かいかいと
「遊びに行きたいの」
そう連絡を貰ったのは、梅雨もすっかり明け切った8月のある日。
新一の生命維持装置(エアコン)が毎日フル稼動している、この暑くうだる日々。
電力会社の顰蹙などモノともせずに基本設定を思いっきり下げた室内には、新一と、一分の隙間もないくらいにぴったりと寄り添ったキッドが居る。設定温度を限界まで下げているのは、新一ではなくキッド。
「遊びに行きたいの」
そう連絡を受けた新一は快諾したのだが、隣のキッドは渋い顔を隠さない。
「こんなにこんなに暑い日だって言うのに……別に来なくても良いのにねぇ、新一」
普段、外面だけは完璧なキッドが、あからさまに嫌そうに言う。連絡が入った時、新一の後ろで「反対反対、絶対反対!」と喚いていた男である。
電話の向こうで、含み笑いを漏らしていた新一の元お隣さんは、たじろぐ事なく、己の希望を告げるのみ。
新一自身に異存は無かったから、あっさりと了承したけれど、キッドはふてくされた顔をしたまま黙り込んでしまった。
子供みたいな態度に呆れるやら笑えるやらで、取り敢えず新一はキッドの好きなようにさせている。
そんな彼は「邪魔者がやって来る前に、いっぱいスキンシップしとかなきゃ」と言って、新一にぴったりくっついたまま離れない。
ぎゅっと抱きしめて、髪やこめかみや頬にたくさんのキスをしてくる。くすぐったさに身を捩るのも許さず、更に腰に回した腕に力を入れて、ぐいと引き寄せる。来客があるのを踏まえた上での戯れだから、新一も許してる。キッドの指がどんなに艶めかしく蠢いて新一の身体を煽ったとしても。
「……キッド、分かってんだろうな」
首筋に顔を埋めるキッドに向かってそう牽制の言葉を吐くと、彼はまるでそれに応えるかのようにそこを舌で嘗め上げる。
「……んっ」
思わず上がる艶やかな声を満足気に聞いて「分かってるよ」などと言葉を返す。
工藤新一にはスイッチがある。どんなに煽られて、頬を染めて瞳を潤ませても、スイッチ一つですぐに素面になる。
スイッチになるのは色々で、例えば事件を知らせる電話とか、呼び鈴を鳴らす音とか……。
計ったかのように、軽やかな音が室内に響いた。新一は無情にもキッドを押しのけ立ち上がる。
その表情には、先程までのキッドとの戯れなど無かったかのような涼やかな顔。
「来たみたいだ」
新一はそう言いながらリビングを後にする。
そんな彼の後ろ姿を目線で女々しく追いながら、キッドはつまらなそうに溜息を吐いた。
「くどうくん!」
新一が玄関の扉を開けた瞬間飛び込んできたのは、人ではなく声だった。
しかもその声は、とにもかくにも感極まったとしか言いようのない声で、新一は思わず目の前に佇む客人をまじまじと見つめた。
訪問者は、一見何考えているのか判らない曖昧な表情で新一と相対していた。右手には手土産らしい品を携えている。
「こんにちは」
と彼女は言った。普段の、至って落ち着いた挨拶以外に何の含みのない声。
新一の極親しい人達の中で、名前でなく名字で呼ぶ人間はそう多くない。警察関係者を除けば、この目の前の女性だけだった。
しかし。
「くどうくん〜!」
どことなく舌足らずな、ほんの少し甲高い声は目の前の女性、宮野志保ではなく、彼女の足元から聞こえてきた。最初に聞こえた声と同じものだ。
と、気付いた時には、新一の足元にじゃれつく、ころころとした物体。
「…………」
何か言おうとして、声にならなかった。
名前を呼ぼうとしたけれど、知らなかったからだ。
「お邪魔するわよ」
面食らう新一を余所に、志保は上がり込むとスタスタと歩き出す。
案内されてもいないのにリビングに辿り着くと、憮然とソファに腰掛けているキッドに近付き、持ってきた手土産を差し出した。
「月1の女性限定新作ケーキ。洋なしのムースと、フルーツババロアよ」
