遠雷 17
(17)
「始まったようだな。おまえもそこに座って眺めるのを許してやろう」
芹澤の楽しそうな言葉に、男の顔に喜色が浮かぶ。
「芹澤さま、ありがとうございます」
男は、そういうと芹澤の足元に跪き、青白く血管の浮き出た足の甲に口づけた。
指導碁を頼んだ棋士が、いつから自分を支配するようになったのか、もうこの男に正確な日付はわからない。
わかるのは、この冷たいほど整った容貌を持つ男に、支配される喜びだけだ。
プロなら誰でもいいと思っていた。
それが芹澤を指名するようになったのは、碁石を持つ彼の手が、碁盤の上で優雅に動く様に魅了されてのことだった。
次に、彼が醸し出す独特の雰囲気に、安らぎを覚えている自分に気づき、気がついたときにはもう逃れられなくなっていた。
いま、こうして彼の足元に這いつくばり、気まぐれに声をかけられることが無上の喜びとなっていた。
彼の犬として振舞う間だけ、男には精神の自由が許されている。
犬である自分にとって、気にかけるべきは飼い主の機嫌だけ。
大企業の経営陣に連なる身の重責も、徐々に近づいてくる人生を賭けた競争のゴールも、忘れることができる。
忘れた上で、与えられる快楽。
それは、精神の快楽だ。
いま、自分の目の前で、若い体を小刻みに揺らしている彼に、この喜びがわかるだろうか。
男は、犬と呼ばれる身でありながら、優越感をもってアキラを眺めていた。
「いま、おまえはなにを見ている?」
芹澤が男に尋ねる。
「塔矢アキラ三段を見ています」
「彼のどこを見ているんだ?」
「乳首です」
「彼の乳首はどうなっている?」
「赤く尖っています。感じているのでしょう」
―――――がつっ!
男は肩のあたりをしたたかに蹴り飛ばされた。
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