遠雷 20 - 22


(20)
アキラはそう思った。そう感じた。そう認めた。
恐怖は津波のようにアキラを飲みこんでいく。
黒い悪魔は、体内に群がるだけではあきたらず、全身を覆い尽くしていく。
その連想にアキラは、震えた。
肌の上を這いまわる、蟻。
簡単に踏み潰すことのできる存在が、いまアキラを蹂躙している。
知覚と感覚の混乱の中、アキラは激しく身を捩った。
できうる限りの抵抗を、狂ったように続けていた。
手首が戒められていることも、無理な姿勢を取らされていることも、思い出す余裕などなかった。
頭をうち振るう。腰を左右に振り、上下に動かす。膝から下を必死になってばたばたと動かしてみる。
あらん限りの力で手を動かす。
それでも、無数の蟻は、這い回ることをやめようとしない。蠢くことをやめようとしない。
アキラの瞳から、初めて涙が零れた。
それは生理的な涙だ。
感情が零すものではない、肉体が零すものだ。

誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、…………。
この蟻を追い払って!
誰か!!


(21)
「辛いかい?」
響きの美しい声が、アキラの耳元で囁いた。
その声の持ち主が誰であるかは、この際問題ではなかった。
アキラは辛いと叫んだ。だが、声にはならなかった。
だから、何度も何度も頷いて見せた。
辛いから、助けて欲しいと、何度も頷いて見せた。
優しげな低音が、さらに問う。
「痒いの?」
ああ、そうか……と、アキラは心の中で呟いていた。
これは蟻じゃない。蟻が、肌の上を這いずっているんじゃない。
ただ、痒いんだ………。
痒いんだ。

ほんの少しだけ、心が落ち着く。
張りついて離れない無数の蟻を排除するのは難しいが、痒みならどう対処すればいいのかわかる。
掻けばいいんだ。
アキラは、手を動かそうとした。
一番痒い場所に、手を伸ばそうとした。
だが、手が動かない。
ぼろぼろと涙が零れた。それは悲しみから生まれたものだった。
手さえ動けば、この狂おしいほどの掻痒感から逃れられるのに!
アキラは、荒い息をつき、目で探した。
自分に優しい声を聞かせてくれた人物を探した。
端整の容貌が、驚くほど近くにいた。


(22)
響きのいいバリトンが尋ねる。
「どうして欲しい?」
アキラは答えた。
「痒い………」
声がでた。久しぶりに聞く自分の声に励まされ、アキラはさらに続けた。
「痒い、痒い、痒いんだ。掻いて、どうにかして…助けて!」
「私でもいいのかな?」
「だ、誰でもいいから、早くどうにかして!」
叫ぶように嘆願の言葉を吐きながらも、少しでも痒さから逃れようと、アキラは足を擦り合わせ、腰を盛んに揺らしていた。
「私の好きな方法でいいんだね?」
「いい、いい、いいから、早くっ!」
語尾は悲鳴に飲みこまれる。
痒くて痒くてたまらなかった場所に、灼熱の杭が打ち込まれた。
アキラはそう思った。
体の奥深くに深々と突き刺さる、熱。

あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――………!

それは間違いなく悲鳴だった。
だが、その根底には、甘い響きが潜んでいた。



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