持って来た本人はさして興味なさそうに告げる。しかし、相手の方はほんの少し気分を上昇させたらしく、取り敢えず営業的微笑で受け取った。
早速中身を確かめるべく蓋を開くと、甘い香りが漂ってくる。途端に顔がほころぶ様を志保は少々呆れ顔で見ていた。
ここに来る前に、新一から彼の懐柔策を訊いておいて正解だったと内心安堵しつつも、表情は至ってポーカーフェイスを保つ。
「……で、新一は?」
客人を出迎えに行ったのに、客が一人で此処に来た事の不自然さにようやく思い当たったように、キッドは愛想笑いを浮かべつつ訊いてくる。
「あ、工藤君なら……」
ふと、リビングの出入り口に視線を向けると、タイミング良く新一が顔を出した。歩きにくそうに片足引きずっている様に、キッドの眉が僅かに寄った。
「新一……何ぶら下げてる?」
気付いた志保が慌てて彼の足から奇妙な物体を引き剥がす。「それ」は暫く藻掻いていたが、次第に志保の腕の中で大人しくなった。
そして、徐に彼等の前にぽんと置く。
「ご挨拶して」
志保の言葉に、「それ」は少しふてくされた顔をしながらも、ぺこりとお辞儀した。
「……こんにちは。おれの名前は、かいと、です。どうぞ、よろしくお願いします」
一本調子な話し方ではあったが、「それ」はちきんと躾けられた通りの挨拶だった。
可愛くない。と、キッド思った。
どう見ても、ソイツはふくれっ面でキッドの向かいのソファにいる。
視線は当然合わせようとしない。この部屋にキッドと一緒にいる事がいかにも不満そうに足をばたつかせていた。
しかし、どんなに居心地の悪い場所でも、かいとは動かなかった。だって、「此処に居なさい」と言ったのは、他ならぬ志保だったから。
かいとは、志保の言う事は何でも聞く。……でないと捨てられるかもしれないから。
「助かったわ」
キッチンで志保はミルクパンでミルクを温めながら、隣でコーヒーを煎れている新一に礼を言った。
新一は慣れない手つきで、食器棚から来客用のカップと、新品のマグカップを用意している。
「ああ、あの洋菓子の事?アイツ、甘いモンには目がないからな」
しかも女性限定モノは男の身では買う事出来なくて、新一に女装させてまで手に入れようとしていたのだ。
たから、こっちの方こそ助かった。と、半ばうんざりとした口調で言う新一に志保は笑う。
「あら。でも、当の本人は変装の名人じゃない?女装だってお手の物でしょう?」
「まぁな。……でも、アイツは妙な所で頭が固いから」
変装は、怪盗業の一環としての技(?)なので、気質の生活をしている時にそれを持ち込むのは禁忌と定めているらしい。
インサイダー取引が禁止されているのと同じだよ。と納得出来るような出来ないような事を言っていた。
なら、一切のマジックも使うな、と言ってやったら、表の生活が成り立たなくなる、と言われた。
新一は、真剣に彼の中あるボーダーラインが判らない。
「甘いもの好きな恋人を持つと大変ね。……うちの子も甘いものにはまるで目がないけれど」
くすくす笑う志保に、新一はちょっと呆れた顔をする。
「けどな。……なんでアイツの名前が「かいと」なんだ?これって、飼い主として怠慢じゃねーの?」
「快斗」に「かいと」なんて、自分の子供に「人間」と名付けるようなものだ。新一はそう言ったが、志保は別段気にする風もなく、首を竦めてみせただけだ。
志保は、新一からほんの少量コーヒーを貰って、マグカップに入れる。その上に暖めたミルクを注いだ。
それから、肝心なものを忘れていたと言わんばかりに、傍に用意されていた6グラムのスティックシュガーを2袋、その中に入れて、スプーンでかき混ぜる。
「……それって、誰が飲むんだ?」
マグカップの中にあるお砂糖たっぷりコーヒーミルクの味を想像して、気持ち悪そうに訊く新一に志保はあっさりとかいとの名を口にした。
「知らないの?快斗は大人になるまでは、お砂糖と牛乳が主食なのよ。まぁ、普通にお肉とかも食べるけど、これは私たちが食べているのを見て、興味本位で口にしている程度ね」
