若先生は柳腰 6 - 10
(6)
やがて北島は緒方の方を向き直ると、深々と頭を下げる。
「ありがとうございました、緒方先生」
緒方は北島に一礼して静かに席を立つと、コーヒーカップとソーサーを手に受付に向かった。
北島は傍らの『週間碁』を開き、のんびり読み始める。
「あら緒方先生、そのままで構わないのに」
カップを持ったままソーサーだけ受付のカウンターに戻す緒方に、市河は苦笑した。
「いや、お代わりをお願いしたくてね」
「向こうで呼んでくれれば私が……」
「ここで飲むからいいんだ」
市河は肩をすくめて笑うと、緒方の差し出すカップにコーヒーを注いだ。
「さながらアキラ君親衛隊の隊長といったところか、北島さんは」
緒方はそう呟くと、注がれたばかりのコーヒーを冷ましながらカウンターに片腕を預けて北島の方を見遣る。
「まさにそんな感じねぇ……」
(北島さんは表向きってトコロね。実は影の隊長は私だったりして……)
市河は溜息混じりにカウンターに両肘をつくと、緒方と同じ方向に視線を投げた。
「北島さん、奥さんは……いるよな。お子さんは?市河さん、知ってるかい?」
「ええ。確か娘さんがひとり。でも地方に嫁いでるって聞いた記憶が……」
(アキラ君が旦那様なら地の果てでも耐えてみせるけど、そうじゃなかったら絶対耐えられないわ、私には……)
そんなことを思いながら、市河はどこか感心したように呟いた。
(7)
緒方は意外そうな表情を見せる。
「一人娘をよく地方に出したもんだな」
「ちょっと驚きよねぇ。北島さんって、そんなこと絶対させたがらないタイプだと思ってたもの……」
「ああ、オレも同感だ。何か複雑な事情でもあったのかな?」
「その辺は私も知らなくて。でも何かあったんでしょうね」
確信ありげに話す市河に、緒方は思わず振り返った。
「随分自信ありげだな。それは何?女の勘ってヤツか?」
緒方はそう言いながら、北島の方に視線を向けたままの市河の顔を覗き込んだ。
「まあそんなところです」
緒方と顔を見合わせて市河が笑う。
「考えてみれば、緒方先生がお客さんの個人的な事を知りたがるなんて珍しいですね。
どういう風の吹き回しですか?」
「いやまあ別に……。北島さんはアキラ君への思い入れが極端に強いから、なんとなく興味が……」
「フフ、なんとなく……ですか。それにしてもアキラ君って項がキレイよねぇ」
背筋を真っ直ぐに伸ばして座るアキラの後ろ姿を見つめ、市河は惚れ惚れ呟いた。
(い…市河さん……!?)
緒方は口に含んだコーヒーを吹き出しそうになるのを必死で堪える。
軽く咳払いをすると、なんとか平静を装って口を開いた。
「……そうだな。今日はやけに首周りの空きが大きいセーターだから、余計目立つな」
「素肌にセーター一枚なのかしら?さすが若いわよね〜。おまけに胸は薄いし腰は細いし……
贅肉全然なさそうねぇ。羨ましいわ……」
(これは一種のこ…言葉責めってヤツか……?)
緒方とアキラの夜の私生活など知る由もない市河の言葉に、当然ながら他意はない。
そうとは知りながらも目眩を覚えずにはいられない緒方だった。
(8)
「同性の目から見てもアキラ君って惹き付けられるものがありそうよね。緒方先生はどう思います?」
「…………」
市河の問いかけに、緒方は固まったまま動かない。
聞こえていないのか、返答に窮しているのか、市河にはいまいち判別しかねるものがあった。
「緒方先生!!どう思うか訊いてるんですけど!?」
市河は仕方なくカウンター越しに上半身を伸ばし、緒方の耳元で声を上げた。
「……そんなにデカイ声を出さなくても聞こえてるよ、市河さん……。まあ魅力的なのは事実だろう。
碁会所のお客さん達も少なからずそう思っているんじゃないか?えてして男ってヤツは、
ああいうノーブルな高嶺の花タイプに弱いからな。アキラ君が聞いたら怒りそうだが……」
(そうそう!ノーブルな高嶺の花なのよ!そこが堪らないのよね〜!!)
