遠雷 16
(16)
アキラは彼の姿を追ったりはしなかった。しかし、どさっと重い物が落ちるような音し、ぎしっと金属が妬きしむ音で、芹澤が椅子に座ったのがわかる。
カチッと音がしたあとで、芹澤がふうと息をつく。
遅れて鼻腔に届く癖のある匂い。
芹澤は煙草を吸っているのだろう。
「ご主人様、なにかお飲み物をお持ちしましょうか?」
男の声。
「私はおまえのような駄犬の主人になったつもりはない」
少し離れたところで交わされる遣り取り。
「失礼いたしました」
アキラは、こんな状況の中、いまだに冷静な自分自身に少し驚く。
足音が聞こえる。椅子の音は聞こえなかったから、男が動いているのだろう。
チンとガラスの擦れる音がしたから、男は自分で言ったとおり、芹澤のために飲み物を準備しているのだろう。
遠くで聞こえるブー―――ンという低い音は、空調の音だろうか。
そちらに向かって空気が動いているから、きっとそうなんだろう。
キュッという音がして、トポトポと液体を注ぐ音がする。
お酒……、ブランデーの匂い………。
そこまで考えて、アキラは不思議に思った。
自分の感覚が妙に冴えている。
ベストコンディションでヒカルと対局するとき、まれに覚える感覚と似ていた。
碁盤の上に広がる宇宙にも似た空間の、その果ての果てまで見渡せるような感覚。
それは錯覚でしかないのだが、互換が研ぎ澄まされたときにだけ訪れる絶対的な感覚。
ぞくりと、アキラの体が震えた。
本当の地獄はここから始まる。
芹澤の指が施したものが、アキラの神経を侵食していく。
それは、静かに始まった。
始まりの合図は、体内に覚える掻痒感だった。
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