駄々をこねる時には、角砂糖を口の中に放り込んでやると、途端にご機嫌になる。
「へぇ」
「でもね、あまりにも酷い癇癪起こしたりする時は、逆に嫌いなもので脅すの。『そんな聞き分けのない子は、お魚しか食べさせないわよ』って。これは効果覿面よ」
先日、博士が買ってきたサンマの開きを見た途端、きゃーきゃー言いながら、家中逃げまどった事を楽しそうに語る。
「………へぇ、そうなんだ。」
新一は心の中で、何か誰がに似ている、と思ったが、敢えて口には出さなかった。
リビングは早朝の湖面のごとく静まり返っていた。しかし、決して穏やかな空気とは言えなかった。
ぴんと張った緊張感が漂っているのは何故だろう。
トレイにコーヒーと志保が手土産に持ってきてくれたムースとハバロアをのせてリビングに足を踏み入れた時、漂う空気の剣呑さに内心脱力した。
隣の志保は至って平然としている。
かいとは、新一の姿を認めると途端に嬉しそうに足をばたつかせた。
「くどうくん〜♪」
そりゃもう、誰が見たって超ご機嫌な満面の笑顔で、新一を呼ぶ。
パタパタと駆け寄らないのは、志保に動くなと言われたからだ。だから彼女が「お行儀が悪いわよ」と窘めると、暴れていた両足の動きがピタリと止まる。
しっかり躾けられてるなぁ、と新一は半ば感心した。恐らく、新一が飼っていたら、こんなに聞き分けの良い快斗にはならなかっただろう。
新一がお茶の準備をする。志保がかいとにお砂糖入りミルクコーヒーのマグカップを手渡すと、立ち上る甘い香りににこにこと笑った。
「ありがと」
こくりと飲んで、無邪気な笑顔でニコッと笑う。
「おいしー、しあわせ」
言葉と表情で、至福の時を表現するかいとの頭を、志保の掌が撫でる。
「ねぇ、やっぱりこの子って可愛いと思わない?工藤君」
彼女の親ばか的発言に新一は頷き、キッドは面白くなさそうな顔をした。
スプーンでムースをすくい上げると、中から薄切りの洋なしが顔を覗かせた。
それを口の中に運ぶとキャラメルの味が広がる。……至福の時である。
かいとの前でキッドがこれまた美味しそうに洋なしのムースを食している。こくこくとカップを包み込んでミルクを飲んでいたかいとの視線が、その見目美しいムースケーキから離れない。
すました顔して志保が飲んでいるコーヒーは、苦い飲み物である事をかいとは知っている。以前欲しがって、少し飲ませてもらって、吐いた。だから、彼女のコーヒーは欲しがらない。
同じものを飲んでいる新一もそうだ。
だが、向かいのソファに座っている男は、自分一人だけ何とも美味しそうなものを食べていた。一人だけ、独り占め。
別にそれは彼が強欲などではなくて。
新一は甘いものは苦手だから、その手の嗜好品はほとんど口にしないし、志保は、自分が手土産として持ってきたものを食べるつもりはなかっただけだ。元々、彼だけの為に持ち込んだ品でもあったし。
しかし、その事をかいとが察するのはまだ難しい。
「しほにゃん」
かいとは志保を呼ぶ。
「何?」
「……あれほしい」
小さな指がさしたのは、もちろんキッドが手に持っているケーキ皿、の上のムース。
「人様のものを欲しがるような子に育てたつもりはないのだけど」
溜息をついて軽く頭を振る志保にかいとは譲らない。もちろんキッドも。
「しほにゃんもくどうくんも食べていないのに、「あれ」だけが食べるの、ずるい」
むくれて主張するかいとに、新一が立ち上がった。
「まだたくさんあるんだし、持ってきてやるよ。別に菓子類が食べられない事はないんだろ?」
肉でも食べると言っていたかいとだ。
「……ええ。それはそうだけど」
志保はそう言いつつも、気が進まない顔をした。……新一の恋人を慮って言葉を濁す。
そんな志保の心中などお構いなしに、新一の言葉を聞くと、かいとはぱっと顔を輝かせた。
