第十一話:over the line
女はシャワーを浴びると、男のシャツに袖を通した。
予想通り比較的長身なその女においても、パジャマにぴったりなほどそのシャツは大きかった。
「僚の匂いがする・・・。」
不思議とどんなアロマオイルよりも女に安心感を与える匂いであった。
女は久しぶりの安堵感に酔いしれた。
(戻ってきた・・・、戻ってこられた・・・。夢じゃないよね・・・・。目をつぶって開けたときこの風景が消えてしまっていたら・・。
さっきまで僚と話していたのが全くの夢だったら・・。)
女は得もいえぬ不安感に襲われた。
(目を閉じたくない・・・。閉じられない!!)
女がじっと天井をみつめていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「はい?」
「悪ィ。読みかけの本そこにおいてねぇ?」
男がノックするのも珍しかったが、本を読むなど始めて聞いたような気がして女は可笑しくなった。
「本?あんたが?」
「何だよ。俺だって本ぐらいは読むんだぜ。」
男が眠れなかった時の苦肉の策であるという事実が日の目を見ることはなかった。
「ふーん・・・・。」
「なんだよ。かわいくねーな。さっさとねろ!」
そう言って男が少々照れながら部屋を出て行こうとしたその時、女は反射的に男を呼び止めた。
「り、・・・僚。」
「何だよ。」
「あの・・さ、お願いがあるんだけど・・・。」
「なんだよ・・・。金ならねえよ。」
「そんなことじゃないわよ。暫く・・・ここにいて・・・。」
「な?!・・・、なあに言ってんの香ちゃん。もしかして一人で寝るのが怖いとか?」
「・・・・・・・う・・ん」
「は、マジかよ。この部屋おばけなんか出ねーぞ。」
「そうじゃなくて・・・。」
女はゆっくりとベッドの中から這い出し、男に歩み寄った。
「何か夢みたいで・・・起きたら全部消えちゃうんじゃないかって思えて。ずっと、ずっと夢みていて・・・。
もう戻れないって思ってから。だから・・・お願い・・・。」
女のすがるような目に男は眩暈を覚えた。
「りょうちゃん大人しく添い寝できるほど、優等生じゃないけど?」
女は黙ってうつむいていた。そして顔を上げぬまま男の手を握った。
男は動揺を隠せなかった。
「そ、そりゃあお前は唯一もっこりしない女だから・・・・さ・・・あのー、そのー・・・。」
男はそう言ってはみたものの、女の空気に完全に飲み込まれていた。
「ったく、しょうがねーなー。」
男はガシガシと頭を掻くと渋々承諾した。
男と女はソファ代わりにベッドに腰を下ろした。女は男に頼みはしたものの、気恥ずかしさに俯いていた。
男は黙ってそんな女の隣に座っていた。
「ねぇ、僚・・・・。」
「なんだ?」
「・・・あたし・・・ここに居てもいい・・の?」
女は感情を必死で抑えながら、掠れる声で男に尋ねた。男は柔らかな視線を女に落とした。
「良いも、悪いもねぇよ。ここ以外に行くところがあるなら、話は別だがな・・・。」
女は溢れる感情に言葉を失った。
「ったくお前ひとりで考え過ぎなんだよ。パートナーに隠し事するなっつったのはお前じゃなかったか?」
「ごめ・・・ん・・・なさ・・・。」
「俺は・・・、槙村には悪いが、償いの気持ちでお前をパートナーにしたわけじゃない。パートナーにする以上は
俺と同じリスクを背負って貰わなければならない。そんな恩を仇で返すようなことするわけないだろ?」
「・・・僚。」
「共に生きて行くためにお前をパートナーとした・・・。それだけだ。お前が嫌なら・・・。」
「嫌なはずないじゃない!・・・この1ヶ月・・・どれだけ・・・。」
女はそっと男の手に自身の手を添えた。
「バカなことしたと思ってる・・・。ここでの生活が捨てられないのは分かりきっていたのに・・・・。」
「ま、お前がバカなのは今に始まったことじゃねーし・・・。」
「何ですって〜。」
女は怒りをあらわにした。男はそんな女の頭を撫でながら、自身の肩に持たせかけた。
「やさしすぎんだよ・・・お前は。」
女は湧き出す感情を抑えきれず、男の胸にしがみついた。
「もう・・・二度と・・・二度と僚に会えないと思ってた・・・。」
「ば〜か・・・・。離れられるわけねーだろ、・・・二人でシティハンターなんだからな・・・。」
男は女に静かに語りかけた。
「僚・・・・。」
顔を上げた女の瞳は涙で潤み、あふれ出た感情は頬を紅潮させていた。
女が着ている白い男物のシャツは、女の紅潮した唇を際立たせ、長めの裾から透き通る白い足が覗いていた。
その光景は男の理性を吹き飛ばすのに十分だった。
「か・・・香。」
思わず男は女の肩を掴んだ。
だが、日頃の習慣からか男は女から目を背けた。
「香、そんな格好でいたら風邪引くぞ。早くベッドに入れ。」
「僚・・・。ひとつ聞いてもいい?」
男は心を見透かされた気分でどきりとした。
「な・・・何だよ。」
「あたしが出て行ったとき・・・どう・・・思った?」
「どうって・・・?酔っ払ってたからな・・・・あんま覚えてねーけど・・・・。」