緒方の返答に、市河はニコニコと満足げに頷く。
(知らぬが仏だな……。市河さん、ご愁傷様)
緒方は小さく溜息をつくと、心の中で合掌した。
コーヒーを飲み干してカップをカウンター上のソーサーに戻すと、緒方は何食わぬ顔で言ってのける。
「悪いんだが、もう一杯お代わりをもらえるかな?今度はカップ半分でいいんだが」
「随分飲むんですねぇ……。そんなに飲むと夕食が入らなくなりません?」
カップに半分程コーヒーを注ぐと、市河は少し呆れたようにクスクス笑った。
礼のつもりかカップを軽く持ち上げてみせると、緒方は中身を冷ましながら呟く。
「まあな。だが今日は昼に結構食ったから、どのみち夜は軽く済ますつもりでね」
「そういえば私もお昼にかなり食べちゃっのよねぇ……。夜は軽くしないと太りそうだわ」
「それなら市河さん、ここが終わったら一緒に夕飯でもどうだい?」
「私と……?他に然るべきお相手がいらっしゃるんじゃないんですか?」
(9)
緒方は唇からコーヒーカップを離すと、自嘲気味に鼻を鳴らした。
「いないから誘ってるんだが……」
市河は思わず苦笑する。
「……あら、それは失礼。そうだわ!だったら北島さんも誘いません?確か北島さん、今日は奥さんが外出してて
外で夕食を済ませなきゃって……来た時、そんなことをぼやいてたわ」
「それは名案だな。今夜は北島さんも誘って大人3人で楽しくやるとするか。アキラ君は自宅で食べるだろうし」
緒方の言葉に頷くと、市河は受付のカウンターを出て週間碁を読み耽る北島の元へ歩み寄った。
横で碁盤に向かうアキラの邪魔にならないよう、小声で北島に話しかける。
市河の誘いを快諾する北島の様子を眺めながら、緒方はコーヒーを静かに啜った。
(市河さんと北島さんか……。これは、なかなか面白そうだ。まあ酒でも入れて、せいぜいアキラ君を熱く
語ってもらうとするかな)
「ボクはこれで帰りますけど、緒方さんはどうするんですか?」
碁の勉強を終え、受付で市河から受け取ったコートとマフラーを身につけると、アキラは緒方の顔を覗き込んだ。
(今日はないぞ、アキラ君。わかってるよな?)
目で合図する緒方に、アキラは周囲に気取られないよう小さく頷く。
「ここが終わるまではいるつもりだ。市河さん達と夕飯を食べることになってるんでな」
「そうなんですか」
緒方の言葉にさりげなく微笑むと、アキラは振り返って碁会所の客達に軽く礼をした。
「近いうちにまた来ます。それじゃあ」
優雅なその立ち居振る舞いに、オヤジ共の熱い溜息が漏れる。
「若先生、気をつけて帰ってくださいよ!」
北島の言葉に頷くと、アキラは自動扉の向こうに消えた。
(10)
アキラが帰ったこともあり、客達も三々五々帰り支度を始めた。
盆と布巾を片手に、市河は客が使い終えた席を手際よく片付けていく。
アキラが出ていって30分も経たぬうちに、碁会所に残ったのは緒方と市河と北島の3人だけになった。
「じゃあ閉めるんで、2人は外で待っててもらえます?」
洗い物を済ませて身支度を整える市河の言葉に従い、緒方と北島は碁会所を出てエレベーターの前で
市河を待った。
「北島さん、何が食べたいですか?やっぱり和食がいいですかね?」
緒方の問いかけに、北島は慌てて手を振った。
「いやいや、若い方優先で決めて下さい。ワシは緒方先生と市ちゃんに誘ってもらった側なんですから……」
「そう水臭いことおっしゃらずに。ところで、こっちはどうです?」
緒方はそう言うと、左手でキュッと酒を呷る真似をしてみせた
「ハハ、いいですなァ!昨日一昨日と禁酒してたし、今日はちったぁ飲んでも許されますかねェ?
お恥ずかしい話だが、ワシは高血圧なもんで……。昔はたかが高血圧と高を括って結構飲んでたんですが、
思うところあって酒量を減らすようになりましてね」
「休肝日が2日あったんでしょう?少しならいいんじゃないですか?私も最近飲み過ぎなんで、
北島さんに倣って控え目にしますよ」
和やかに談笑する2人の前に市河が現れた。
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