「くどうくん、やさしい。くどうくん、すき〜♪」
──その瞬間。漂う空気が、きん、と冷えた。
志保は、己が人付き合いがあまり得意でない事を知っていた。その事で困った事は特に思い浮かばないが、生きやすい性格をしているとは決して思わなかった。
だから、志保はかいとを育てる際に一生懸命心を砕いて接した。
しかし今回に限り、その育て方は間違っていたと言わざるを得ない。
好きなものに素直に愛情を示す行為は、少なくとも相手を選ぶべきだったのだ。
特に、独占欲の強い男の前では。
表面上は冷静な表情をしていた……彼は。
しかし、唐突に立ち上がったキッドは、新一が動き出すよりも先に行動に移す。
キッドは素早く手を伸ばして忌まわしいイキモノの首根っこを掴むと持ち上げ、そのまま玄関の外に放り出した。
咄嗟の事で、新一も志保も身動き出来なかったし、声すら出せなかった。
それだけ瞬時にやってのけたのだ、彼は。
キッドがリビングに戻って来て、ようやく何が起こったのかを理解した志保は、慌てて玄関へ向かう。
キッドは完全に表情を消したままで、新一の無言の非難に応えた。
「……オレは、自分の権利を死守したまでだ」
新一に「好き」と言っていいのは自分だけだと、あの梅雨の日に宣言していた。それが、新一の恋人である己の特権だとも。
「……大人げない」
思わずそう呟いた新一に、キッドは珍しく厳しい眼差しで睨み付けたのだった。
その頃志保は、玄関先でぴーぴー泣いているかいとを必死に慰めていた。
「『あれ』きらい、きらい!おれをいじめたー!!」
泣きながら己に対して行われた仕打ちを懸命に志保に訴える。
「彼はこの家の主よ。人を好きにならないのも、かいとの自由だけど……彼を嫌いなかいとは、もう一生この家に来られないわね」
すると必然的に「くどうくん」にも会えなくなるわね。と、言葉を続ける。
「やだ。くどうくんは好き」
ぐずりながらもきっぱりと言い放つ。
「くどうくんは、おれにとってとくべつ。大事なの、好きなの」
何たって、一番最初に大事にして貰った人だ。志保達と出逢えるきっかけを与えてくれた人だ。……そして何より、かいとが人間に対して無条件に心を許した特別な人だった。
「くどうくんは……くどうくんは!!」
更に言い募ろうとするかいとの前に、新一が姿を現した。
なかなか戻ってこない一人と一匹が心配になったのだ。
「くどうくん!!」
瞳をこれ以上はないくらいに輝かせて、嬉々として新一の名を呼ぶ。
と同時に駆け出そうとしたのだが、志保がかいとを掴んで離さなかったので、新一はしがみつかれるのを免れた。
「なぁ。……コイツは何でオレの事を名字で呼ぶんだ?」
さっきから何度も何度もそう呼ばれ、疑問に思った事を口にすると、志保はあっさりとこう言った。
「そんな事。……私が工藤君の名前を教えなかったからに決まっているじゃない」
初めて阿笠博士の家にやって来た時のかいとは、見るもの全てが真新しいオモチャのような存在で、一所でじっと出来ず、家中を走り回っていた。
その内、周囲のものに慣れてきて、ようやく博士や志保の言う事を聞くようになり、ほどなくして言葉をしゃべるようにもなった。
志保や博士の名を覚え、会話をする事を覚え。……それから暫く経った頃、ふいにかいとは志保に新一の事を尋ねたのだ。
6月の、あの雨の日。自分を拾ってくれた人間の事を知りたがった。
「私は工藤君の事を『工藤君』としか言わなかったから、そのまま覚えたのね。……まぁ、間違いじゃないから、わざわざ名前なんて教えなかったわ。名字と名前の区別なんて多分まだ理解してないし」
ちなみにかいとは、当初、志保の事を「しほくん」と呼んでいた。博士の呼び方を真似たのだ。
しかし、当の博士から、男の子は君付けで女の子はちゃん付けで呼ぶのが正しいと教えられ、それからは志保の事を「しほちゃん」と呼ぶようになった。
