遠雷 1 - 5


(1)

朝から降り止まぬ雨が、日没の頃には豪雨となっていた。

「眼形を作るのは基本ですが、それと同時に全体の繋がりを常に念頭に置く事を、これからの課題になさるとよろしいのではないでしょうか」
塔矢アキラ三段の適切な助言に、男は「なるほど、なるほど」と繰り返し何度も頷いて見せる。
「大変きれいな打ち筋ですね。失礼ですが、普段はどなたに?」
アキラは碁石を片付けながら、さりげなく尋ねてみた。
今日、指導碁に呼ばれた一部上場企業の取締役だという男は、良い打ち手だった。
一手の重要性を、十分に理解した手筋に好感を覚える。
普段は高段のプロの指導を受けているのだが、そのプロが体調を悪くしたとの事で、アキラがピンチヒッターに借り出されたのだ。
「芹澤プロをご存知ですか?」
男は黒石を碁笥に戻しながら、上目遣いでた反対に尋ねてくる。
「ええ、勿論。芹澤さんなんですね、納得だな」
芹澤プロといえば、まだアキラが直接対局したのは片手でも余る程度だか、タイトル戦の最後に必ずといっていいほど絡んでくる棋士である。
「ところで塔矢先生、お時間はまだよろしいでしょうか?」
「ええ、もう一局?」
「いいえ、この雨ですからお車でお送りしたいのですが、ちょっと出ておりまして……。
小一時間ほどで戻ってまいりますので、それまでよろしければ夕食をご一緒していただけませんか?」
アキラは丁寧に辞退したのだが、最寄の駅まで徒歩で20分以上かかる。
タクシーを呼んでもらうつもりだったが、車で送ると言ってくれるのにそれを無碍にも断れない。
芹澤プロはいつもそうしていると言われては、あまり我を張ってもと、承諾した。
家人は出払っているそうで、出前とは思えない豪華な会席弁当が供される。
秘蔵の日本酒を薦められたときは、さすがに未成年ですからと手を振って断ったのだが、結局小さなぐい飲みで二杯ほど付き合わされた。
男の会社が、碁戦のスポンサーであることを忘れるわけにはいかない。
よく降る雨だと、窓の外を眺めていたのが、最後の記憶だ。


(2)
人間というものは、自身に向けられる悪意に対して、鈍感にできているものらしい。
好意には敏感だし、心のうちにある悪意は無視できないが、向けられる悪意には意識を遮断する傾向がある。
精神が健全であればあるほど、日頃善良に振舞っていればいるほど、その傾向は強い。
そして、囲碁にひたむきな情熱を捧げる塔矢アキラという人間は、間違いなく健全精神を持つ善良な人物だった。
だから、無防備であった彼を迂闊だと責める事はできない。

だが、本人は………。


重い瞼を開けたとき、アキラは自分がどこにいるのか、すぐには理解できなかった。
朦朧とかすむ目を何度となくしばたたかせるうちに、ようやく焦点が結ばれる。
白熱灯の投げかける暖色の光が、まず最初に知覚できたものだった。
(眠っていた…?)
床の間のある和室で夕食を振舞われていたことを、ぼんやりと思い出す。
いつ、自分は眠ってしまったのだろう。
そんなことを考えながら、目を擦るために右手を動かそうとして、アキラは初めて異変に気づいた。
腕が動かない。
両腕が動かない。動かないように縛られている。
驚いて上半身を起こそうとした。そして、本格的に蒼褪める。
両腕を上げた状態で、手首が一まとめに拘束されている。

―――――なぜ!?

