すてかいと
六月の雨は憂鬱だ。
六月は、例え晴れていても、何処かしら「じとじと」と不快な空気を纏ってる。
六月の雨は憂鬱だ。
彼は、何時も気怠さを連れてくる。
どんよりした重い空は、見ているだけで気持ちを萎えさせる。
工藤新一は、六月には馴染み深い天候の中、急ぎ足で家路に向かっていた。
雨が降っていた。新一の差しているコバルトブルーの雨傘が、小気味よいテンポで音を奏でている。
雨音は次第に激しさを増す。
警視庁を出る時は、「しとしと」だった。
送ってくれるという馴染みの刑事を断ったのは、これから自分の向かう場所を知られたくなかったから。
新一は現在自宅を離れ、別の場所に住んでいる。理由があって、他人には知られたくない。……特に警察関係者には。
「しとしと」が「ざぁざぁ」になって、アスファルトに打ち付ける雨が勢い良く弾かれる。靴も裾もしっとりと濡れてしまって、かなり気持ち悪かった。しかし、焦ったところで濡れなくなる訳でもない。
新一は諦めに似た顔で溜息をもらすと、少しだけ歩調を緩めた。
ざぁざぁと、激しく空は涙を流している。バチバチと、傘に穴が開くのではないかと危惧するほど強く叩き付けている。
と、その時。
────みぃ。
激しく降り続ける雨音に混じって、何かが聞こえた。
ぱしゃぱしゃと、新一が歩くとアスファルトに薄く堪った水が路面を跳ねる。
────みぃ。
また、何か聞こえた。
新一は歩みを止めて、くるりと辺りを見回した。
声の主は、新一から数メートル離れた路肩の向こう側に居た。
正確には、路肩の向こう側にぽつんと捨て置かれているダンボールの中、らしい。
どうやら、そこからか細いとは言い難い、いやにはっきりした鳴き声が聞こえているのだ。
新一は、左右を確認して急いで道路を横断した。ぱしやぱしゃと跳ねた水がズボンの裾をしこたま濡らしたが、仕方ない。どうせ、最初から濡れ気味だったのだからと諦めて、目的の場所に向かう。
路肩の向こう側は、雑草で覆われていた。六月の雨は緑を勢い良く成長させる。勢い良く元気に伸びる雑草群の間に、ぽつんと、しかし強引にその場に置かれていたダンボールは、濡れているを通り越して、ぐっしょりだった。
よれたダンボール箱の上部を開いて、覗き込む。
みぃぃぃぃ!!!
勢い良く泣き叫ぶ物体が、新一の視界に飛び込んできた。
「何だ、……ただの捨て快斗か」
新一は、がっかりした表情を隠さずに呟いた。
快斗。
それは数年前、日本で爆発的にヒットした、コンパニオンアニマル。
快斗科快斗属に分類されるそれは、犬猫よりもはるかに高い知能と知性を併せ持ち、且つ気性も荒くなく育てやすい動物だった。
しかし、どんなに可愛がられようと愛されようと……ブームが過ぎると何とも哀れな処遇を受けるのがペットの運命でもある。
急激に且つ爆発的に人気を得た快斗は、これまた一気に人々に飽きられ、そして嫌われた。
原因は、色々ある。ひとつは、快斗にはバラエティがないこと。
全ての快斗が全く同じタイプであった。眼の色、肌の色、髪の色、余程酷な育て方さえしなければ、成長度合いも全く同じ。
しかも、かなり「構って度」が高く、遊んでやらないと、すぐにいじける拗ねる怒る。
極めつけは言葉を話す事だった。
当初は、これが一番の売りだった。話を理解するだけではなく、人間とほぼ同一の声帯を持つ快斗は、言葉を教えればしゃべる事が出来た。いや、教えなくても、快斗は人間の言葉を覚え会話をこなす事が出来たのだ。
寂しい現代人の心の透き間を埋める存在として、快斗はは重宝されるであろうと思われた。
しかし、それは誤算だった。