「少しは・・・少しは寂しいとか、思ってくれた?」
「ま、まあな・・・。」
男のバツの悪そうな表情に女はクスクスと笑った。
「んだよ、笑うトコじゃねーだろ。・・・・ま、少しは素直になんねーとな。また出て行かれちゃたまんねーよ。」
男はそう言うと女の肩を引き寄せ紅潮した女の唇に軽く自身の唇を重ねた。
突然の事に女は目を見開いたまま硬直した。
「こらこら香ちゃん。キスするときは目を閉じるのがマナーだって教えたろ?」
大きく見開いた女の瞳から、感情の様を表すかのように大粒の涙がこぼれ落ちた。
「僚・・・、信じてもい・・い?」
「勿論。」
男はそういうと、女の頬を両手で優しく包み再び口づけた。
2度目のキスをした時には互いに心の箍が外れ、暴走する感情を止められなくなっていた。
長年男も女も自身のパートナーに対する感情は押し殺してきた。
女は男の真意を知ることを恐れ、男は女の幸福と可能性を奪ってしまうことを恐れた。
現在の関係を壊すことを恐れた結果だった。
しかし今の二人にはそんな理性など互いの溢れ出た感情の前には無力だった。言葉さえも無意味だった。
―1秒でも長く触れていたい 全身の感覚を総動員して感じていたい―
二人に共通した想いは、お互いの体を求め合う結果となった。互いに互いの感情を表す手段を他に持ち得なかった。
男と女はどちらともなくベッドに倒れこんだ。
「怖いか?」
男は女にかかった髪をやさしく払うと女に問うた。
「ううん・・・。」
女は素直に感情を言葉にすることができず、男の背中に回した手を強めた。
そんな女の真意を知ってか、男はやさしく女の首筋にキスをしながら器用に女がまとったシャツのボタンを外し
自身もその逞しい体を露にした。
男は不可触の女神の美しさに見惚れ、目を細めた。
「キレイだ・・・。」
「僚・・・?」
男の言葉に女はわが耳を疑った。驚く女を尻目に男は愛撫を始めた。
「あ・・・。」
いつも優しく髪を撫でてくれたその手が、直に触れたことのなかったところに触れる感触。
見慣れたはずの男の体に刻み込まれた無数の傷と長い睫。
誰よりも近くにいて、見たことの無かった男の表情と仕草に、女は動揺と緊張を隠せなかった。
「はっ・・ぁ、・・・は・・っり・・りょ・ぅ。」
「ん?」
「む・・・ん・・んん・・・くはぁぁ・・・。」
女の不安そうな表情に、男は息つく暇も無い程の貪るようなキスをした。女は酸素を求め喘いだ。
「何も、もう何も考えるな・・・・。」
男はそう言うとより一層女を愛し始めた。女は男の言葉よりも先に何も考えられなくなっていった。
男は不可蝕の女神を汚す事を恐れず、女は激痛に耐えることですら愛する感情の一部であると感じていた。
いつでも手を伸ばせばそこにあった白い肌に感じる、吸い付くような感触と甘い香。
己の欲望が凶器になるのではと、幾度となく躊躇った日々。
この世のものとは思えない甘美に男は酔いしれた。
どこまでも どこまでも
いつまでも このままで
二人に共通した思いは男を獣に、女を今夜限りの娼婦に変えていった。
翌朝。
女は差し込む光によって夢から現実に引き戻された。
自身の体に残った無数の愛された痕が、昨晩が夢ではなかったことを物語っていた。
ふと隣に目をやると、男が穏やかな顔でいびきをたてながら眠っていた。
「夢だったら、嫌だなぁ・・・。」
そう呟くと、女は寝ている男の鼻をつまみ、口を手で覆った。
「ぐ・・・ぐむむ・・・んんんーっプハッ!!なにすんだよ!!」
「いやぁ、夢じゃないかなって思って・・・。」
「おまぁなぁ、普通自分の頬つねったりするもんだろ?」
「だって痛いのやだもん。」
「んだとー!じゃ俺は死んでもいいっていうのか?」
「死なないわよ。・・・・死なせやしないわよ・・・。」
そう言うと女は男の頬に手をやった。
男はその手を掴み、女の背中に手を回すと女の体を力強く引き寄せ、女の唇に自身の唇を落とした。
「ん・・んんん・・・んー!!!。」
女は呻き声と共に腕をめいいっぱい伸ばし男の顔を遠ざけた。
「もう、唇が腫れるでしょーが。」
「香、・・・・ヤツとは・・・。」
男の言わんとしたことを察し、女は赤面しつつ男を睨みつけた。
「そ、そんなこと・・・するわけないでしょ、わかってるクセに!彼病気なのよ!キスすらしなかったわ!」
「そうだな・・・・すまない。」
男のバツの悪そうな顔に、女はやさしく微笑みかけた。
「さて、起きて働くとするかなー。」
そう言って女は男の腕をすり抜け、ベッドから降りようと手近にあったシャツを手に取ろうとした。
その瞬間男の手によってベッドに連れ戻された。
「今日ぐらい寝坊しろよ、香。」
「・・・・・うん。でも・・・洗濯はさせて・・・。」
女は赤面しながらシーツをごそごそと引っ張り出した。
「それ放り込んだら、戻ってこいよ。」
男は女に念を押した。
「・・・・わかった・・・。」
そう言うと女はシャツをざっくりと身にまとい、シーツを抱えてパタパタと部屋を出て行った。
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