若先生は柳腰 4 - 6
(4)
指導碁を終え、緒方と北島はそれぞれコーヒーカップと湯飲みを手に雑談に興じ始めた。
「緒方先生も二冠ですか。まったく大したもんですなァ!」
「いや、アキラ君を筆頭に若手が追い上げてくるのを考えたら、二冠で満足なんてしてられませんよ」
「『若手が追い上げてくる』とは、緒方先生も貫禄が付いてきましたねェ。こうなったら、若先生と
緒方先生でタイトル総ナメにしてもらいたいもんだ!」
「ハハ!是非そうしたいものですね」
緒方が満更でもなさそうな表情で笑うのを見て、北島は嬉しそうに茶を飲み干した。
「ところで緒方先生、そろそろ身を固めるご予定はないんですか?」
北島の一言に、コーヒーカップを持つ緒方の手が一瞬ぴくりと震えた。
本音を言えばあまり触れられたくない話題だ。
とは言え下手に話を逸らすのも大人気ないと思い、緒方はゆっくりと言葉を選んで話す。
「……ハハ、それがまったくないんですよ。ひとり暮らしに慣れてしまったせいか、今のままで
いた方が碁を続ける上でもいいような気がして……。結婚が、棋士としての人生にプラスになる
とは限らないでしょうし……」
「なるほどねェ……。確かにそうかもしれませんな。女ひとつで運気も変わってくるでしょうし、
下手に焦って結婚してもロクなことはなさそうだ」
腕組みしながらウンウン頷く北島に緒方は驚きを隠せず、思わず本音を漏らす。
「意外ですね。てっきり結婚しろと熱弁でも振るわれるかと……」
(5)
北島は「ハハハ!」と豪快に笑ってみせた。
「緒方先生だってまだまだお若いんだ。若い人にそんな野暮は言いませんよ。今の人はワシらの世代とは
価値観も違うでしょう」
そう言った途端、北島はどこか寂しそうな笑みを浮かべる。
これまでに見せたことのない北島のそんな姿に、緒方は言葉を失ったままコーヒーカップをソーサーに戻した。
「……良かれと思って親心でしたことが、お節介になっちまうこともありますからねェ……。
おや、若先生が来ましたよ!」
受付の市河にコートとマフラーを預けるアキラを嬉しそうに見守る北島の表情に、もはや先程までの
寂寥感は見受けられない。
緒方は複雑な気持ちでその様子をただ凝視するだけだった。
「緒方さん、来てたんですか。珍しいですね?」
ダークグリーンのやや深いVネックのセーターにチャコールグレーのスラックス姿のアキラは、
そう言いながら緒方の横の席に腰掛けた。
「ああ。アキラ君、今日は韓国語の教室に行ってたんだって?……それにしても、随分薄着だな。
首周りが寒そうだぞ?」
「韓国語の教室の暖房が効きすぎてて、これくらい薄着じゃないと暑くて授業に集中できないんです」
クスクス笑うアキラに北島が声を掛ける。
「若先生、韓国語はどんなもんですか?若先生のことだ、もうかなり喋れるんでしょう?」
「挨拶とかごく簡単な会話ならなんとか。でも、まだまだこれからって感じですね。
授業の進度が速くて予習と復習が大変ですよ」
「若いうちに色々挑戦しないと、歳取ってからじゃ覚えたことも右から左になっちまうからなァ。
囲碁も語学も頑張ってくださいよ!」
小さく、だが力強く頷くとアキラは碁盤に向かう。
そんなアキラを北島はしばらく満足げに目を細めて見つめていた。
(6)
やがて北島は緒方の方を向き直ると、深々と頭を下げる。
「ありがとうございました、緒方先生」
緒方は北島に一礼して静かに席を立つと、コーヒーカップとソーサーを手に受付に向かった。
北島は傍らの『週間碁』を開き、のんびり読み始める。
「あら緒方先生、そのままで構わないのに」
カップを持ったままソーサーだけ受付のカウンターに戻す緒方に、市河は苦笑した。
「いや、お代わりをお願いしたくてね」
「向こうで呼んでくれれば私が……」
「ここで飲むからいいんだ」
市河は肩をすくめて笑うと、緒方の差し出すカップにコーヒーを注いだ。
「さながらアキラ君親衛隊の隊長といったところか、北島さんは」
緒方はそう呟くと、注がれたばかりのコーヒーを冷ましながらカウンターに片腕を預けて北島の方を見遣る。
「まさにそんな感じねぇ……」
(北島さんは表向きってトコロね。実は影の隊長は私だったりして……)
市河は溜息混じりにカウンターに両肘をつくと、緒方と同じ方向に視線を投げた。
「北島さん、奥さんは……いるよな。お子さんは?市河さん、知ってるかい?」
「ええ。確か娘さんがひとり。でも地方に嫁いでるって聞いた記憶が……」
(アキラ君が旦那様なら地の果てでも耐えてみせるけど、そうじゃなかったら絶対耐えられないわ、私には……)
そんなことを思いながら、市河はどこか感心したように呟いた。
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