話すペットの煩わしさは、飼い始めた頃の物珍しさが過ぎれば、只の五月蠅い動物でしかなかった。
しかも、飼い主の言葉を完全に理解する動物である。飼っている内に煩わしさと……そして、まるで監視されているかのような薄気味悪ささえ覚える飼い主は少なくなかった。
現代人の心を癒すはずの快斗が、いつの間にか快斗のご機嫌を窺いながら生活を余儀なくされる人間達で溢れかえる。
本末転倒である。
そして、一時のブームを過ぎ、現在快斗はほとんど飼われる事がなくなった。
しかし、飼い主から逃げ出した一部の快斗や捨て快斗は野生化し、この日本の片隅に隠れて生息しているという。
新一の目の前にいるのは、そんな快斗の内の1匹だった。恐らく、家の軒下にでも勝手に住み着かれ、生まれた快斗の処分に困ってこんな所に放置されたのだろう。
しかも、まだ話す事が出来ない程、この快斗は幼かった。
みぃみぃみぃ。
切なくなるような甘えた声で、必死に媚びを売る。一見可愛い。
しかし、新一は快斗はもとより、一般に動物はあまり好きではなかった。
何より、自分の面倒すら時に疎かになる新一に、この厄介な快斗の面倒を見る事なんて出来るだろうか。
……恐らく出来ない。
「悪いな、他を当たってくれ」
新一は無情にもそう言い放つと、立ち上がった。
雨足は一向に衰えない。快斗が濡れないように、ダンボールの蓋を元に戻してやると、家に向かって歩き出した。
ぱしゃぱしゃと、靴がアスファルトの上を滑ると水が跳ねた。行き交う車が飛ばす水飛沫に気を使いつつ、歩き続ける。
快斗と別れて10分ほど経った頃だろうか。
ぴしゃぴしゃと、何かがアスファルトの上を歩くような不自然な音が背後から聞こえたような気がして、新一は何気なく振り返った。
ぴしゃぴしゃと、小さな飛沫を上げながら、必死になってついてくる物体が目に入った。
「……快斗」
みぃみぃみぃ!
泣きながらついてきた快斗は、新一に自分を認めて貰えると、勢い良く駆け出し、新一の足元にしがみついた。
濡れそぼって汚れた身体で引っ付かれて、新一は溜息をもらした。
マンションの鍵を開けると、新一は「ただいま」と声を上げた。
現在、新一はこのマンションで、恋人と同居中の身であった。
どうしてそうなったのかはさておき、……まぁ、新一の弱いところを突かれたのは確かだ。
そしてまた、厄介なモノを連れてきてしまった。
何と説明しよう。
新一がそんな事を考えている間に、同居人はすぐに出迎えに現れた。
「お帰り、新一」
用意周到にタオルを一枚携えた彼は、とろけるような微笑を浮かべて、新一の頬をキスをした。
「……キッド」
不機嫌な顔をしながらも、いつもの事なので怒らない。別に嫌な訳ではないのだ。ただ、無性に恥ずかしく感じるだけで。
「こんなに濡れて。……連絡してくれれば迎えに行ったのに。風邪でも引いたら誰が看病すると思ってる?」
そんな風に言いながらも、瞳はとてつもなく優しい。この男は、新一に異常な程甘かった。
濡れた髪や肩を優しく拭っている間、新一は大人しく立っていた。しかし、突然胸の辺りがもごもごと蠢いたのにキッドは気付く。
「……?」
少し驚いて手の動きを止めると、新一が困ったような顔をして見つめてくる。
キッドは微苦笑を浮かべた。その大きさ動きから、大体の予想をはじき出す。
「新一。何連れてきたのか知らないけれど、このマンションはペット不可だよ」
キッドは動物は嫌いではない。むしろ好きな方だ。しかし、彼は生涯を名探偵の面倒を見る事に捧げているので、他の何かの面倒までみるつもりはなかったが新一がどうしても、と言うのなら考えなくもない。
しかし、新一がおずおずと服の間から取り出した「それ」を見て、それまでの好意的な考えは見事に吹っ飛んだ。
