若先生は柳腰 1 - 5


(1)
「……ったく若先生と対等ぶりやがって。だいたいなんだ!あの生意気な口のきき方は!?」
「まあまあ北島さん、毎度毎度そうカッカしなさんな。そんなことじゃ、また血圧が上がっちまうよ」
 パチリと小気味よい音を立てて黒石を打つ向かいの中年男性の一言に、北島はワナワナと
怒りに震える拳を碁笥に突っ込んだ。
「進藤君みたいなのが今時普通なんだろうさ。若先生は特別なんだよ。その辺の子とは育ちが違うんだからさ」
「……そりゃそうだがなァ……」
 荒々しく白石を碁盤に打ち付けると、北島は傍らの湯飲みをグイッと呷る。
「市ちゃん、お茶お代わりくれねェか!」
「ハイハイ。今持って行きますよ」
 受付の市河は呆れて笑いながらも、気の短い北島を待たせないよう茶を注いだ湯飲みを慌てて盆に載せた。

 碁会所──それは中高年男性の憩いの場であり社交場でもある。
リタイア後、何をするでもなく自宅で濡れ落ち葉と化して古女房に嫌味の猛襲を食らう輩に比べ、
碁会所に集う彼らは趣味があるという点で幸福と言えるであろう。
だが、北島の通うこの碁会所に集うオヤジ連中にとっては更なる幸福があった。
塔矢行洋元名人の一粒種、若先生こと塔矢アキラの見目麗しい姿を拝めることである。
 パツンと潔く切り揃えられたオカッパを引き立てる烏の濡れ羽色の如き艶やかな黒髪、
最高級の白磁を彷彿とさせる滑らかな肌、理知的で涼しげな切れ長の瞳、そして華麗に碁石を打つ
白魚のように細くしなやかな指先──育ちの良さが滲み出るアキラの優雅な佇まいは、オヤジの心を
惹き付けてやまないものがあった。


(2)
「……しかしまあ、オレはここで碁をやっててホントによかったよ。なにせ若先生がいるんだからなァ!」
 そうでなくとも細い目を嬉しそうに更に細めて、北島はパチリと白石を打った。
「まったくだ。自分の子供はとっくに片付いちまったし、だからって今更女房と膝付き合わせてって
いうのもなァ……。今は若先生の成長を見守るのが何より楽しいねェ」
 対局相手の言葉に頷きながら、北島は楽しそうに茶をすする。
「ホントホント。カミさんなんて顔合わせりゃロクなことにならん。昔はちったァ可愛げもあったが、
今はすっかり見る影もねェよ……」
「ハハハ!そりゃ向こうもそう思ってるだろうさ。そういえば、奥さんと夜の方はどうよ?
なんだかんだ言って、結構お盛んなんじゃないのかい?」
「……冗談じゃねェ!もう何年、いや何十年もご無沙汰だぜ。あんなの相手じゃ、起つどころか
引っ込んじまわァな……」
「……まあ、どこもそんなもんか。オレも糖尿でどうもアッチが弱っちまってねェ……。
女房にも愛想つかされっぱなしさ」

 碁盤を挟んで向かい合うオヤジ同士の、それは他愛もない会話であった。
だが、他愛がないのはオヤジ同士の間だけでの話である。
「…………」
 受付の市河はあくまで無表情を装っていた。
アキラのいる碁会所で受付を勤められることは、市河にとって無上の幸福であることは間違いない。
だが、その幸福と引き換えに何か大切なものを犠牲にしているような気がしないでもない市河であった。


(3)
(セクハラ上司のいる職場でOLするよりはマシと思わなきゃ……。そうよ!ここにはアキラ君がいるのよ!
見た目はどんどん大人っぽくなってるけど、進藤君とあんな言い合いなんてしちゃったり……まだまだ
中身は可愛い子供よね〜!進藤君もアキラ君もまだこれから成長していくのかぁ……なんだか羨ましい気もするわ。
私なんか、こうやってオヤジに囲まれているうちにだんだん耳年増になっていくだけ……マズイわね、これは……)
 天井を見上げ虚しく溜息をつく市河が顔を前に向けると、そこには白いスーツ姿の男が怪訝そうな表情で立っていた。

