先程とは全く別の硬質な響きを持った声に、新一も知らず強張る。

「私達は貴方を愛しているわ」
「……姉さん」
「私達にとって、貴方は心の拠り所なの、支えなの。貴方が居てくれるから、私達は己の運命を受け入れることが出来る」
真剣な声だった。

「私達は、貴方が幸せでいてくれれば、それに勝る喜びはないわ。……幸福になって欲しいの」

「……オレだって、同じ事思ってる。皆には迷惑しか掛けられないオレだけど、姉さん達皆の幸せを一番に願っている」
「迷惑だなんて……そんな風に自分を見るのはお止しなさい。何度もそう言っているでしょう?」
「でも、オレ何も出来ない役立たずで……」
存在そのものがひた隠しにされている存在が、迷惑以外何物でもない。

「魔女の血縁なのに、女じゃない、魔力もない。間違って生まれてきたとしか言いようがないオレを……」
「間違って生まれてきたのなら、私はそれを神に感謝するわ」
紅子はキッパリ言い放った。
「恐らく志保も園子も同じ事を言うわ。……私達姉妹にとって、貴方はなくてはならない存在なのよ。──もう、そうなってしまったの」
だから、今更『無かった存在』にしてしまえるはずもない。

「皆、貴方の為を思ってる。貴方が幸せでいてくれるのなら、それだけで良い。……私達は貴方を守る為なら、どんな事でもするわ」
「ね……さん」

「覚えておいて。私達は貴方を愛しているという事を。……貴方の幸せを守る為なら、どんな事だって厭わない」
真剣にそう告げてくる紅子に、新一は言葉を失ったかのように立ち尽くしたまま動くことが出来なかった。

「何だってしてあげるわ、貴方が望むなのなら」
蝋燭の炎がゆらりと揺らいだ。

「新一。……今、私に望む事はなくて?」
「……え……?」
消え入りそうな、掠れた声で尋ねる。何を言われているのか、咄嗟の判断が出来なかった。

「貴方の心が安らぐのなら、何だってしてあげる。……貴方を悲しませるものを全てを消してあげるわ」
言外に「何か」を匂わせる紅子の言葉に、新一の心は固まった。

紅子は、新一の秘密を知っている。……いや、紅子だけではない、この館に住む全ての魔女達に。





「夜更けの外出は……誰かを迎えに行ったのかしら?」
突然話を逸らされた。……否、核心に触れようとしている。

ああ、そうだ。

志保が……彼女が居た。夜更けの森の中に、見たことのない厳しい顔つきで、相手に詰め寄っていた。
非難、弾劾。志保には全く関係ない事を、まるで我が事のように罵っていた。……新一の為に。
あんな風に他人を罵倒するような人ではないのに。

そんな風にさせてしまったのは新一。
自分の軽率さが、彼女をそんな風に駆り立てた。

悲しみも苦しみも……全て自分が招いた事なのに、志保も……そして紅子も、心を砕いて真摯に想ってくれている。
嬉しくて、悲しくて、そして辛くて。そんな価値、自分にはありはしないのに。


「ゴメン……」
無意識に漏れた謝罪の言葉。しかし紅子は形の良い眉を吊り上げた。

「そんな言葉、聞きたくないわ!……謝ってなどほしくないのよ。どうして……」
どうして、理解ってくれないの?

「私は責めてなどいないのよ?……少しでも、貴方の心が晴れるなら、その手助けが出来るのなら、何かをしてあげたいの」
そう言ってから、紅子は小さく首を振った。
「……いいえ、違うわ。私がそうしたいの。新一を傷付けたその代償をあの男に払わせてやりたいのよ」
怨詛を抱いたその言葉に、新一は驚愕に震えた。


「だっ、ダメだ!──そんな事、オレは望んじゃいない!」
思わず叫んだ新一を、紅子は信じられない目で見た。


「新一。貴方、自分の立場が理解出来ていないの!?」
谷間で必死に咲かせている花を戯れに手折るような真似をしたのはあの男だ。
一時の興に任せて、相手の人生に割り込んで、そしてさっさと打ち捨てたようなその行動を誰が許せると言うのだろう。


「……理解してなかった」
理解っていながら、それから目を背けた。だから、彼を館に招き入れた。
自分の立場もわきまえず、個人的な感情だけを優先させて、周囲を見なかった。
だから、これは報い。

誰を責める事も出来ない。


只……願わくば、彼が自分の事など気にせずに、幸せな未来を築いて欲しいと。
彼が幸福で居ることは、即ちこの国の繁栄に繋がる。

……ああ、それだって魔女の血を持つ新一には許されない願い。


どっちを向いても、新一には辛い現実ばかりが目の前に立ちはだかる。

「大丈夫だよ。……オレはそんなに弱くないし、今までと何一つ変わっていない」
「……新一」
言葉を詰まらせる紅子に、新一はことさら明るく言った。

「オレの事をそんなに気に掛けなくても良いんだ。オレは今でも充分幸せだし、……姉さん達が幸せに微笑っていてくれるのが何より嬉しいから」
だから、姉達が新一の為になんて、何もする事はない……。

これて良い……これで。もう終わったんだ。
新一は何度も心の中でそう思い込ませながら、紅子に笑って見せたのだった。





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Open secret/written by emi

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