「快斗じゃないか!」
思わず非難の声を上げたキッドに、新一は首を竦めた。
しかし、薄汚れたそれは構うことなく、みぃみぃと元気な声で鳴いている。
その声を聞いて、キッドの顔は益々不機嫌になる。
「捨て猫でも拾ってきたかと思えば、……よりにもよって捨て快斗なんて!」
信じられないと頭を振るキッドに、新一も戸惑う。
「なぁ、キッド」
「ダメだ。元居た場所に戻して来い」
キッドは先まで言わせる事なく、ぴしゃりと言い放つ。
昨今、捨て快斗問題は行政も頭を悩ませている厄介なイキモノだ。
知能の高い快斗は、町のカラス並に忌み嫌われている。もちろん、快斗には罪はない。勝手に人間達が彼を懐かせ、そして、責任を全うする事なく放棄した。
快斗達が人間を嫌うのは当然で、そんな人間達に害を及ぼそうとする気持ちは分からなくはない。
しかし、それとこれとは話が別だ。
「なぁ、キッド。……コイツ、あのままだったら、いずれ誰かが連絡して、保健所に連れて行かれる」
「なら、それがその快斗の運命だ」
一々、生き物の将来を愁いていては、生活なんてしていけない。
町は、大なり小なり殺戮で溢れている。それを認められないのであれば、人間は生きてはならない。
新一だってキッドだって、間接的に生き物に手を掛けているのだ。……だから、生きている。
「キッド、オレは弱肉強食とか、そういう話を聞きたいんじゃない。コイツは、この快斗はまだ小さくて、話す事もできないんだぜ?話せない快斗が保健所に行ったら翌日には処分される」
話せない快斗は捕獲された他動物達に混じって、同じ運命を辿る。
昨今、そういった処分の仕方も見直されては来ているが、快斗は別だった。
犬猫と違い、ほとんど貰い手の付くことのない快斗は、里親募集の告知すらされない。
需要がないのだ。
「快斗だけはダメだ」
「キッド!」
「どうせ、自分で面倒なんて、見られないだろう?」
「オレ、ちゃんとする」
「嘘ばっかり。そんな根性ないくせに」
「そんなことない!頑張って、コイツを立派に育ててみせる」
「新一……。快斗を育てるっていうのは大変なんだぞ?成長した快斗は体長60センチにもなる。ちょっとした幼児の大きさだ。しかも、好き勝手にしゃべるんだよ?新一の大切な読書の時間も、全く構うことなく好き勝手に暴れるのが快斗なんだ。……たくさんの人達が快斗の飼育を途中放棄している現状を知った上で、それでも新一は我を通すのか?」
「……そ、それは」
「新一は責任感が強い人間だって事は、オレが一番良く知っている。けれど、生き物を飼うって事は、容易な事じゃない。新一だって分かっているはずだ。自分には生き物を育てるだけのスキルがないことくらい」
快斗がみぃと鳴いた。
新一は、あまりにも的を射たキッドの言葉に返す言葉もなかった。
だけど、新一はあの雨の中、快斗を見付けてしまった。快斗は、無情にも立ち去った新一の後ろを必死になってついて来た。
もう、それだけで、新一は快斗に運命を感じたのだ。
キッドとは別の、だけどこれもまた譲れない運命を。
完全に怒った顔したキッド。新一が見つめても、その表情は変わらなかった。
新一は仕方なく溜息を一つ吐くと、快斗を抱いたまま、くるりと踵を返した。
「捨ててくる」
ぽつりと漏らして、ドアを開けた。
突然物分かりが良くなった新一に、キッドは安心した。
しかし、同時に妙な胸騒ぎを覚えた。
「新一」
「大丈夫。……ちゃんと捨ててくる。オレも一緒に」
新一はそう告げると、扉を閉めた。
キッドは、最後に言った新一の言葉の意味が理解できなくて、暫くの間呆然と立ち尽くしていた。
雨は、未だ止むことなく降り続けている。
