黒の宴 9 - 10
(9)
「…ありません。」
寡黙な棋士に戻っていた社がそう言って頭を下げた。
それに対しアキラの方が敗者のような面持ちで頭を下げた。
「東京駅まで、送ります。」
今の自分に出来る精一杯の誠意のつもりでアキラは言った。社がニコリと微笑んだ。
体格のせいもあるが、青年のような落ち着きのある穏やかな笑顔だった。
今まで周囲に居なかったタイプなのは間違いない。アキラの同世代の棋士は皆アキラに対し過剰に
敵視するか妙に遜って一線を引こうとするかだった。だがこの社には余裕がある。懐の深さを感じる。
不良も優等生も分け隔てなく友人として周囲に多く持つような、そんな快男子のイメージが漂っている。
自分の体はある意味正常ではないが、ある意味正直なのだろうとアキラは思った。
魅力的な碁を打つ者に惹かれる。それだけなのだ。
社が大きなスポーツバッグを抱えてアキラの隣に立つ。広い肩幅に真直ぐな姿勢。何か試合を終えた
体育会系の部員としか見えない。
だがその学生服から臭うのは土や汗臭さではなく、アキラも馴染んだ碁会所特有の煙草の移り香だ。
市河もどこか心の琴線に触れるものがあったらしく受付の定位置でぼんやり社の横顔を見つめていたが、
正確には中途半端なアイドルも逃げ出すであろうこの見目麗しい美少年のツーショットに
見愡れていたのだが、連れ立って出て行こうとする二人にハッとしたように我に返って声を掛けて来た。
「そうだわ、アキラ先生、忘れないうちにこれ」
そう言っていかにも事務的な符丁のついた一つの鍵をアキラに手渡して来た。
「あ、はい。」
何の気無しにアキラが市河から鍵を手のひらに受け取るのを社がじっと見つめていた。
(10)
そういえばこの近くに父が新たに事務所として一室を借りたと聞いていた。市河が軽く清掃をしてくれたのだ。
「やっぱ東京モンは違うな」
碁会所を出て間もなく社がそう口にし、アキラが怪訝そうな顔を向けた。
そして直ぐに社がさっきの鍵の事を何か誤解しているのだと気がついた。
「違うよ、この鍵は事務所の部屋の鍵。」
ゆくゆくは自分も使う機会があるだろう。一度見ておきたい場所であった。
「なんや、色気の無い話やなあ。」
「色気って…」
「まあお互い碁一筋の青春っちゅうことやな。ハハハ。」
と、爽やかな笑い声と同時にグルウウウウと豪快に社の腹が鳴った。
「…ハ」
社は赤くなるとパンッと手を合わせてアキラに頭を下げた。
「スマンが塔矢三段、ちょこっとつき合うてくれ」
数分後、アキラはファーストフードの店内でハンバーガー五個とポテトとコーラのLを
2個のトレーに分乗させた社と向き合って居た。
アキラはオレンジジュースのsのコップを手にしていた。社はほとんど二口程で立続けに3個ハンバーガーを
無き物にすると4個目からようやく味わう気になったらしくゆっくり頬ばった。
ヒカルも空腹の時は3個位頼む事はあったが社の豪快さには届かない。
「やっと収まった。実は死にそうに腹減っていたんや。」
ポテトをひょいひょい口の中に放り込みながら社が屈託のない笑顔を見せる。つられてアキラも笑顔になる。
店内の、特に若い女性が振り返り友人同士で社とアキラのどちらの方が好みか囁き合うのが聞こえて来る。
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