黒の宴 3 - 4
(3)
アキラがそちらを向いたのに吊られるように指導碁を受けていた二人の客もその学生服の少年を見たため、
その少年は一瞬きょとんとして、ぺこりと小さく頭を下げるとそそくさと別の対局をしている
人たちのテーブルを覗き込んだ。
「清春!きちんと挨拶したのか!?若先生、失礼した。」
今しがた入って来た碁会所の常連客の一人がアキラの傍に立ち少年を手招きした。
「若先生、こいつはわしの甥っ子で昨日上京してきたんですよ。師匠の吉川八段と一緒に。吉川先生は夕べのうちに
大阪に戻られたんだが、こいつは東京見物したいと言ってうちに泊まってね。実はこいつ、塔矢元名人のファンでね。
吉川先生には内緒だが…。」
そう捲し立てて常連客の男は近寄って来た自分より頭一つ背の高い少年の頭の後ろに手をやって頭を下げさせた。
慌ててアキラも立ち上がった。
「それは…残念でしたね、父は今中国の方に行っていて。」
「それはこいつに言ったんですがね、塔矢アキラ三段にもぜひ会いたいみたいな事を言うんで、連れて来たんです。
突然で申し訳ない。こいつ、今度の北斗杯の予選に出るんですよ。」
それを聞いて、アキラはハッとなった。
「それでは、関西棋院の…」
「…社清春です。」
そこで初めてボソリと少年が口を開き、再度頭をぺこりと下げた。北斗杯の予選に出ると言う事は
ヒカルと出場枠を争う相手である。
「そうですか。ボクは予選には出ませんが、がんばってください。」
アキラが手を差し出すと社は少し戸惑い、手のひらをゴシゴシズボンに擦り付けると軽く握手を交わして来た。
「今、お時間はありますか?」
思わずアキラはそう訪ねていた。自分のチームメイトの候補としてなのかヒカルの対戦相手としてなのか
分からなかったが社に興味が引かれたのだ。社は無愛想ながらも首を大きくコクリと頷かせた。
(4)
指導碁の時間はまだ5分程残っていたが、アキラと社の会話を聞いた客らは早々と碁石を片付け
席を退き社に譲った。東西の若手プロの対局を見る事の方が価値が大きいと判断したのだ。
アキラがすまなそうに一言断り、社もやはり軽く頭を下げた。が、表情ひとつ変えず堂々とその席に腰掛けた。
碁盤を挟んで向かい合った時、互いに表情が変化した。
二人のプロ棋士が対峙した時、そこには友好の意識は欠片もない。
室内に居た者は次々手合いを中断し二人の若き棋士の周囲に集まり出す。それにも社は臆するところがない。
関西棋院の彼にしてみればアウェーで試合を挑むようなもののはずだ。
だがまるで彼は初めからそれを望んでいたような気がする、とアキラは思った。
ギラギラした好戦的な態度は彼から感じなかった。ただ何か他に意図があるような気がした。
予断は持たない事にしてはいたが向き合った瞬間に相手から感じるものがある時がある。
こちらへの受け答えをほとんど頷くのみでしか応えない無口なこの少年は、おそらく強い。
アキラがニギり、社が先番となった。
社の一手目に注目しその指先を見つめていたアキラは社が改めてこちらを見つめている事に気付いた。
「…?」
碁笥の中で黒石を持ったままの姿勢でアキラを見据えている。直感的にアキラは何かを仕掛けて来る事を予測した。
そしてその通りに碁盤の上に移動した社の指先はためらう事なく碁盤の中心に黒石を置いた。
手前の位置に置いて滑らすのでもなく石は音もなく静かに直接置かれた。
「初手天元…!?若先生相手に!?」
周囲の観客達が互いに顔を見合わせた。中には挑発的な行為と受け取り眉を顰める者もいた。
アキラも一瞬目を見張った。
盤上の石と、なおも突き刺さるように注がれる社の視線に「お前を征服する」と宣言されたような気がした。
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