悪女の戸惑い




あたしはお昼休みを少し過ぎてから漸く休憩を取る事が出来て、友達が先に食事を始めている小会議室へと急いでいた。

この会社は都心の一等地にあるからか、社員食堂は存在しなくて外食する人が殆んどなんだけど、若い女の子達はコンビニで軽食を買ってきたりお弁当を持って来ている。

もちろん、あたしもお弁当持参組の一人。
だって、確かに会社の周りには素敵なレストランが沢山あるけど、どこもお高いんですもの。
新人で薄給の身としては日々のランチ代を節約しなくては洋服も買えません。


そんな訳で、あたしはお弁当の入った巾着袋を持って小走りをしていたのだけど、それが少々拙かったみたい。

「きゃっ!」
「っと!」

通路を曲がろうとして来た人と打つかってしまったの。
ドン、と身体を弾かれてよろめいたら「危ない!」って転ばないように支えて貰ったのだけど、踏鞴を踏んだあたしの足の裏からはガサッという音と『グシャッ』とした感触が・・・見れば近所で有名なカフェの紙袋・・・多分、コレには美味しいと評判のベーグルサンドが入っていた筈で・・・それをあたしは思いっきり踏んづけてしまっていた。


「きゃぁ〜!ごめんなさい!ごめんなさい!」

あたしは慌てて足を袋から退かして平身低頭で謝った。
きっと、あたしを支えようとして持っていた袋から手を離してしまったのに、あたしが落してしまったお昼を踏んでしまったんだわ。


「そんな、気にしないで下さい。落した私がいけないんですから」

何て優しいお言葉。
誰かしら?
そろそろと顔を上げて窺うと・・・ひ、秘書室の西塔さんではありませんか!!!
ひぇぇ〜〜!


入社半年にも満たない他部署のあたしですら顔と名前を知っている西塔さん。
彼の名前が女性社員の口に上らない日はないと言われている、あの西塔さんに打つかって彼のお昼を踏みつけてしまったの?

ど、どうしましょう・・・・
そ、そうだわ。


「あ、あのコレを・・・せめて替わりに召し上がってください!」

思わず持っていたあたしのお弁当を差し出した。


「いや、本当に気にしないで下さい」

ああ、何て優しい人なのかしら。
噂通り、超のつくフェミニスト。

何でも噂では、告白してきた相手に優しい言葉と笑顔をくれるから断わられても彼を嫌いになれない人が多いとか、彼の笑顔を見た人はその日一日ラッキーになれるとか、最早噂と言うより伝説の人。

噂と言えば有名なのが彼女の事だけど・・・


「いえ、是非召し上がってください!ご相談に乗っていただきたい事もありますし!」

あたしはやや強引にお弁当の入った巾着袋を西塔さんに押し付けた。

「相談ですか?」

「はい、その・・・ミス・アクトンにですね、先日その・・・」

勢いで口にしたのはいいけれど、どう言って説明すればいいものか判らなくなってしまった。
だって、ノブちゃんとホテルに泊まった時、彼のお義姉さんのミス・アクトンに着替えの洋服や下着まで用意して貰ったなんて、どう言えばいいの?

で、でも、あの噂が本当なら、西塔さんに会えた今がチャンスだわ。
あたしが直接彼女にお礼を言ったりお金を返すなんて出来ないもの、何の接点もない事になっているんだから。


「その・・・洋服をですね、ミス・アクトンに用意して頂いて・・・その・・・代金をですね、お支払していないのですが、西塔さんからお渡しして頂ければと・・・」

取り敢えず5万ぐらいで足りるかしら・・・お財布にはそれくらいしかないけど・・・あの洋服、ブランドものだったけど・・・足りないかしら?
それよりお金を裸で渡すのも失礼よね。
でも、ポチ袋とか持ち歩いている訳じゃないし・・・


「ああ、それでしたらこちらへ」

西塔さんはあたしの不十分な説明に疑問を持つ事もなく、彼が向かおうとしていた役員用の会議室に入っていく。

え?なに?


軽く2回ノックをした後、西塔さんは中からの返事を待たずに幾つかある役員用会議室の一つに入った。
そこには・・・


「遅かったわね・・・あら?」

件の人物、ミス・アクトンがいた。
あたし、失礼してもいいでしょうか?


