黒の宴 1 - 5
(1)
体の奥底に火が残っている。
消し去りたくても消えない。可燃物が近付けば一気に燃え広がりそうな小さくても危険な火種が。
男達の手による狂乱の宴から解放されたものの、しばらくの間アキラは毎夜のように
悪夢にうなされ苛まれた。
暗闇の中、ぬかるみのような地面から何本もの腕が生え出て来て足を掴まれアキラは転倒する。
その手は寄ってたかってアキラの衣服を引き裂き剥ぎ取り、口を塞ぎ目を覆い髪を捕らえる。地面に
大の字に縫い付けられて指先すら動かせないほどに全身を固定されると一斉にその手が数を増やして
体の表面を這い回る。手は指先が一体化してしっとりと濡れた生暖かい舌となり、首元を、胸を、
腹部を、腰を、そして局部を舐め回す。
ぬめぬめと敏感な箇所を責め立てられ、やがて両足の間に特に熱く固いモノが押し当てられてそれが
体の奥深くに侵入を始める。自分はそれを拒む事ができない。侵入を容易にするために足を限界まで
大きく開かされて腰を高く浮かされる。
体の奥に潜んでいた小さな火が大きく燃え上がって侵入して来るものと結びつきうごめいて呻き声すら
あげられないアキラを長い間翻弄し一気に外へ吹き出そうとして体の先端のある出口に突進する。
その瞬間に目が覚める。
部屋の中の空気はまだ早春の硬質な冷たいものなのにもかかわらず全身が汗でぐっしょり濡れている。
動悸がする。思わず夜着の下を見るが自分自身が熱く溶けそうな程に脈うっているだけだった。
いっそ吹き出てしまっていればよかったのに、寸前で止まっている。
その状態から先に自分で導く事が出来ない。試しても無駄だった。そうして消えない火種が
残る。壁にもたれかかって苦しいため息をつく。あのおぞましい経験は二度としたくない。
だけど体は、あの感触を望んでいる。あれ以上の快楽を求めている。あの研究会の日から。
(2)
あの日、ヒカルの部屋でヒカルと唇を重ねた後一気に緊張が解けてアキラは気を失うように深い眠りに堕ちた。
ヒカルが何とか抱き上げてベッドに横たわらせ、ふとんをかけてくれた事にも目を覚まさない程に。
深夜に目を覚ました時、ヒカルの寝顔が間近にあった。頬杖をついてしばらくこちらの寝顔を見守ってくれて
いたかのようなポーズだった。アキラはしばらくぼんやりとヒカルの顔を見つめていた。薄い色の前髪の
何本かが睫毛の上に乗っていた。手を延ばして柔らかそうな頬に触れたかったが出来なかった。
朝、そのまま朝食をごちそうになって、別れた。せっかく用意してもらったため、少量だったが無理矢理
胃に押し込んだ朝食は駅のトイレで全て戻してしまった。体が受け付けなかった。
もしもヒカルに何か少しでも問われたら全て話してしまったかもしれない。全て話し、泣いて
すがったかもしれない。でもヒカルはアキラに何も聞かなかった。聞いてくれなかった。
ヒカルにはそういうところがあった。人が語ろうとしない事には決して踏み込んで来ない。
まるで彼自身自分の心の奥に誰も踏み込ませない大切な場所を抱えているかのように。
でもおそらくそれは自分のものとはだいぶ質の違うものだろう。
その後アキラにヒカルと二人きりで会う機会がなかった。今ヒカルの頭の中にあるのは
北斗杯予選の事だけなのだ。自分も忘れようと思い碁会所でただひたすら碁を打ち続けた。
指導碁であれ棋譜並べであれ。ふと、視線を感じたのはそんな時だった。
「…進藤!?」
なぜ咄嗟にそう感じたのかは分からなかった。だが思わずアキラが顔を上げて周囲を
見回した時に目に入って来たのは見知らぬ一人の少年だった。
体格も髪型もヒカルとはかなり違う。目付きも、ヒカルはあんな射るようには人を見ない。
どちらかと言えば緒方に近い性質のものだ。少し離れた柱の傍に真直ぐに立って、彼は無言で
こちらを見つめていた。ヒカルに思えたのは彼の黒い学生服のせいかもしれなかった。
ただそれだけのせいだとその時アキラは思った。
(3)
アキラがそちらを向いたのに吊られるように指導碁を受けていた二人の客もその学生服の少年を見たため、
その少年は一瞬きょとんとして、ぺこりと小さく頭を下げるとそそくさと別の対局をしている
人たちのテーブルを覗き込んだ。
「清春!きちんと挨拶したのか!?若先生、失礼した。」
今しがた入って来た碁会所の常連客の一人がアキラの傍に立ち少年を手招きした。
「若先生、こいつはわしの甥っ子で昨日上京してきたんですよ。師匠の吉川八段と一緒に。吉川先生は夕べのうちに
大阪に戻られたんだが、こいつは東京見物したいと言ってうちに泊まってね。実はこいつ、塔矢元名人のファンでね。
吉川先生には内緒だが…。」
そう捲し立てて常連客の男は近寄って来た自分より頭一つ背の高い少年の頭の後ろに手をやって頭を下げさせた。