コバルトブルーの雨傘を再び開いて、濡れた路面に足を踏み出した。
みぃ。と、少し心細げに快斗が鳴いた。そんな快斗に、新一は安心させるように、ふんわりと微笑んだ。
「大丈夫。オレの家に帰るだけだから」
新一には、ちゃんとした家があった。自宅に戻れば、誰にも邪魔されることなく快斗を飼う事が出来る。
だって、あそこには、新一にあれこれ言う人間なんていないのだから。
でも……。
「………捨てられたのは、快斗じゃなくて、オレの方かも知れないな」
新一は寂しそうにそう呟いた。
どうしてどうして、あんなに強硬にキッドが反対したのか理解出来ないけれど、一度拾ってしまった快斗を再びあの、冷えたダンボールの中に戻す事は出来なかった。
だって、可哀想だし。
……もしかしたら、嬉しかったのかも知れない。新一に甘えてくれるような存在は今までなかったから。
キッドは新一をとことん甘えさせてくれるけれど、彼が自分に甘える事なんて、全くと言って良いほど、ない。
だから、庇護を求めてじっと見つめてくる瞳に、新一は耐えられなくなって、手を差し伸べた。
守ってあげたいと、そう感じたのだ。
取り敢えず、出来るだけの面倒をみてやろう。
快斗は賢い動物だ。言葉を覚える頃には、大抵自分の事は自分で出来るようになる。それまでに一通りの躾さえしておけば、良い話し相手になるだろう。
寂しさを忘れさせてくれるような存在になるはずだ。
みぃ。と、懐に入れられた快斗が静かに鳴いた。暖かい体温にくるまれて、まるで安心するかのように。
懐に快斗を隠したまま、電車とバスを乗り継いで、久しぶりに自分の町に帰ってきた。マンションからそれほど離れていないのに、やっぱりこの町は新一が住んでいた場所だ。そこかしこに懐かしさが漂う。
雨だから、きっといつもより感傷的になっているのかも知れない。そんな事を思いながら、通い慣れた道を歩く。
快斗は眠ってしまったようで、静かに新一の中に丸まっている。
そのあどけなさが可愛くて、新一は微笑う。
ぱしゃん、と水を跳ねて新一は立ち止まった。久しぶりに帰ってきた自分の家の前で、鍵を開けようとして苦笑を漏らす。
この家の鍵なんて、持ち歩いているはずがない。ここは新一の家だけど、今彼がいる家は此処ではない。
もう随分前から新一の帰るべき家は、他にあった。
「博士ん家行って、鍵、借りて来なきゃな」
懐の中の快斗に話しかけるようにそう言うと、踵を返す。深くさしていた傘をくいと持ち上げ、少し変わった形状をした隣家に視線を向けようとした時。
少し離れた所に、ブルーブラックの雨傘が見えた。
新一と同じタイプの……同じ日、同じ場所で二人で一緒に買った揃いの雨傘。
「キッド……」
思わず呟いた新一の声はとても小さくて、雨音にかき消されてしまった。だけど、彼はまるでその声に引き寄せられるかのように、ゆっくりと新一の傍にやって来て立ち止まった。
懐の中の快斗がもぞりと動いた。
「帰ろう、新一」
キッドは優しく笑った。諦めや呆れと言った空気を漂わせることなく、ただ限りなく優しい声で。
「快斗は……?」
戸惑いがちに訊ねる新一の声には、微かな不安と戸惑いが含まれていた。どんな時でも、決して揺るぐことのない怜悧な眼差しは影を潜め、恋人の言葉を待っている。
雨は、相変わらず路面を濡らし続けている。
「ペット可のマンションに引っ越そうか」
遠回しにそう言ったキッドの言葉に、新一は嬉しそうに頷いた。
雨が、リズミカルなメロディを奏でる。
重なるくらい近付いた二人の雨傘の上を、水玉が滑って地面で弾けた。
雨音が周囲の音を消し去って、この世界に存在するのは自分達だけのような感覚を覚えた。
