遠雷 2 - 4
(2)
人間というものは、自身に向けられる悪意に対して、鈍感にできているものらしい。
好意には敏感だし、心のうちにある悪意は無視できないが、向けられる悪意には意識を遮断する傾向がある。
精神が健全であればあるほど、日頃善良に振舞っていればいるほど、その傾向は強い。
そして、囲碁にひたむきな情熱を捧げる塔矢アキラという人間は、間違いなく健全精神を持つ善良な人物だった。
だから、無防備であった彼を迂闊だと責める事はできない。
だが、本人は………。
重い瞼を開けたとき、アキラは自分がどこにいるのか、すぐには理解できなかった。
朦朧とかすむ目を何度となくしばたたかせるうちに、ようやく焦点が結ばれる。
白熱灯の投げかける暖色の光が、まず最初に知覚できたものだった。
(眠っていた…?)
床の間のある和室で夕食を振舞われていたことを、ぼんやりと思い出す。
いつ、自分は眠ってしまったのだろう。
そんなことを考えながら、目を擦るために右手を動かそうとして、アキラは初めて異変に気づいた。
腕が動かない。
両腕が動かない。動かないように縛られている。
驚いて上半身を起こそうとした。そして、本格的に蒼褪める。
両腕を上げた状態で、手首が一まとめに拘束されている。
―――――なぜ!?
「お目覚めですか?」
視界にゆらりと影が差した。
自分を見下ろしているのは、夕食をご一緒にと誘ってくれた男。
(3)
「これはいったいどういうことです!?」
男は答えない。ただ、アキラの全身に舐めるような視線を向けている。
その視線に促されたのだろう、アキラは恐るべき事実に気づいた。
自分が全裸であることに!
「これはいったい!?」
理不尽な仕打ちに、怒りが燃え上がる。
「何を考えているんですっ!!」
男は口の端を引き上げて、微笑して見せる。その空々しい笑みに、アキラは叫んだ。
「笑うな!」
そのときだった。男の背後にあるドアが開く。
「うるさいのは、好まないんだ」と、耳に心地の良いバリトンが告げる。
アキラは、暫しの間、言葉を失った。
薄く微笑み、自分を見下ろす整った容貌。
それは見知った顔だった。
「芹澤さん……」
彼は目を細め、優しげに笑んだ口元に、人差し指を押し当ててから声を聞かせた。
「しー―――、静かにしようね。これがなんだかわかるかな?」
そういってアキラの目の前に差し出したのは、穴のあいたピンポン球のようなものだった。
「これは、ボールギャグといってね。君から言葉を奪う拘束具だ」
芹澤は手馴れていた。
「芹澤さん、何をなそ!? …うぅっ!」
抗う間もなく、アキラは咥えた状態で、ギャグを装着されてしまう。
「この状況で、何をされるのかわからないなんて、私を失望させないでくれたまえ、塔矢くん」
「ぅ〜〜っ………」
「楽しい夜になりそうだ」
そう嘯くと、芹沢の手はアキラの乱れてしまった黒髪をゆっくりと撫で付けるのだった。
(4)
「思ったとおり、…いや、思った以上に綺麗な肌をしている」
芹沢は、指先でアキラの頬の感触を確かめながら、くつくつと喉の奥で笑った。
そのとたん、アキラの肌に粟が立った。
空調の効いた部屋の中、全裸でいても寒さは感じなかった。
それなのに、背筋を這い上がるようなこの悪寒は、芹沢の笑い声がもたらしたものだったろうか、
それとも頬から頤へ辿っていく指先が生みだすものだったろうか。
どちらにせよ、いま己の身に迫る危機に、ゆっくりと分析している余裕がアキラにあるはずがなかった。
アキラは、芹沢の指を振り払おうと激しく頭を振った。
自分がどのような形で拘束されているか、把握はしていなかったが、
それでも手足をあらん限りの力で動かす。
ガチャガチャと耳障りな金属音が頭の上で聞こえる。
「無駄だよ」
芹沢は、笑った。
それはこんな状況でさえなかったら、柔和な笑みといってもよかったろう。
「その手錠は、人間の力でどうにかできる代物じゃない。
この鍵で開けるか、ガスバーナーで焼ききるか……、
でも安心しなさい。内側にミンクの毛皮を張ってあるから、君の手首に傷がつくようなことはない。
好きなだけ抵抗していいんだよ、そのほうが私たちも楽しめる」
アキラはそこで初めて恐怖を覚えた。
いま目の前で涼しげな微笑を浮かべている男は、自分とは住む世界が違う。
本能がそれを察知した。
「さあ、はじめようか」
抑揚のない声で短く告げると、芹沢の長い指はアキラの頤を離れ、下へ下へと滑っていく。
その指が鴇色の突起を摘んだとき、アキラの上半身がびくりと揺れた。
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