ただ、どうやらかいとには「ちゃん」が上手く発音出来ないらしく、人の耳には「しほにゃん」と聞こえるらしい。
志保は面倒くさがって、そのままにさせているが……案外そう呼ばれるのを気に入っているのかも知れない。
「そんな事より、彼を怒らせてしまったわね。ごめんなさい」
「あいつの事は気にしなくて構わねぇよ。……食い物につられた事は忘れさせないから」
気にするなと笑う新一に、志保を笑みを見せる。
「でも、これ以上彼の機嫌を損ねさせるのは得策じゃないわよね」
志保はそう言って小さく肩を竦めると、掴んだままのかいとに「帰るわよ」と声を掛ける。
「やだ!……まだ、くどうくんといるの!!」
まだぜんぜん、くどうくんとお話していない!と、喚くかいとの声に苛立つかのように、キッドが姿ーを見せた。
「お帰りですか?」
どう見ても「帰れ」と言っているような態度でも、その口調は礼儀正しい。
志保はかいとを離して立ち上がると、キッドに頷いた。
「お騒がせしてしまって、ごめんなさい」
「貴女が謝る事ではありませんよ。美しい女性の来訪は、何時だって大歓迎です」
世の女性を虜にするのではないかと言わんばかりの微笑を湛えて、キッドが言う。
そして、帰りたくなくて喚いているかいとの背中をキッドが充分手加減した足で蹴り上げてやると、半泣きになりながら新一の足にしがみついた。
かいとは、新一の足がお気に入りのようで、ぎゅっとくっついたまま離れない。
「早く帰らないと、夕飯もらえなくなるぞ?」
新一が呆れて言うが、かいとは益々その両腕に力をこめる。
「……かいと。あまり「しほ」に迷惑掛けるなよ」
半ばうんざりしたように頭を撫でてやると、かいとはおずおずと顔を上げる。
「しほにゃん……」
まるで二人の間を行き交う乙女のように双方の顔を交互に見つめて、それから新一に視線を止めた。
ほんの少し、躊躇う素振りを見せて、新一を見上げる。
「じゃあ、おれのひみつとおねがい、きいてくれる?」
それ聞いてくれたら帰ると言うかいとに、新一は微笑む。
「何だ?秘密とお願いって」
小首を傾げる新一に、かいとはパタパタと尻尾を振った。
「あのね、あのね。……おれのホントの名前。『かいと』っていうのはね、つうしょー(通称)なんだ。ホントは『すてかいと』って言うんだ」
こっそりと、内緒話をするかのように新一の耳元で囁くかいとに、新一は戸惑った顔をした。
「くどうくんが、おれと最初に出会った時に言ったの『すてかいと』って。『すてかいと』って、おれを見て言った。……だから、ホントの名前はすてかいとなんだ」
かいとの飼い主達は、彼に名前を付けるのに色々な候補を上げた。だけど、呼ばれるその名のどれにも快斗は反応しなかった。
言葉を話すようになって、自分の名前は『すてかいと』だと宣言した。
困った飼い主は、妥協させて『かいと』と名付けた。
だから、快斗は『かいと』なのだ。
「だから、くどうくんには、おれのホントの名前……呼んでほしいなぁ」
無邪気に笑って言うかいとに、新一は胸が痛んだ。思わずその小さな身体を抱きしめると、かいともぎゅっとしがみついてくる。
新一は後悔した。あの雨の日、安易にも彼に向かって『捨て快斗』なんて言った事。頭の良い快斗がその言葉を記憶していて、あまつさえそれが自分の名前だと認識してしまうなんて考えもしなかった。
「かい……」
しかし、感極まった表情で抱き締める新一の、その想いを知ってか知らずか、志保は強引に彼から、かいとを引き剥がす。
新一の後方では、今にも燃え上がりそうなほどの怒りの眼をしたキッドが立っている。
「工藤君……お涙頂戴には弱いのかもしれないけれど、そんな話をあまり鵜呑みにしないでね。この子は快斗なんだから」
まるで猫を扱うかのように、首根っこを掴まれて持ち上げられたかいとがじたばたと手足を動かし抗議した。
