黒の宴 6 - 8


(6)
「おい、清春…!若先生だって都合があるかもしれんのだぞ!」
社の行動に焦ったように再度連れの客が声をかけた。社はチラリとアキラを見つめた。
アキラはそんな社を安心させるように少し笑んで首を横に振った。
するともう、社の意識からは盤面と塔矢アキラしか存在しなくなったようであった。
この後の都合があったのは連れの客の方だったようで、ため息をつくと「清春は一度ああなってしまうと…」
と何やらブツブツ言いながら碁会所を出て行ってしまった。
その客の後ろ姿を見送ってさすがにアキラが心配そうに社を見ると、社は盤面を見たまま
「子供やないんやから、見送りはええゆうたのに勝手について来たンや。ここも一人で来るつもりやった。」
と独り言のように呟き指先で黒石を挟むと右下の白石にぴたりとツケて来た。
アキラは黒の連絡を警戒し白石を逃がすべく打った。
「まさか、…ホンマにこうして塔矢アキラと打てるとは思おてへんかったけどな。」
再び白石を追い詰めるように打ち込み、社はアキラの目を真直ぐ見つめて来る。
「あんたはオレを知らへんやっただろうけど…オレはずっと…。」
ふいに社の手が伸びて来て髪に触れられて来るような、そんな錯角が起こるような熱い視線だった。
「…思ったよりは、よく喋る方のようですね。」
それをかわすようにアキラは反対側の黒の地に深く切れ込む。社が小さく唸り、思わず守りに回った
一手を打つ。が立続けにアキラに攻め込まれ後手に回って左側の地を幾らか減らすはめになった。
「危ない危ない。」
撫でようと思ったネコに引っ掻かれて反射的に退いてしまった自分に社は舌打ちする。
アキラは一気に左の黒を墜とすつもりだった。だが社に最小限の犠牲に押さえられた。
敬意を表すつもりでアキラはニコリと笑って社を見返した。
社も笑い返すが瞳の奥では鋭く獲物を狙う光を持っていた。


(7)
油断はまだ出来なかった。中央の黒石はまだ包囲されないまま盤上の白石を睨んでいる。
その時アキラの体がゾクリと小さく震え、思わずアキラは強く首を横に振った。
体の奥にゆらりと小さく炎が揺れたような気がしたのだ。そんなはずはない。
相手はヒカルではないのだから。思いがけず面白みのある対局に気持ちが高まっているだけだろう。
天元に置かれた黒石が第三の社の目のようにアキラを見据えて来る。それだけでなく、的確に打たれた
要所要所の黒石全てがアキラを見つめている。
白石の僅かな変化も反撃の気配も見逃すまいとするように。
塔矢アキラの碁を、棋譜を何度も見つめ並べて来た者と打つ事がどういう事か、アキラは実感せざるを
えなかった。まるで衣服を通して何もかも見つめられているような感覚だった。過去の自分の好手も、悪手も。
ヒカルとの対局の時がそうだった。互いに相手を求め合い二人の魂が重ね合うようにして対局が進んでいく。
…社も、そういう相手なのだろうか。
先刻にもそう感じた、自分の中の価値観を動かす相手。理屈ではなく体が反応している。
…ヒカルに対してそういう感情を持ったように、彼に対しても自分を与え、彼を得たいと、
そう思うようになるのだろうか。
もう一度強く首を横に振る。
…何を考えているんだ、ボクは…。
頭で否定をしてもドクンと、脈打つ部分がある。
地の奪い合いに突入したまま終局までもつれ込むのは必至だった。
表面上では極めて冷静さを装いつつも微かに頬を紅潮させ、ほんの僅かに呼吸を乱すアキラの口元を
社は興味深気に見つめていた。
その視線にさらにアキラの体の奥が熱く高められていくようだった。


(8)
自分は病んでいる、どこかおかしい、とアキラは思った。
あの出来事のせいだけではない。あの出来事は、自分の本性に気付くきっかけになったに過ぎなかった。
いかに自分がヒカルとの肉体的な結びつきを望んでいるか思い知らされた。
そのヒカルの幻影を社に求めようとしている。このままこの対局を続けるのはアキラにとって拷問に近かった。
一刻も早くこの場を離れて冷たい外気に触れて卑しい劣情を収めたかった。
だが、まだ勝敗の行方が見えないうちにこちらが投了する事はチケットを無駄にした社に申し訳が立たない。
何より棋士としてのプライドが許さない。
押さえようとすればする程高まる脈と荒くなる呼吸を唇を噛み締めることで封じてアキラは打ち続ける。
社は何か考え込むようにそんなアキラの様子を観察していたが、突然それまでの流れを変化させて
勝負手を仕掛けて来た。天元の石を効かせようとしているのは明らかだった。
ギャラリー達も社の度胸に感心しつつアキラの反撃を見守る。
だがアキラは社のタイミングに心の中で首を傾げていた。まだ、早い、という印象だった。
手順さえ追えば白に左右の上隅を奪わせるチャンスを与えようとするようなものだ。
いくら中央を征服する事が出来ても。
「…?」
社の意図が読めないままアキラはイメージにならった場所へ石を置く。
「若先生はさすがだ。落ち着いてる。」
「だが関西棋院の兄ちゃんもたいしたもんだ。初手天元で若先生とここまで渡り合うとは。」
周りで両雄に対する賞賛の声が漏れる。だがアキラが感じたものは屈辱感に近かった。
勝ちを、譲られたのだ。多分。こちらの変調を勘の鋭いこの相手に悟られてしまったのだろう。



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