雨のカーテンと傘に隠れるように、キッドからの不意打ちのようなキスを受けても、それが大胆な行動には思えなくて、不自然に跳ねた雨音すら耳に入らなかった。
落ち着いた、だけど何処かしら楽しそうに響く軽やかな声を掛けられるまで。
「……あら。珍しい人がいるわね」
突然二人の間に飛び込んできた声に、二人は思わず身を離した。
「──み、宮野!?」
慌てていたのは新一だけで、もう一人の方は至って涼しい顔をして、不躾な闖入者に対しても「こんにちは」と優雅に微笑って挨拶した。
挨拶された方は、ほんの少し眉を上げてその挨拶を受け流す。
「博士に会いに来たの?」
用と言ったら、それくらいしかないだろうと言わんばかりに訊いてくる志保に、新一は少し戸惑った。
「そうですね。……折角此処まで来たのだし、お隣に顔を出したら如何です?」
キッドが新一にそう提案する。「あら、博士に会いに来た訳じゃないのね」なんて志保は意地悪く笑った。
きっと彼女は、どうせ二人が他愛のない痴話喧嘩でもして、キレた新一をキッドが追いかけてきた、とでも思ったのだろう。
……あながち、的外れな考えではないが。
志保は、ライトグリーンにサーモンピンクの縁取りが愛らしい深張りの雨傘をくるりと回した。
新一はその傘の動きに視線を向けた。そして志保の方は、彼の身体が小さく、しかし不自然に蠢いたのを見た。
「人生、色々あるものよね」
唐突に志保は言った。
「大人が子供になれるご時世だから、今更別に何も驚かないけど」
自分の責任など棚の上に放り上げて言葉を続ける。
「で、予定日は何時?」
新一のもごもごと動いている腹部を指差して、あっけらかんと訊いてくる。
「……ばっ!!」
一瞬何言われたのか理解出来なかったが、それでも間を置かずに新一が赤くなって反論しようとした直後、快斗が「みぃ」と鳴き声と共にひょっこり顔を出した。
外の賑やかさに好奇心を掻き立てられたのか、大きな瞳を更にくりくりさせて、湿った空気を嗅いでいる。
「これって……もしかして、快斗?」
新一の胸の間から無防備にも顔を出したその動物に、志保が問いかける。
快斗は肯定するように「みぃみぃ」と嬉しそうに鳴いた。
「…………か、可愛いわ」
貰い手がないなら、私が飼ってあげる。
快斗に触れて抱きしめて、いたく気に入った志保がそう言い出すのに時間は掛からなかった。
しかしながら、快斗が「あの」快斗であることなど、全く気にしていないような志保に新一は慌てた。
「大丈夫よ。快斗の生態は以前少しだけ調べた事があるの。……とても、興味深い生き物だわ」
腕の中で喉を鳴らす快斗の頭を優しく撫でてやりながら、新一も滅多に目にしたことのないような穏やかな顔で、そう言った。
だが。
実験動物しか扱ったことない志保が、本当に快斗を「ペット」として飼ってくれるのだろうか。
悩む新一を余所に、しかしキッドは嬉々としてそれを押し付けてしまった。
「大事に育てるわ」と言ったが、……どこまで本気なのか、判断がつかない。
大切そうに抱いて、隣家へと帰っていく志保を複雑な表情で見つめながら、新一は大きく溜息を吐いた。
壊れた鍵盤を叩くように、路面が音楽を奏でている。
雨は、止む気配すら見せずに降り続く。
「貰い手が見つかって良かったじゃないか」
キッドは明らかに機嫌良さそうだった。しかし、新一の心中は複雑で、キッドほど手放しで喜べない。
「オレが……育てても良かったのに」
手離してしまうと、途端に寂しくなったのか、声のトーンが低くなる。懐の温もりが消え失せて、更に寂しさが募る。キッドは少しだけ顔を曇らせたが、新一は気付かない。
「そういや、キッドは何であんなに快斗を飼うの嫌がったんだ?」