「お目覚めですか?」
視界にゆらりと影が差した。
自分を見下ろしているのは、夕食をご一緒にと誘ってくれた男。


(3)
「これはいったいどういうことです!?」
男は答えない。ただ、アキラの全身に舐めるような視線を向けている。
その視線に促されたのだろう、アキラは恐るべき事実に気づいた。
自分が全裸であることに!
「これはいったい!?」
理不尽な仕打ちに、怒りが燃え上がる。
「何を考えているんですっ!!」
男は口の端を引き上げて、微笑して見せる。その空々しい笑みに、アキラは叫んだ。
「笑うな!」
そのときだった。男の背後にあるドアが開く。
「うるさいのは、好まないんだ」と、耳に心地の良いバリトンが告げる。
アキラは、暫しの間、言葉を失った。
薄く微笑み、自分を見下ろす整った容貌。
それは見知った顔だった。
「芹澤さん……」
彼は目を細め、優しげに笑んだ口元に、人差し指を押し当ててから声を聞かせた。
「しー―――、静かにしようね。これがなんだかわかるかな?」
そういってアキラの目の前に差し出したのは、穴のあいたピンポン球のようなものだった。
「これは、ボールギャグといってね。君から言葉を奪う拘束具だ」
芹澤は手馴れていた。
「芹澤さん、何をなそ!? …うぅっ!」
抗う間もなく、アキラは咥えた状態で、ギャグを装着されてしまう。
「この状況で、何をされるのかわからないなんて、私を失望させないでくれたまえ、塔矢くん」
「ぅ〜〜っ………」
「楽しい夜になりそうだ」
そう嘯くと、芹沢の手はアキラの乱れてしまった黒髪をゆっくりと撫で付けるのだった。


(4)
「思ったとおり、…いや、思った以上に綺麗な肌をしている」
芹沢は、指先でアキラの頬の感触を確かめながら、くつくつと喉の奥で笑った。
そのとたん、アキラの肌に粟が立った。
空調の効いた部屋の中、全裸でいても寒さは感じなかった。
それなのに、背筋を這い上がるようなこの悪寒は、芹沢の笑い声がもたらしたものだったろうか、
それとも頬から頤へ辿っていく指先が生みだすものだったろうか。
どちらにせよ、いま己の身に迫る危機に、ゆっくりと分析している余裕がアキラにあるはずがなかった。
アキラは、芹沢の指を振り払おうと激しく頭を振った。
自分がどのような形で拘束されているか、把握はしていなかったが、
それでも手足をあらん限りの力で動かす。
ガチャガチャと耳障りな金属音が頭の上で聞こえる。
「無駄だよ」
芹沢は、笑った。
それはこんな状況でさえなかったら、柔和な笑みといってもよかったろう。
「その手錠は、人間の力でどうにかできる代物じゃない。
この鍵で開けるか、ガスバーナーで焼ききるか……、
でも安心しなさい。内側にミンクの毛皮を張ってあるから、君の手首に傷がつくようなことはない。
好きなだけ抵抗していいんだよ、そのほうが私たちも楽しめる」
アキラはそこで初めて恐怖を覚えた。
いま目の前で涼しげな微笑を浮かべている男は、自分とは住む世界が違う。
本能がそれを察知した。
「さあ、はじめようか」
抑揚のない声で短く告げると、芹沢の長い指はアキラの頤を離れ、下へ下へと滑っていく。
その指が鴇色の突起を摘んだとき、アキラの上半身がびくりと揺れた。


(5)
「感度はいいようだ」
芹沢は満足げにつぶやくと、摘んだ指に力をこめた。
「!」
敏感な乳首に加えられた激しい痛みに、アキラの全身が悲鳴を上げた。
拘束されたベッドの上で、しなやかな肢体が跳ねる様は、若鮎を思わせる。
「ふふふ、痛かったかい? それはすまなかった。おい」
芹沢があごをしゃくると、今日アキラを指名した壮年の男が、すっと立ち上がった。
「力の加減がわからなくてね、痛い思いをさせてしまった。おまえ、慰めてやりなさい」
男の口元がにたりと笑んだ。
欲望に彩られた喜色を滲ませるその笑みは、アキラの瞳に醜悪に映った。
――――ヤメロ!
叫びたくても、噛まされたギャグのせいで声にならない。
アキラにできることは、先程と同じく頭を打ち振り、手足を動かすぐらいしかない。
それは抵抗と呼ぶには、あまりにささやかだった。
一部上場の大企業の役員だという男は、アキラの右脇で腰をかがめた。
――――ヤメロッ! ボクニサワルナ!!
閉じることを許されない唇から毀れるのは、拒絶の言葉ではなかった。
唾液だ。唾液が頬から耳のほうへと伝っていく。その濡れた感触がひどく惨めだとアキラは思った。



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