-121-
格闘技においてもっとも有利な体制。
マウントポジション。いわゆる、馬乗りの状態だ。
乗られてしまえば下からの打撃には威力がない。
その反面上からの打撃は破壊力が倍増する。
下のものは体制を変えることも、ねじる事すらも出来ない。
上のものは、下のものが何か動きを見せれば確実に上からの打撃を浴びせる事ができる。
慶が下、一裕が上だ。
慶はその朦朧とした頭で、それに気付く。
必死に体を揺らし、右膝を腹の上に乗っている一裕の背中にぶつけた。
次の瞬間、一裕の拳が慶の頭蓋を揺らす。
そして、すぐさま慶の眼の前にナイフを突きつけた。
「じっとしなきゃ、刺すよ? 」
慶は半狂乱になる。
もう、一切の勝ち目がなかった。
ナイフを認識できないまま、デタラメに体を捻じ曲げ、
馬乗りから解放されようとした。
一裕は溜息を一つつき、左の拳を振り下ろす。
何度も。何度も。慶の口がきれ、頭を殴られる度に血が吹き出た。
そして、その血は地面に、一裕の拳に付着する。
12発。一裕は慶を拳で叩きつけた。
一裕の拳も皮がずるむけ、皮膚の下の赤い肉が見え始めた。
一度、手を止める。慶は顔を覆ったまま、動かなかった。
一裕は一仕事終ったというように、ふうと溜息を吐き、話始めた。
「やっと静かになった。
大丈夫、すぐに殺したりはしないから・・・。
聞きたいことがあるんだ。
とても重要なことで、とても難しい。
答えがあるのか、それすらもわからないけど、
策士の慶くんならわかるかな? ってね。
聞いてる? 」
慶はその言葉に反応しなかった。
先ほどからずっと顔を覆ったまま、動かない。
一裕の表情が変わる。
うっすらと浮かべた笑みが消え、冷たい眼だけそこにあった。
慶の手を押し広げ、その隙間に拳を飛び込ませる。
グシャという音とともに、慶の体が震える。
「聞けよ」
慶は眼を開けた。少しだけ状況を理解する。
今、自分は一裕に制圧されている事。
自分のグロックは弾切れで使い物にならない事。
予備の弾は3メートル離れたディバックの中にある事。
一裕の武器、ガバメントは先ほど蹴り飛ばした位置にある事。
一裕の右肩は弾丸が突き抜けて、左手にはナイフが握られている事。
危険は遠のいてはいない。
人間は目の前に突如として降りかかる恐怖に耐える為、
いくつかの安全装置をもっている。
錯乱や、発狂がそれだ。
精神がその恐怖のプレッシャーから逃れる為に一時的に脳と、
意識を分離させる。
当然、行動は支離滅裂になり、本来の自分を隠す。
慶は一瞬、そのリミッターが外れかかった。
しかし、ぎりぎりで踏みとどまる。
少しずつ、落ち着きを取り戻し、心拍数を安定させる。
そのきっかけは、ひらめきだった。
一裕を出し抜く策。
「質問、慶くんは愛ってなんだか知ってる? 」
慶は最後の策を練る。無警戒のはずの右手で、一裕を出し抜こうと。
ぐちゃぐちゃになってしまった右手で。
加藤忠正に銃を弾かれ、骨も腱もめちゃくちゃになった右手で。
覆っていた手をゆっくりとおろし、一裕の言葉に耳を傾けようとする。
一裕の表情のない顔にまた、即席の笑みが浮かぶ。
口元を歪めただけの、即席の笑顔。
「質問、いい? 」
一つ呼吸をおいて、その問いかけに答える。
「・・・・・・なんだ・・・」
「愛、ってなんだか知ってる? 」
「・・・愛? 」
「そう、愛」
「随分・・・状況とかけ離れてるけど? 」
「ふーん。慶くんはやっぱり冷静だね」
「お前ほどじゃない・・・」
一裕はにこりと微笑む。
まともに会話をしていることに満足しているようだった。
「でも、誰かを好きになったこととか、あるでしょ? 」
一瞬、慶の眼の前に芽衣の笑顔が浮かんで、消えた。
「・・・・・・あぁ。あるよ」
「それは、愛だった? 」
「・・・。一般論を聞いてるのか? それとも俺の意見を聞いてるのか? 」
「両方」
「・・・・・・愛だったと、思う」
「ふーん。誰? とか無粋なことは聞かないよ」
「・・・」
「ここからが、本題――」
そう一裕が言いかけた瞬間、慶は右手を突き出す。
激痛は覚悟していた。
まだ生きている中指と薬指で、一裕の眼を狙った。
眼抜きだ。
最後の悪あがき。
失敗すれば、もう、策はない。
右手は一直線に一裕の右眼へ向かった。
眼を抜いた瞬間に左半身を立て、後方へ体をずらす。そ
して一裕よりも早く、体を起こす。
体を起こしたらとにかく滅茶苦茶に一裕の体に打撃を浴びせる。
狙っている左眼の死角から。
そういう計画だった。
右手が一裕の右眼に届こうとした瞬間。
右手と眼のあいだに、一裕の左手が割って入る。
一裕の顔には笑顔が消えていた。
最後の秘策、右手の強襲はあっさりと一裕の左手に阻まれた。
そして、そのまま左手で慶の右手を掴む。
「やると思った」
左手で、ぐちゃぐちゃの右手を強く握りつぶす。
激痛、などとは呼べないほどの痛みと恐怖が慶を襲った。
そっとしておくだけでも、気が狂いそうなほど痛いその右手を、一裕は握りこむ。
慶は口を大きく広げ、痛みに吠える。
唾液が、口の端からだらだらとこぼれていく。
眼は見開かれ、震える。
「慶くんも、ちゃんと質問聞いてくれなかったね? 」
そう言うと一裕はめちゃくちゃに拳を振り下ろす。
徐々にスピードをあげ、更に強く強く、その拳を振り下ろす。
揺れる頭。
額や、頬、顎、目尻、口元、耳、
ありとあらゆる部位から燃えるような痛いみが発する。
慶は何も出来ずにその痛みを受け入れる。
がっという硬い音が徐々に、ぐしゃという音に変わっていく。
頭蓋が砕け、血が、粘液が、体液が、顔から流れ出す。
なおも執拗にその顔を、頭を殴り、地面に叩きつける。
何度も。
何度も。
何度も。
何度も。
慶は薄れていく意識の中で思う。
広志や、芽衣や、家族の事などではない。
ただ、頬についた泥や、口の中に広がる錆びた鉄の味のする血や、
体中にうずく痛みをわずらわしいと感じ、風呂につかってさっぱりしたいと、
そう思った。
正常な思考はすでに一裕によって取り上げられていた。
慶はセンチメンタリズムとは程遠い、本当のリアルな死を迎えようとしていた。
走馬灯もなければ最後の言葉もない。
ただ力に圧倒され、成すがままに。
一裕が手を止めた時、慶の顔は原型をとどめてはいなかった。
眼球は二つともあるべき位置になく、鼻はどこかへ消えていた。
口があったらしい位置にはぽかんと穴が広がり、
唇は変色した皮膚と同化し姿が見えない。
9発目だ。
9発目の打撃で、慶は事切れた。
激しい衝撃のなか、死の恐怖に怯える暇もなかった。
もう、動かない慶の体をしげしげと見つめた後、一裕は立ち上がった。
「やっぱ、クラスで一番あたまのイイ人に聞こ」