そして、気を失うように眠った私を目覚めさせたものは美味しそうな香りだった。
ベッドに彼の姿は無かった。
まさか!
慌ててガウンを羽織って、ボサボサの髪を撫でつけてキッチンに行くと、そこにはエプロン姿の彼が居た。
「お早う、丁度良かった。食事の支度が出来た所です」
皐・・・それって新妻のセリフよ・・・
私がそれを言ってあげたかったのに・・・
彼に先を越されるなんて・・・
「・・・顔を洗って来るわね」
私は洗面所の鏡の前でガックリと項垂れた。
そうか・・・彼は料理が出来る人だったのね・・・
だから私の作った料理なんて口に合わなかったのね。
折角、新妻っぽいフリフリのエプロンを密かに用意しておいたのに・・・どうやら出番はないみたい。
それにしても・・・
彼のエプロン姿も似合っていたわ。
シャツにシンプルなエプロンもイイわねぇ・・・
いっその事、裸に・・・って、これじゃ発想がオヤジだわ!
ダメよ!ダメダメ!
彼に知られない様に、色々なものを封印した筈でしょ!
アレが彼にばれたら・・・離婚かしら?
結婚したばかりなのに?
絶対に!ばれないようにしなくっちゃ!!
私は気を取り直して、顔を洗ってキッチンへと戻った。
「美味しそうね」
微笑むつもりだったけど、頬が引き攣るのは止められなかった。
本当に美味しそうなベーコンエッグとサラダの朝食。
彩りも盛り付けも綺麗だわ。
「どうぞ、召し上がれ」
「いただきます」
なんだか、想像していた新婚生活と真逆だわ。
複雑な心境で食べ始めた私はサラダを口に入れて思わず眉を顰めてしまった。
「お口に合いませんか?」
不安そうな彼の声に首を振る。
違うのよ、美味しいのよ、美味し過ぎるのよ!
なんなの?このドレッシング!凄くさっぱりしていて美味しい!
こんなもの、今まで食べた事が無いわ。
「・・・凄く美味しくてびっくりしちゃったの。あの、このドレッシングは、何を使ったの?」
私の言葉に彼は安心したように微笑んだ。
「ああ、それはレモンとグレープフルーツとビネガーにオリーブオイルを少なめにしてあるんです」
か、買って来たものじゃなかったの?それにしても
「材料はどうしたの?」
冷蔵庫にはレモンもグレープフルーツもビネガーも無かった筈だけど。
「近所のスーパーですよ。あそこは結構早くから開いてますね」
珍しい食材も多くて便利ですね、と彼が言った。
沙枝ちゃん・・・私、もうあなたの料理教室を受ける必要が無くなっちゃったみたいだわ。
「凄いわ、皐。お料理が出来るのね」
負けた。完敗よ。
これは素直に白旗を振るしかないわ。
「留学中に必要に迫られましてね。色々と勉強したんですよ」
そ、そうなの・・・私は日本に留学して一人暮らしが5年になるけど、全然料理が出来ないって・・・
落ち込む私に、彼が優しく微笑んでくれた。
「ずっとあなたに食べさせたいと思ってましたから。これでまた夢が一つ叶いました」
そ、そ、そんなこと言われたら・・・
私の夢なんて叶わなくても文句は言えないわよね。
「Thank you Honey.」
私が心からの笑顔で賛辞を送ると
「My pleasure.」
彼はそう答えて私にキスをしてくれた。
うん、理想や考えていたものとは違ってしまったけれど、充分に新婚らしい朝よね。
上司に秋、といわれた海外赴任はビザの関係で少し伸びる可能性が出て来た。
その為、彼女は母と結婚式の準備をじっくりと詰めている。
もちろん、準備に時間が掛けられるのは良い事だし、なにより早く入籍出来たおかげで彼女と一緒に暮らせるし、周りにも公に出来て喜ばしい。
けれど、やはりそれを良く思わない者はいるもので
「逆玉かぁ・・・羨ましいね」
逆玉か・・・そう言われても仕方ないのかな?