ふと過ぎった疑問を訊いてみた。
キッドは新一などよりずっと動物が好きだ。新一が拾ってきたのが快斗だと知るまでは、別に飼うことに異論はなかったような態度だった。
それが快斗と知った途端に態度を豹変させた。それが何処か解せない。
ブルーブラックの傘が、ふと新一を追い越していく。
「キッド」
追いかけて、追いついて、隣を歩く。大きな傘の所為で寄り添う事は出来ないけれど、新一にとっては悪くない距離だ。
「……オレさ、何でお前がそこまで強く反対したのか良く判らなくて」
気に障るような事だったのだろうか。……確かに面倒なモノを連れて来たかも知れないが、新一に対しては、常に砂糖菓子よりも甘いキッドにしては、その時の態度は新一の首を傾げさせる程度には不自然だったのだ。
すると、キッドの歩みがぴたりと止まった。
「判らない?……オレがアレを飼うのを嫌がった事、本当に?」
くるりと隣を向いて、新一を見つめてくる。
「……そりゃあ、扱いにくい動物かも知れないけど……お前の態度はいつもより度を越していたように思う」
取り敢えず新一が思っていた事を告げると、キッドはあからさまに溜息をついた。
「快斗ってさ。成長するとしゃべるんだよ」
「知ってる。だって、そこがウケたんだろ?」
「しかも、新一と違って、スゴイおしゃべり」
「お前だって、結構しゃべる」
「いっぱいの愛情を欲しがるし、構ってやらないと手が付けられないし」
「……何?オレが快斗に愛情注ぐのが嫌だったとでも言うのか?」
「……そうじゃない」
キッドは首を振った。新一が快斗ばかり構うのを想像するのは楽しくないが、別にそれで嫌がったのではない。
「快斗はさ……愛情を与えられる人間に好意を示すんだ。……そうしたら、言うだろ?」
「……?何を?」
「新一が、好き」
「……?」
小首を傾げる新一。コバルトブルーの傘が揺れる。
「『新一が好き』って、お前に言うだろう?」
それが気に入らない、嫌なんだと、キッドは憮然と言った。
「新一に向かって「好き」と言っていいのはオレだけにしておきたいから。───だって、それはオレの特権だろ?」
真面目な声で言い放つその表情は、真剣だった。
「………って、お前。……その為だけに?」
「じゃあ訊くが。……新一だって、他の誰かが面と向かってオレの事好きだって四六時中言われたら嫌じゃないのか?」
「……そりゃ……まぁ」
そう……かも。
確かに。その手の感情表現が苦手な新一ではあるけれど、滅多に口に出来ない「好き」は、キッドにだけに伝えたいし、他の誰にもその権利を渡したくはないと思う。
……今の今まで、考えた事もなかったが。
「オレは、己の権利を死守したまでだ」
独占欲と支配欲を織り交ぜたような傲慢な態度。
それに気圧されるように新一は後ずさったが、その数瞬後には呆れたような薄笑いを浮かべていた。
何時もなら、そんな言葉と態度を取られたら、絶対許さない。
所有欲を覗かせる態度は、まるで自分を物扱いしているようで、不愉快だ。
けど……まぁ。
……今は、悪くない気分だ。
そう、新一は思った。
バス停までの道程を、二人の足音と、それを彩るかのように降り続く雨の音が重なる。
先に行くキッドの後を新一は小走りで追いかける間、少しだけ快斗の事を思った。その姿を一瞬だけ思い浮かべて、そして忘れた。
これから、こんな風に雨の降る日は、少しだけあの動物の事を思い出すだろう。そして、こうして恋人と雨の中を並んで歩いた事を。
そんな風に思い出すくらいなら、恋人も笑って許してくれるに違いない。
六月の雨は憂鬱だけど、今日の雨は悪くない。少し幸せな気分に浸れた気がした。