「珍しい人を連れてるわね。どうぞ田村沙枝さん」

ダメ・・・みたいですね。
あたしの名前まで知られちゃってるし。


「彼女があなたにお話があるそうですよ」

西塔さんはそう言うと、私は用事がありますので、などと言って会議室から出て行ってしまった。
丸投げですか?西塔さん、それは優しそうで優しくないです・・・しくしく。


「何かしら?私もあなたとお話がしてみたいと思っていたのよ」

にっこりと微笑むミス・アクトンは女のあたしが見惚れるほど綺麗だった。
プロンドの長い髪を綺麗に纏め上げてビジネス・スーツをセクシーに着こなしている。
日本語も流暢だし、あたしに椅子を勧める仕草も優雅だわ。

彼女の前にはノートパソコンと資料が山積みになっている。
流石はマーケティング部の精鋭。
お昼も取らずにお仕事とは。

ん?もしかして西塔さんが持っていたベーグルサンドは彼女の為のものだとか?
やっぱり噂は本当なのかしら?


「お、お仕事のお邪魔では?」

一応、逃げを打ってみるけれど。

「ランチタイムですもの、構わないわ」

逃げられませんでした。


「その、ですね。あの、先日の着替えの件なのですが」

恐る恐る切り出すと、彼女は思い出したように「ああ」と呟いた。

「サイズは大丈夫だったかしら?私の好みで選んでしまってごめんなさいね。気に入らなかった?」

申し訳なさそうに目尻を下げられてしまって、あたしは恐縮してしまった。

「ち、違います!違うんです。洋服はとっても素敵でした。サイズもピッタリで、ただお金を・・・」

首と手を一生懸命横に振って、彼女の勘違いを訂正して用件を伝えようとしたのに。

「お金?いいわよ。私が勝手にした事ですもの。プレゼントだと思って受け取って?」

優しく微笑んでそう仰るミス・アクトン・・・だけど、プレゼントって言っても。

「で、でも、あんな高価なもの頂けません。お願いですから値段を教えて下さい」

彼女はお嬢様だし、お金の話だなんて失礼な話かもしれないけど、こう言った事ははっきりさせておかないといけないと思うの。

財布を出したあたしにミス・アクトンは微笑んで、視線をあたしの手元に下げた。

「それ、あなたのお手製なの?」

は?

「そのランチボックス、あなたが作ったんでしょ?」

「はい」

そう、西塔さんに押し付けた筈のお弁当はこの会議室に入る時にあたしに返されてしまっていた。
西塔さんはそのまま出て行ってしまったので、あたしの手にはお弁当が入った巾着袋が確かにある。


「それじゃあ、あの着替えのお礼として私にお料理を教えてくれないかしら?」

はあ?

「実はね、私、お料理が全然ダメなのよね。スクールに通おうにも仕事の都合でなかなか行けないし、あなたの都合のいい時で構わないから私に教えて貰えないかしら」

り、料理が苦手って・・・お嬢様なんだから必要ないのではないのかしら?

「もちろん、材料費は払うし、私のマンションに来て貰わなくてはならないけど・・・靖治も呼びましょうか?」


ノブちゃんの名前を出されてあたしは顔が真っ赤にしてしまった。
ず、狡いですぅ・・・ここでその名前を出すなんて。


「私はあなた達二人の事、応援しているから」

女神様のように優しく微笑むミス・アクトンだったけど、お尻には矢印のついた尻尾が生えている気がするのは気の所為?

応援していると言うよりは面白がっているように聞こえるんですけど。
ノブちゃんも『兄貴と姉貴には頭が上がらない』って言ってたし。


「じゃあ、早速。今週末からでもいいかしら?」

あたしは断る事も出来ずに、ミス・アクトンと携帯の番号とメールアドレスと住所まで交換する事になった。


「ミス・アクトン、だなんて他人行儀ね。お姉様って呼んで?」

いえ、呼べませんから。
あたし達、立派に赤の他人ですし。


「じゃあ、ライラで我慢してあげる」

我慢って・・・あたし、遊ばれてます?


こうして、あたしは月に何度かライラさんにお料理を教えることになった。

そのお陰であたしは彼女が思っていたほど完璧な人ではない事を知るのだけど、それはまた別のお話。





  








































Postscript


本当は沙枝ちゃんのお弁当は西塔さんに食べていただく予定でした。
それを見たお姉様が沙枝ちゃんにお料理を教えてもらおうとする、といった展開にしようと思っていたのですが、そんなまだるっこしい事しないで直接会ってしまえ!と急遽変更。
西塔さんとお姉様はお昼抜きになってしまいました(笑)
沙枝ちゃんも食べている時間がなくなってしまったかも。


拍手掲載期間 2009.7.9-14

 
 

 

 

 

 

 

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