なにしろ彼女の苗字が変わった訳ではないのは事実だし、私が海外で彼女の苗字を名乗る事になるのも事実だから。
そう思って何も反論をしないでいると、彼女が口を開いた。
「あら、それは実力の無い方の僻みにしか聞こえませんわ」
それは私達の結婚を同僚が祝ってくれていた席での事。
痛烈な彼女の皮肉に、言われた方は黙ってしまった。
しかし、彼女の糾弾は続く。
「彼が海外の支社を任されたのが、万が一にも私と結婚したからだと言うのなら、そんな情けない経営者の居る会社などお辞めになったら?」
どうやら彼女はとても怒っているらしい。
「第一、私とミスター・クリフォードは血が繋がっているというだけで、採用にだって昇進にだって関わっていないわ。今度の移動は彼と私の実力よ!」
いや、そうとも言い切れないのだが。
しかし、彼女を止めなければならないと彼女の腕をそっと掴んだ。
「もう止めませんか?折角のお祝いの席ですから」
彼女はその言葉に我に返った様で「ごめんなさい」と言って黙った。
その後も気まずくなった雰囲気は消えず、私達は先に失礼する事になった。
「ごめんなさい」
帰りのタクシーの中でも彼女はそう言った。
「気にしないで下さい。大丈夫ですよ」
私の言葉はあまり慰めにはならなかったらしい。
「でも、折角、皆さんが設けてくれたお祝いの席で・・・つい、カッとなってしまって」
項垂れたままの彼女の手を握る。
「私の為に怒って下さったんですよね?嬉しかったですよ」
私だって、彼女が悪く言われたのなら怒っていた筈だ。
「それに、私の海外赴任があなたと結婚する事によって優遇されているのは事実ですから」
彼女はそれを聞いて、何か反論しようとしたけれど、私はそれを遮って言葉を続けた。
「私は彼にあなたとのお付き合いを話す前に海外赴任について打診されましたが、その時はヨーロッパか中国と言われたんです」
首を傾げる彼女にクスリと笑いを漏らして更に続ける。
「それがロンドンに決まったのは、彼の、ミスター・クリフォードの配慮だと思います」
私は彼女にヨーロッパに比べて中国の市場が今後の重要性が高い事を確認するように伝えた。
マーケティング部に居る彼女がそれを知らない筈はない。
「ただ、中国は治安について不安な面もありますし、第一、あなたは中国語には不慣れでしょう?」
これから勉強するとなると大変だ。
「ですから、我々が赴任するのが英語圏であるロンドンになったのだと思いますよ」
私の推測でしかないが、多分外れてはいないと思う。
「私もあなたもLBSに通った事があり、ロンドンには馴染みがありますしね」
彼女は黙ったまま、家に着くまでじっと考え込んでいた。
しかし、部屋に入ると、彼女はポツリと呟いた。
「でも・・・やっぱり信じられない。あの人が私の事を考えてくれているだなんて」
そして私に縋りつく様に激しい口調で言い募る。
「だって!だって、今まで一度も、まともに顔を合わせた事なんて無かったのよ?私が入社してからもう3年も経つのに!」
声を掛けてくれた事もないわ、と小さな声で呟いた。
私は彼女の肩を抱いて、泣きそうな顔をしている彼女をじっと見つめた。
「それでも、彼はあなたの事を娘として案じているのだと思いますよ」
涙を溢れさせたまま、彼女は何も言わずに首を振った。
零れ落ちた涙を拭った私は、彼女を抱きしめる事しか出来なかった。
そう簡単に彼の気持ちを理解しろと言っても難しいのだろうと思って。
式の準備は着々と進んで、日取りと会場が決まり、彼女の衣装も決まったらしい。
らしい、と言うのは彼女がどうしても『当日まで秘密よ』と言って教えてくれなかったからだ。
招待者を限定して、少人数での披露宴の出欠も揃った。
彼からは欠席の知らせが届いた。
「ほらね」
彼女はそれを見て寂しそうにそう言った。
私は招待状の返事が届いた翌日に彼に詰め寄った。
「欠席の理由をお聞かせ下さい」
彼は眉を顰めてからポツリと呟いた。
「急な出張が入った」
そんな筈はない。
「どこへでしょうか?私は伺っておりませんが」
引き継ぎが済んでいるとは言っても、彼のスケジュールは把握している。
それを考慮して考えた日程なのだから。
「君はもう秘書室の人間ではないだろう?知らなくても良い事だ」
彼はそう言うと視線を私から机の上へと移した。
これはもう話が済んだと言う彼の意思表明で、今までの私ならば黙って退室しなければならない所だ。
だが、今回は、今回だけは黙って出て行く事など出来ない。
「お願いします!是非とも式に参列して下さい!」
私は頭を深く下げた。
「いい加減に・・・」
「例え、生まれた時からまともに顔を合わせた事が無くとも、あなたが彼女のたった一人の父親です。式に出て下さい!」
彼の言葉を遮って、私は更に願い出た。
「そして・・・そして出来れば、彼女の父親として、式に参列して下さい」
私の上司としてではなく。
頭を上げて、彼をじっと見つめると、彼は困った様な溜息をついた。
「・・・考えておく」
「ありがとうございます」
私は深く一礼してから退室した。
10月10日土曜日大安吉日。
イギリスでの就労ビザがまだ下りないので、赴任する時期はまだ決まらないけれど、式場が取れたので、入籍も済ませているのだし、と式を挙げる事にした。
彼に最後まで内緒にしていたドレスは実は今までの私が着ていたものとは随分とイメージが違う可愛らしいもの。
私は反対したのだけれど、彼のお母様と義妹の静香が頻りと薦めるので・・・と言うのは建前で、実はずっと前から憬れていた形のもの。
肌の露出を抑えてフリルとレースをふんだんに使ったドレス。
「本当におかしくない?」
当日になっても不安な私に静香はにっこりと笑って頷いてくれた。
「とても良くお似合いですわ。お姉様」
そうかしら?
