遠雷 1


(1)

朝から降り止まぬ雨が、日没の頃には豪雨となっていた。

「眼形を作るのは基本ですが、それと同時に全体の繋がりを常に念頭に置く事を、これからの課題になさるとよろしいのではないでしょうか」
塔矢アキラ三段の適切な助言に、男は「なるほど、なるほど」と繰り返し何度も頷いて見せる。
「大変きれいな打ち筋ですね。失礼ですが、普段はどなたに?」
アキラは碁石を片付けながら、さりげなく尋ねてみた。
今日、指導碁に呼ばれた一部上場企業の取締役だという男は、良い打ち手だった。
一手の重要性を、十分に理解した手筋に好感を覚える。
普段は高段のプロの指導を受けているのだが、そのプロが体調を悪くしたとの事で、アキラがピンチヒッターに借り出されたのだ。
「芹澤プロをご存知ですか?」
男は黒石を碁笥に戻しながら、上目遣いでた反対に尋ねてくる。
「ええ、勿論。芹澤さんなんですね、納得だな」
芹澤プロといえば、まだアキラが直接対局したのは片手でも余る程度だか、タイトル戦の最後に必ずといっていいほど絡んでくる棋士である。
「ところで塔矢先生、お時間はまだよろしいでしょうか?」
「ええ、もう一局?」
「いいえ、この雨ですからお車でお送りしたいのですが、ちょっと出ておりまして……。
小一時間ほどで戻ってまいりますので、それまでよろしければ夕食をご一緒していただけませんか?」
アキラは丁寧に辞退したのだが、最寄の駅まで徒歩で20分以上かかる。
タクシーを呼んでもらうつもりだったが、車で送ると言ってくれるのにそれを無碍にも断れない。
芹澤プロはいつもそうしていると言われては、あまり我を張ってもと、承諾した。
家人は出払っているそうで、出前とは思えない豪華な会席弁当が供される。
秘蔵の日本酒を薦められたときは、さすがに未成年ですからと手を振って断ったのだが、結局小さなぐい飲みで二杯ほど付き合わされた。
男の会社が、碁戦のスポンサーであることを忘れるわけにはいかない。
よく降る雨だと、窓の外を眺めていたのが、最後の記憶だ。



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