これは、愛らしい姿に惑わされがちだが、大変小狡賢いイキモノでもあるのだ。
快斗というイキモノが疎まれ始めた頃、人間を震撼させる出来事があった。
身勝手な人間達は、いらなくなったモノは平気で捨てる。もちろん、イキモノである快斗もそうだった。
しかし、近場で捨てると、彼等は大抵家に帰ってくる。
しかも、知能が高いだけあって、中にはいらなくなって捨てられたという事を理解した上で、飼い主の元に戻り、自分が捨てられた精神的苦痛を述べて慰謝料まで請求する快斗まで現れたのだ。
計算高く、駆け引き上手く、己の欲望の為なら手段を選ばない。
そう言った一面が快斗にはあった。……そんな風にしてしまった一因は、人間にもあるのだが。
が、志保は容赦がなかった。
「かいとは、ちゃんと『捨て快斗』の意味、知ってるから」
「しほにゃーん!」
怒った声で非難するかいとに、志保は冷たい一瞥を投げた。
「同情心で相手の気を引こうなんて、私はそんな浅ましい子に育てたつもりはないけれど」
「!」
「同情って言うより、負い目ね。……好きな人に負い目を与えて、それで一杯構って貰って嬉しい?かいとって、そういう嫌らしい子だったの」
容赦ない言葉に、かいとは項垂れる。そんな姿を不憫に感じて新一が声かけようとしたのだが、突然身体の自由を奪われて、声にならなかった。
「キ、キッド!?」
背中から、ぎゅっと抱き締めてくるキッドに驚いて……此処にも大きな「快斗」が居たことに気付く。
「……そろそろ私の忍耐も限界に近付いてきたので、出来ればとっととお帰りになって欲しい」
新一を抱いたまま、かいとを睨み付けつつ、棘を包みつつも穏やかな声で帰宅を促す。
相変わらず表情を崩さない志保と、髪の毛を逆立てて、まるで威嚇する猫のように怒った唸り声を上げるかいと。
どうして良いのか分からず戸惑ったまま立ち尽くす無防備な新一の首元に顔を埋めるキッド。
「く、くどうくんが、食べられちゃう!」
「……食べられたって死にやしないわよ」
首根っこ掴んだまま、志保は「お邪魔さま」とだけ言うと、玄関のドアを開けた。
「首のもげたくどうくんなんて、見たくない〜〜」
半泣きで喚く声と共に扉が閉じられると、途端に室内が静かになった。こういう時、このマンションの気密性と防音性をしみじみ実感する。
さっきまでの賑やかさが嘘のように、いつもの空間に戻ると、新一は肩の力を抜いた。背後から支えられているので倒れる事はない。キッドは、顔を埋めたまま身じろぎ一つしない。
前に回されたしなやかな腕が交差している。新一はその指先をそっと撫でた。
「……オレは、首がもげたってお前を愛してる」
「は?」
「だから、オレの愛は、あんな動物よりも広くて深い」
「……比べんな、バカ」
その夜。
一般に良い子は眠る時間と言われる頃、一本の電話が鳴り響く。
「だからね、確かめるまで眠らないって言うの」
その言葉に、新一はベッドの中で半ばうんざりとした顔して受話器を握り直す。
さっきまで上機嫌で新一を抱いていたキッドの顔が一気に不機嫌モードに移行している。
「……首が折れてたら、今頃あの世に行ってる」
「分かってるわよ、そんな事。でもね……」
埒の明かない会話に焦れたキッドが彼から受話器をぶん取った。
「今からうちに来られても、絶対に入れませんから。後、金輪際あの動物にうちの敷居は跨がせませんよ。もちろん、貴女は別ですが。……では失礼」
言い様、指でフックを押して、それから受話器を戻す。
些か不作法なやり取りだったが、新一は何も言わなかった。精神的に疲れた表情している。
そんな新一をキッドは抱き締めるとフェザーケットを引き上げた。
相変わらず設定温度を大幅に下げた寝室は、互いの温もりを感じ合って丁度心地良い環境を作り出している。
「あんなの飼わなくて……ホント良かった」
しみじみと呟いたキッドに、新一も内心大きく頷いたのだった。