始業式が終わりを迎えた放課後。3年3組の教室にはもう、誰も残ってはいなかった。船岡直子を除いては。
直子は自分の席に座り、黙々と文庫本のページを捲る。なぜ、学校の教室で本を読むのか? 答えは単純なもので、家では集中して読書ができる環境ではないのだ。一昨日から始まった、直子の家の前の水道管の工事。夕方5時が過ぎるまで響き渡る騒音。とてもじゃないが、今、直子が読んでいるリルケの詩集の雰囲気とはそぐわない。近所の図書館は休刊日。学校の図書室も始業式と言うこともあってか、閉められたままだった。誰もいない教室ならば同じ事だと、直子は新しい教室の、新しい自分の席で詩集を読み進めていた。
本を開いて20分が過ぎようとした頃、教室の前の扉が開く。ガラガラという古い音がガランとした教室に響きわたった。姿をあらわしたのは髪を金色に脱色した、丸木一裕だ。教室内に直子がいるのをみつけるとにこやかな笑顔のまま歩み寄る。
「船岡さーん。帰んないの?」
直子の机に手を乗せて気さくに話し掛ける。どことなく不自然な仕草は、なぜか一裕だと自然に見えた。それは、一裕自身が不自然の塊であったからかも知れない。直子は一度目を上げ、一裕の存在を確かめると返事もせずに本へ視線を戻した。
「あれ? 聞こえなかった? 何してるのー?」
直子は一裕の質問に、本をちらつかせ答える。
「んふ、本読んでるんだ。何読んでるの?」
再び、直子は無言で本の表紙を一裕にかざし答える。
「リルケ? 誰? 偉い人?」
その質問には答えずに、直子は溜息だけをついた。
気を取り直し、文字を追う。もともと日本語訳の文章を読む事に直子は慣れてはいたが、それでもリルケの詩は難解だった。発行された期日が古すぎるせいか、なんとなく言葉にイメージが追いつかない。退屈だとは感じなかったが、心躍る、という感じではなかった。
目の前の一裕の存在を忘れ、言葉の世界へ身を投げる。周りの気配が小さく消えていく、この瞬間が直子は好きだった。集中することが出来ればなんだっていいのだ。本であろうと、音楽であろうと。
どれくらいの時間が過ぎた頃か、ふと直子は我に帰ったように顔を上げる。一息つくためと、時計の針を確認するためだ。
!
目の前には先ほどと変わらない姿勢で一裕が微笑みかけていた。
「休憩?」
笑みを含んだ、優しい声で尋ねる。
直子は正直に驚く。
「・・・まさか、さっきからずっとそこにいたの?」
「あっ。初めて声聞いた・・・。思ったより高いんだねー。」
「質問に答えてくれる?」
「そうだよ? びっくりした?」
「これで驚かない人がいないなら、是非紹介して欲しいわね。」
「おしゃべりしよーよ。」
「何故?」
「退屈だから。」
「本でも読んでれば?」
「やっぷー。」
「あなた何でここにいるの?」
「あ? やっと聞いてくれたね? でも普通、最初に聞くよね?」
直子は相手にせずに一裕の肩越しに時計を見る。午後、1時。時間を確認したせいか若干、空腹感を感じた。
「私をからかってるの?」
直子は会話を終らせようと、荷物をまとめ始める。
「からかってなんかいないよ? 退屈だから相手をして欲しいだけだよー。」
「あらそう。どっちでもいいわ。」
「つれないね?」
一裕の最後の言葉には返事をしなかった。まとめた荷物――といっても補助カバンひとつだったが――を肩にかけ、席を立った。一裕はそんな直子の動きをぼうっと、腕を組み眺めている。
席を立つ直子を見送りながら、一裕は口笛を吹いた。直子はそのメロディになんとなく聞き覚えがある。ずっと昔に聞いた、他所の国の唄。たしか”close
to you”。
「また、遊ぼうね?」
直子がドアを抜けるとき、一裕は口笛を中断し、そう言った。
直子は一瞬足を止めたが、振り向くことなく再び歩き始めた。耳に残るそのメロディをたどりながら。
直子の気配が完全に消えてはいない教室で、ひとつだけ溜息をつく。
そして、本当の気持ちを小さな声で呟く。
「どうしてここにいるのか―――それは、あんな家に帰りたくないからでーす・・・。」
直子にそう言いたかったのだと、口に出した時初めて気付いた。
”close to you”をもう一度、誰もいない教室に響かせて、一裕は目を閉じた。