若先生は柳腰 10 - 12
(10)
アキラが帰ったこともあり、客達も三々五々帰り支度を始めた。
盆と布巾を片手に、市河は客が使い終えた席を手際よく片付けていく。
アキラが出ていって30分も経たぬうちに、碁会所に残ったのは緒方と市河と北島の3人だけになった。
「じゃあ閉めるんで、2人は外で待っててもらえます?」
洗い物を済ませて身支度を整える市河の言葉に従い、緒方と北島は碁会所を出てエレベーターの前で
市河を待った。
「北島さん、何が食べたいですか?やっぱり和食がいいですかね?」
緒方の問いかけに、北島は慌てて手を振った。
「いやいや、若い方優先で決めて下さい。ワシは緒方先生と市ちゃんに誘ってもらった側なんですから……」
「そう水臭いことおっしゃらずに。ところで、こっちはどうです?」
緒方はそう言うと、左手でキュッと酒を呷る真似をしてみせた
「ハハ、いいですなァ!昨日一昨日と禁酒してたし、今日はちったぁ飲んでも許されますかねェ?
お恥ずかしい話だが、ワシは高血圧なもんで……。昔はたかが高血圧と高を括って結構飲んでたんですが、
思うところあって酒量を減らすようになりましてね」
「休肝日が2日あったんでしょう?少しならいいんじゃないですか?私も最近飲み過ぎなんで、
北島さんに倣って控え目にしますよ」
和やかに談笑する2人の前に市河が現れた。
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エレベーターの中で市河がやや非難めいた口調で呟く。
「緒方先生ったらお酒の話なんかして……。今日お車じゃないんですか?」
「生憎車検に出していてね。帰りはタクシーだ。市河さん、車は?」
市河は肩をすくめる。
「それが……先週細い道で電柱に脇を擦っちゃって……。今、修理に出してるんです」
「そうか。じゃあ市河さんも大手を振って飲めるよな?」
ニヤリと笑って尋ねる緒方に、市河は苦笑混じりに頷いた。
「よし。そうなると、問題は何を食べるかだな。市河さん、ご希望は?」
「あっさり和食系がいいかなぁ……。お蕎麦なんかどうですか?軽すぎるかしら?」
「蕎麦か。北島さん、どうです?」
「蕎麦とは嬉しいねェ。ワシの大好物なんですよ!」
1階に着き、エレベーターの扉が開く。
市河と北島に先に出るよう促しつつ、緒方は2人に提案した。
「取り敢えず新宿に出ませんか?蕎麦も酒も美味い、いい店を知ってるんでね」
新宿駅西口から5分程歩いただろうか。
3人は、大型家電量販店や雑居ビルが所狭しと立ち並ぶ街中にある小さな蕎麦屋に到着した。
「老舗っぽいお店だけど……こんな所にあるなんて意外な感じですね」
「この辺は一見ゴチャゴチャして汚いんだが、美味いものを食わせる店が多いんだぜ。なにせ
オフィス街だからな。ここは昼時にはサラリーマンで一杯になる人気店さ」
市河にそう言って笑うと、緒方は店員に話しかけた。
「3人だ。奥の座敷がいいんだが、空いてるかな?」
若い女性店員は「はい、どうぞ」と愛想良く頷くと、3人を奥へ通した。
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純和風の落ち着いた雰囲気を醸し出す店内は、中高年の客の比率がやや高かった。
店内の中央に位置するガラス張りの調理場には木製の蕎麦打ち台がどっしりと構えており、
いかにも本格的な手打ち蕎麦屋らしい。
「取り敢えず中ビン2本とコップ3つ頼むよ」
靴を脱いで座敷に上がると、緒方はすぐさま店員に注文を出した。
「緒方先生……」
呆れる市河を「まあまあ」と宥める緒方の横で、北島がコートを脱ぎながら冷やかしを入れた。
「市ちゃん、なんだかんだ言ってかなりいけるクチなんじゃねェか?最初、大人しそうに
猫被ってるヤツってェのは、酒が入るとよく大虎に化けるからなァ!」
「北島さんっ!!」
頬を膨らませて怒る市河に、緒方と北島は笑いを隠せない。
緒方と北島が向かい合う格好で通路側の席に、市河は緒方の隣にそれぞれ腰を下ろすと、
間もなくビール瓶とコップが運ばれてきた。
緒方はコップを2人に持たせると、早速ビール瓶を傾ける。
「それじゃあ乾杯しましょう。北島さん、先に一品料理を幾つか頼みませんか?
市河さんも好きなものを言ってくれよ。まずは少し摘んで、それからメインの蕎麦を注文しよう」
そう言って緒方は自分のコップにもビール満たす。
もう1本の瓶に手を伸ばした北島が、その様子に慌てて口を開いた。
「緒方先生、そんな手酌で……。ワシらに気を遣ってばかりじゃないですか」
「いいんですよ、北島さん。さあさあ乾杯だ。市河さんも遠慮せずに飲んでくれよ」
「遠慮も何も……ちょっとだけですよ」
ビールの泡が弾けるコップを緒方と北島のコップにカチンカチンとぶつけながら、
仕方なさそうに頷く市河だった。
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