storm 1 - 5
(1)
時刻はまだそう遅くはないはずなのに、真っ黒な雲のせいで、既にあたりは暗くなってきていた。
雨は一旦やんでいたが、今にもまた降り出してきそうだった。
風は益々凶暴さを増し、道行く人の足元をよろめかせた。
時折空を稲妻が走り、雷鳴が遠くでゴロゴロと鳴っていた。
嵐を避けようと、誰もが家路を急いでいた。
「あぶねぇっ!!」
叫んだときにはもう遅かった。
突風に煽られた看板が前から来た人物を直撃し、激しい音をたてて建物の壁に激突した。
「おい、大丈夫か?」
慌てて駆け寄り、激しい衝撃に気を失っているらしいその人の身体を抱き起こし、顔を覗き込んで、
息を飲んだ。
「塔矢…アキラ…?」
ポツリ、と雨粒が落ちてくるのを感じると、瞬く間に、雨はバラバラと音をたてて降り始めた。
(2)
看板で切ったらしく、黒いスーツの上着の袖が破けている。
救急車を呼んだ方がいいだろうか、そう思って携帯を探ろうとしていると、腕の中で彼が苦しそうな
うめき声を上げた。
「おい、大丈夫か?」
もう一度、声をかけると、彼は薄ぼんやりと目を開いた。
「さっきの風で、看板が飛んできて、ぶつかったんだ。大丈夫か?」
「…済みません、大丈夫だと…」
そう言って立ち上がろうとしてふらついた身体を、咄嗟に抱えた。
「思いっきりぶつかったみてぇだから、あんま急に動かない方がいいぜ。」
「…済みません。」
苦しそうな声で、彼は応えた。
「目ぇ覚まさなかったら救急車呼ぼうと思ったんだが、大丈夫か?」
「ええ、それ程ではないと思います。」
そうこうしている間に、雨が激しく降り出した。このままではずぶ濡れになる。
「とりあえず、こっち来い。」
そう言って彼の身体を引っ張って、庇の下で雨をよけようとした。
「止みそうにねぇなあ…」
雨は益々激しさを増し、道路は既に川のように水が流れ、地面に当たって跳ねる雨粒が足元をぬらす。
気まぐれに向きを変える強風のために、小さな商店の庇くらいでは雨をよけきれない。小さく舌打ちし
ながら、止みそうな気配など欠片もない豪雨を見ていると、横で彼がぶるっと身体を震わせた。
「…おまえ、怪我してるんじゃねぇか?おい、」
押さえている腕を放させると、破けているのは上着だけでなく白いワイシャツまで破け、そこから赤い血
が流れ出していた。
この通りにはタクシーは滅多に来ないし、駅まではまだかなりある。だがオレの家だったらすぐだ。
だが何を、オレは躊躇っている?
(3)
一、二分もかからない距離だったのに、それでもずぶ濡れになった。
玄関に彼を待たせておいて先に部屋に上がり、着ているものを脱ぎながらタオルを取りに行った。
一枚で自分の身体を拭きながら、もう一枚を彼に手渡し、言った。
「服、脱いだ方がいいぜ。そのままだと風邪を引く。」
それから奥の部屋へ入って、部屋の隅に転がっていたジーパンをとりあえずはき、それから彼に
着替えを、と思って箪笥の中からジャージを出した。
「おい、塔矢、着替え…」
そう言いながら玄関の方へ戻って、思わずぎょっとして言葉を飲み込んだ。
玄関の小さな灯りの下で、濡れて張り付く白いワイシャツを苦労しながら脱いでいる。時折、腕の
傷の痛みに顔をしかめる。濡れて水が滴り落ちる黒い髪と、白く浮き上がる上半身と、腕から流れ
る赤い血がやけに鮮明に見えた。
吸い寄せられるようになるその光景から懸命に視線を振り切ろうとして頭を振ると、彼がこちらに
気付いて顔を上げた。
「こっち来い。」
つかつかと歩み寄って上半身裸になった彼の、怪我をしていないほうの腕を掴むと、彼は痛みに顔
をしかめた。そのまま洗面所に連れて行き、傷口を洗う。彼は痛みをこらえながらも、こちらには逆
らわず、腕を差し出していた。
血と汚れをざっと洗い流し、タオルで拭くと、傷口から新たな血が滲み出した。だが、傷自体はさほど
深くはないようだ。傷口を押さえるようにタオルを巻きつけ、
「これに着替えたら来い。手当てしてやるから。」
そう言ってジャージを渡した。
(4)
「腕、出しな。」
そう言うと彼は素直に腕を差し出した。
白い腕に斜めに走る傷口とそこから滲み出る血の赤さが妙に扇情的で、その傷口に舌を這わせ、
赤い血を舐めとりたい衝動に駆られた。が、そうはせず消毒液を吹きかけた脱脂綿で傷口を拭うと、
それがしみたらしく、彼は痛みに顔をしかめた。
ガーゼを傷口の大きさに切り、患部に当てて、テープで止めた。
「包帯巻かなくても、これでちゃんと止まるよな。」
独り言のように言うと、
「本当に、色々と済みません。」
と彼はまた謝った。
「気にすんなよ、これくらい。あと、そっちも、」
と言って、右手を取った。
手の甲に軽く擦り傷ができていた。
「…気が付かなかった。」
「こっちはたいしたことねぇな。碁石を持つのにも支障はねぇだろ。」
そう言って傷口をペロリと舐めてやった。目を上げると、彼は目を丸くして驚いている。その顔ににやっ
と笑いかけてやると、かっと彼の頬が赤くなった。
「これっくらいなら、舐めときゃ直るよ。」
そう言いながら救急箱から絆創膏を取り出し、甲の傷に貼ってやった。
そして、「もう、上、着てもいいぞ」と言いながらジャージの上を渡そうとしたときに、唐突に彼が言った。
「ボクのこと、ご存知なんですか?」
(5)
「さっき、名前を呼びませんでしたか?それに碁石を持つのにって…」
そう言えば呼んだかもしれない。
っていうか、やっぱりコイツはオレの事を全然覚えていなかったんだな。
そう思うと、わかってはいても少しだけ胸が痛むのを感じた。
「やっぱり覚えてねぇんだな、おまえ。」
そう言うと彼は訝しげに首を傾げた。
「ガキん頃、おまえと同じ囲碁教室、通ってたんだぜ。オレはもう碁は止めちまったけどな。」
そう言っても、彼は思い出せないようだった。
わかってたさ。おまえがとっくにオレを忘れてるだろうって事は。
手を伸ばして頬に触れた。彼はびくっと身を竦ませた。
「血が出てるよ。ここも怪我したんだな。」
そう言って小さく笑った。だが彼は警戒するような表情を隠さずにオレを見た。
突然見せた警戒心に逆に煽られたのかもしれない。
そのまま顔を近づけ、唇を軽く重ねた。
一瞬の間の後に、彼の顔がぱっと逃げ、こちらを睨みつける。
「何の、つもりですか。」
「治療代さ。それくらいもらってもいいんじゃねぇか…?」
「…ふざけるなっ!」
頬に触れたままの手を振り払おうとした彼の手を逆に捕らえ、頭を引き寄せて、今度は深く唇を
合わせようとした。しかし、唇に鋭い痛みを感じて顔を放す。その痛みに舌をやると、血の味が
した。先程の塔矢の手の傷と同じ味が。
傷を手で拭って、自分にその傷を与えた相手を見る。
睨みつける彼の目に背筋がざわめくのを感じる。
その時、パシッと音がして、明かりが消えた。
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