「市河さん、天井に何かあるのか?」
「やだっ!緒方先生っ!……な…なんでもないんですぅ……」
 慌てふためく市河を見て、緒方は人の悪い笑みを浮かべた。
「『なんでもない』ねェ……。クックック、まあ別にそれでも構わんが」
「……今日はこんな時間にどうしたんですか?最近はお忙しいんでしょ?」
 緒方のペースに巻き込まれないよう、市河は気を取り直して笑顔を作った。
「久々に時間に余裕ができてね。こう忙しいと、たまにはここの空気を吸いたくなるのさ。アキラ君はこれから来るのか?」
「たぶんそろそろ……。韓国語の教室が終わったら来るって言ってたから」
「中国語と韓国語か。語学は若いうちにやった方が身に付くのも早いだろうし、アキラ君ならすぐペラペラになりそうだな」
「そうでしょうね。緒方先生、お茶にします?それともコーヒー?」
「じゃあコーヒーをもらおうか。ブラックでな」
 市河は頷くと、カップとソーサーを取り出してコーヒーの用意を始めた。

「ちょうど良かった!緒方先生、今一局打ち終わったんで、これから指導碁お願いしていいですかねェ?」
 対局を終え、盤上の碁石を碁笥に戻す北島が緒方に声を掛けた。
「いいですよ」
 緒方は気さくに応じると、席を立ち場所を譲る北島の対局相手に軽く礼をして、深々と椅子に腰掛ける。
その席に、すかさず市河がコーヒーを運んできた。


(4)
 指導碁を終え、緒方と北島はそれぞれコーヒーカップと湯飲みを手に雑談に興じ始めた。
「緒方先生も二冠ですか。まったく大したもんですなァ!」
「いや、アキラ君を筆頭に若手が追い上げてくるのを考えたら、二冠で満足なんてしてられませんよ」
「『若手が追い上げてくる』とは、緒方先生も貫禄が付いてきましたねェ。こうなったら、若先生と
緒方先生でタイトル総ナメにしてもらいたいもんだ!」
「ハハ!是非そうしたいものですね」
 緒方が満更でもなさそうな表情で笑うのを見て、北島は嬉しそうに茶を飲み干した。

「ところで緒方先生、そろそろ身を固めるご予定はないんですか?」
 北島の一言に、コーヒーカップを持つ緒方の手が一瞬ぴくりと震えた。
本音を言えばあまり触れられたくない話題だ。
とは言え下手に話を逸らすのも大人気ないと思い、緒方はゆっくりと言葉を選んで話す。
「……ハハ、それがまったくないんですよ。ひとり暮らしに慣れてしまったせいか、今のままで
いた方が碁を続ける上でもいいような気がして……。結婚が、棋士としての人生にプラスになる
とは限らないでしょうし……」
「なるほどねェ……。確かにそうかもしれませんな。女ひとつで運気も変わってくるでしょうし、
下手に焦って結婚してもロクなことはなさそうだ」
 腕組みしながらウンウン頷く北島に緒方は驚きを隠せず、思わず本音を漏らす。
「意外ですね。てっきり結婚しろと熱弁でも振るわれるかと……」


(5)
 北島は「ハハハ!」と豪快に笑ってみせた。
「緒方先生だってまだまだお若いんだ。若い人にそんな野暮は言いませんよ。今の人はワシらの世代とは
価値観も違うでしょう」
 そう言った途端、北島はどこか寂しそうな笑みを浮かべる。
これまでに見せたことのない北島のそんな姿に、緒方は言葉を失ったままコーヒーカップをソーサーに戻した。
「……良かれと思って親心でしたことが、お節介になっちまうこともありますからねェ……。
おや、若先生が来ましたよ!」
 受付の市河にコートとマフラーを預けるアキラを嬉しそうに見守る北島の表情に、もはや先程までの
寂寥感は見受けられない。
緒方は複雑な気持ちでその様子をただ凝視するだけだった。

「緒方さん、来てたんですか。珍しいですね?」
 ダークグリーンのやや深いVネックのセーターにチャコールグレーのスラックス姿のアキラは、
そう言いながら緒方の横の席に腰掛けた。
「ああ。アキラ君、今日は韓国語の教室に行ってたんだって?……それにしても、随分薄着だな。
首周りが寒そうだぞ?」
「韓国語の教室の暖房が効きすぎてて、これくらい薄着じゃないと暑くて授業に集中できないんです」
 クスクス笑うアキラに北島が声を掛ける。
「若先生、韓国語はどんなもんですか?若先生のことだ、もうかなり喋れるんでしょう?」
「挨拶とかごく簡単な会話ならなんとか。でも、まだまだこれからって感じですね。
授業の進度が速くて予習と復習が大変ですよ」
「若いうちに色々挑戦しないと、歳取ってからじゃ覚えたことも右から左になっちまうからなァ。
囲碁も語学も頑張ってくださいよ!」
 小さく、だが力強く頷くとアキラは碁盤に向かう。
そんなアキラを北島はしばらく満足げに目を細めて見つめていた。



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