そう簡単に不安は拭い去れないけれど、ステイツからわざわざ来てくれた友人や祖父母に囲まれて不安に浸る暇もなかった。
特に祖父の不機嫌振りときたら
『どうしてちゃんとした教会で式を挙げない』
から始まって
『どうして日本人と結婚するんだ』
と今更な事や
『どうして奴が父親役なんだ』
と煩い。
それに対する私の答えは
『相手がカトリックじゃないんだから当然でしょう?』
『気に入らなければ態々式に来なければ良かったのよ』
『お爺様が父親役をやって離婚した人が居るのをお忘れなく』
だった。
それは確かに教会ではなく、セレモニー会場のチャペルでの式に不満があるのは判るけど、ここは日本で、わざわざカトリックの神父様を呼んで祝福を頂くのだから、構わないでしょうに。
案の定、祖父は怒りで顔を真っ赤にしながらも黙ってしまった。
悪い事をしたかしら?と思わないでもないけれど、彼を悪く言うなんて絶対に許さないし、何よりこれは私が望んでいる事なんだもの。
頑固な祖父とは違って、優しい祖母はただ一言
『綺麗よ、フランチェスカ。幸せになってね』
そう言ってくれただけ。
私も流石にじ〜んと感動してしまったわ。
『ありがとう、グランマ』
それだけ言うのが精一杯なくらい。
それを見ていた祖父は、渋々と
『・・・お前が良いなら、わしは何も言わんがな』
そう溢してくれた。
『ありがと、グランパ』
なので私もそう言って祖父にキスする事が出来た。
チャペルの閉じたドアの前であの人が待っていてくれた。
何かを言うべきかしら?
一度は断って来た式への参列を、都合をつけてくれた事に?
それとも、父親役を承諾してくれた事に?
きっと、彼がお願いしたのだと言う事は判っている。
あの人が素直に承諾した訳が無い事も。
それでも、生まれて初めて、間近に相対する父親に私は何と言うべきなの?
私が悩んでいると、あの人が先に口を開いた。
「少女趣味なのはリリスと同じだな」
そ、それが父親の言う言葉なの?
少女趣味って・・・ドレスの事?
私は怒りを通り越して呆れてしまった。
そして笑いが込み上げてくる。
この人は・・・それでも母の事を覚えていてくれたんだと判ったから。
25年も前に亡くなった、26年前に別れた、1年ほどしか結婚していなかった相手の事を。
そうね、この人は結婚だけは一度しかしていなかったわね。
私は黙ったまま、父の左腕に自分の右腕を通した。
チャペルのドアが開いて、音楽が流れる中、バージンロードを父と二人で歩く。
付添い人やフラワーガールの先導は無しに、ただ、二人だけで。
そして、祭壇の前で待っている神父様と彼。
父の手が私の手を彼へと渡す。
「Thank you Daddy」
そう言って、顔の前に下りているベール越しに父の頬へとキスをした。
そう、ありがとう。
これが言いたかったの。
これだけ。
私は彼に向き直って微笑んだ。
彼も嬉しそうに微笑み返してくれた。
ベールに口紅がついてしまうし、あまりスマートとは言い難い事だけれど、私はそれだけで今までの拘りが消えてしまう様な気がした。
正直なところ、全部とは言い難いけれどね。
それでも、私は今日から前を向いて歩いて行くの。
彼と一緒に。
過去に拘らないで。
そう思えるのはとても幸せな事。
そして、式を終えて、参列者が並ぶ中を歩く直前に彼が囁いてくれた言葉。
「今日のあなたはとても綺麗ですよ。世界で一番美しい人を妻に出来て、私は世界一幸せな男ですね」
彼から初めて貰えた『美しい』の賛辞。
今まで何度も『可愛い』と言われた事はあったけれど『綺麗』とか『美しい』と言われたのは初めて。
嬉しさのあまり涙が溢れて零れてしまった。
その涙を彼はそっと拭ってくれた。
「おめでたい日ですから、泣かないで、笑って下さい」
彼の言葉に私は笑顔を浮かべる。
そう、私は今日、世界で一番幸せな花嫁になったのだから。
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