慌ててアキラも立ち上がった。
「それは…残念でしたね、父は今中国の方に行っていて。」
「それはこいつに言ったんですがね、塔矢アキラ三段にもぜひ会いたいみたいな事を言うんで、連れて来たんです。
突然で申し訳ない。こいつ、今度の北斗杯の予選に出るんですよ。」
それを聞いて、アキラはハッとなった。
「それでは、関西棋院の…」
「…社清春です。」
そこで初めてボソリと少年が口を開き、再度頭をぺこりと下げた。北斗杯の予選に出ると言う事は
ヒカルと出場枠を争う相手である。
「そうですか。ボクは予選には出ませんが、がんばってください。」
アキラが手を差し出すと社は少し戸惑い、手のひらをゴシゴシズボンに擦り付けると軽く握手を交わして来た。
「今、お時間はありますか?」
思わずアキラはそう訪ねていた。自分のチームメイトの候補としてなのかヒカルの対戦相手としてなのか
分からなかったが社に興味が引かれたのだ。社は無愛想ながらも首を大きくコクリと頷かせた。
(4)
指導碁の時間はまだ5分程残っていたが、アキラと社の会話を聞いた客らは早々と碁石を片付け
席を退き社に譲った。東西の若手プロの対局を見る事の方が価値が大きいと判断したのだ。
アキラがすまなそうに一言断り、社もやはり軽く頭を下げた。が、表情ひとつ変えず堂々とその席に腰掛けた。
碁盤を挟んで向かい合った時、互いに表情が変化した。
二人のプロ棋士が対峙した時、そこには友好の意識は欠片もない。
室内に居た者は次々手合いを中断し二人の若き棋士の周囲に集まり出す。それにも社は臆するところがない。
関西棋院の彼にしてみればアウェーで試合を挑むようなもののはずだ。
だがまるで彼は初めからそれを望んでいたような気がする、とアキラは思った。
ギラギラした好戦的な態度は彼から感じなかった。ただ何か他に意図があるような気がした。
予断は持たない事にしてはいたが向き合った瞬間に相手から感じるものがある時がある。
こちらへの受け答えをほとんど頷くのみでしか応えない無口なこの少年は、おそらく強い。
アキラがニギり、社が先番となった。
社の一手目に注目しその指先を見つめていたアキラは社が改めてこちらを見つめている事に気付いた。
「…?」
碁笥の中で黒石を持ったままの姿勢でアキラを見据えている。直感的にアキラは何かを仕掛けて来る事を予測した。
そしてその通りに碁盤の上に移動した社の指先はためらう事なく碁盤の中心に黒石を置いた。
手前の位置に置いて滑らすのでもなく石は音もなく静かに直接置かれた。
「初手天元…!?若先生相手に!?」
周囲の観客達が互いに顔を見合わせた。中には挑発的な行為と受け取り眉を顰める者もいた。
アキラも一瞬目を見張った。
盤上の石と、なおも突き刺さるように注がれる社の視線に「お前を征服する」と宣言されたような気がした。
(5)
アキラは目を閉じた。天元に打たれた事によるこれからの展開のイメージを微調整し、目を開け、
社を見つめ返した。社は既に指先に黒石を持っている。
右上の星に白石をおく。社は右下小目に来た。すかさずアキラも右上小目に置く。
天元の石を見据えながら互いの間合いを詰めて行く。
相手の中央への進出を警戒し阻み地を奪って行かなくてはならない。だが社の方も一手目こそ
特異なものであったがその後に緩着はない。焦る程の威圧感はなかったがこちらの変化にも
動揺する気配がない。
アキラは久しくヒカル以外の自分と同世代の棋士と向かい合う事に関心を持てないでいた。
面白い碁になりそうだった。僅差の地を争う事になるだろう。
「…社清春…。」
声には出さなかったが唇を動かし心の中で呟いた。社はそれを見のがさなかった。
その時だった。
「おい、清春、おまえ、5時の新幹線の指定とってたはずじゃないのか!?」
ふいに社の連れの客が思い出したように声を上げ、慌てて口を押さえる。
反射的にアキラは室内の時計を見た。今すぐにここを出れば乗れない事はない。
すると社は舌打ちしてポケットからチケットらしきものを取り出すといきなりそれを破り捨てた。
アキラは驚いて社を見つめると、社は少し恥ずかしそうに頬を赤くし、連れの方を
ジロリと睨み付けた。そしてすぐに盤上に見入る。
saiの事もあって秀策の棋譜を並べる事に特に多くの時間を裂いて来た。
心の中で無意識に常にヒカルに通じるものを選んで来てしまった気がする。
こうしている間でもヒカルは刻一刻と強くっている。自分にとってヒカルが生涯の
ライバルであり意識の中心である事は間違いがない。だがヒカルがそうであったように、社もまた、
自分に新たな囲碁へのかかわり方を指し示してくれる存在になるような予感がした。
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