遠雷 17 - 19


(17)
「始まったようだな。おまえもそこに座って眺めるのを許してやろう」
芹澤の楽しそうな言葉に、男の顔に喜色が浮かぶ。
「芹澤さま、ありがとうございます」
男は、そういうと芹澤の足元に跪き、青白く血管の浮き出た足の甲に口づけた。
指導碁を頼んだ棋士が、いつから自分を支配するようになったのか、もうこの男に正確な日付はわからない。
わかるのは、この冷たいほど整った容貌を持つ男に、支配される喜びだけだ。
プロなら誰でもいいと思っていた。
それが芹澤を指名するようになったのは、碁石を持つ彼の手が、碁盤の上で優雅に動く様に魅了されてのことだった。
次に、彼が醸し出す独特の雰囲気に、安らぎを覚えている自分に気づき、気がついたときにはもう逃れられなくなっていた。
いま、こうして彼の足元に這いつくばり、気まぐれに声をかけられることが無上の喜びとなっていた。
彼の犬として振舞う間だけ、男には精神の自由が許されている。
犬である自分にとって、気にかけるべきは飼い主の機嫌だけ。
大企業の経営陣に連なる身の重責も、徐々に近づいてくる人生を賭けた競争のゴールも、忘れることができる。
忘れた上で、与えられる快楽。
それは、精神の快楽だ。
いま、自分の目の前で、若い体を小刻みに揺らしている彼に、この喜びがわかるだろうか。
男は、犬と呼ばれる身でありながら、優越感をもってアキラを眺めていた。
「いま、おまえはなにを見ている?」
芹澤が男に尋ねる。
「塔矢アキラ三段を見ています」
「彼のどこを見ているんだ?」
「乳首です」
「彼の乳首はどうなっている?」
「赤く尖っています。感じているのでしょう」
―――――がつっ!
男は肩のあたりをしたたかに蹴り飛ばされた。


(18)
「芹澤…様……」
「私はなにが見えるか、訊いたはずだ。犬の分際で、人間さまに感想をいえるとでも思っているのか」
「し…失礼いたしました!」
男は慌てて、床に額を擦りつけた。
芹澤は、忌々しそうに舌打ちの音を聞かせた後で言った。
「もういい、顔を上げろ。続けるんだ」
「はい」
男は急いでもとの姿勢に戻った。
わずかな時間にも、アキラの体は顕著な変化を見せている。
「……全身が……ピンクに染まって、苦しそうに喘いでいます」
「それから?」
「菊門が、ひくひくしています。ひくつくたびに、奥から液が溢れています」
「クリームが溶けてきたのだろう。たっぷり塗りこんだからな」
男の体の奥がざわりと疼いた。
記憶がよみがえり、感覚が再現されたのだ。
薄緑のチューブから搾り出されるクリームは、何度か味わったことがある。
体の奥が燃えるように熱くなり、耐えられないむず痒さに襲われる。
台湾だか香港で手に入る媚薬で、精液を注がれてはじめて中和できる厄介な代物だ。
「腰が左右に動いています」
クリームに練りこまれた薬が浸透してきたのだろうと、男には理解できた。
痛みなら、歯を食い縛って我慢もできるだろう。だが、痒みは……。
男の欲望に火がつく。
自分はただ見ているだけなのに、自分もまた薬を施されたように錯覚する。
萎びた芋のような陰茎に芯が通った。
男は、アキラのその部分に視線をやった。
ひくつく後孔の上で、勃ち上がり震えているそれ。
淡く色づくアキラの陰茎の先は、てらてらと光っていた。
湧きあがる透明な雫に濡れそぼり、男を誘うように光っていた。


(19)
アキラの耳に、芹澤と男の遣り取りは届いていなかった。
いま彼の脳裏を占めるのは、無数の蟻。
百では利かない、千では利かない。
閉じた瞼の裏にびっしりとこびりつき蠢く、蟻の姿。
それは記憶の中から探し出された映像だ。
真夏の昼下がり、地面に落ちていた飴玉を覆い隠す勢いで群がっていた、蟻。
その記憶の中の絵が、いまアキラを苦しめる。

芹澤に散々弄ばれた後孔に、最初に感じたむず痒さは、ぞくっとした違和感だった。
それが徐々に膨れ上がっていく。
ざわざわと不穏な感覚がそこここで湧きあがり、無視できないまでになったとき、アキラの脳裏に浮かんだのが蟻だった。

――――――うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!

声にならない声で叫んでいた。
もう、冷静に事態を受け止める余裕などなかった。
薬によって限界まで研ぎ澄まされた感覚が、薬によって引き起こされる感覚に理由を与えた。
その正誤など、この際関係ない。

蟻が、体内に、群がっている。



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