黒の宴 9 - 11
(9)
「…ありません。」
寡黙な棋士に戻っていた社がそう言って頭を下げた。
それに対しアキラの方が敗者のような面持ちで頭を下げた。
「東京駅まで、送ります。」
今の自分に出来る精一杯の誠意のつもりでアキラは言った。社がニコリと微笑んだ。
体格のせいもあるが、青年のような落ち着きのある穏やかな笑顔だった。
今まで周囲に居なかったタイプなのは間違いない。アキラの同世代の棋士は皆アキラに対し過剰に
敵視するか妙に遜って一線を引こうとするかだった。だがこの社には余裕がある。懐の深さを感じる。
不良も優等生も分け隔てなく友人として周囲に多く持つような、そんな快男子のイメージが漂っている。
自分の体はある意味正常ではないが、ある意味正直なのだろうとアキラは思った。
魅力的な碁を打つ者に惹かれる。それだけなのだ。
社が大きなスポーツバッグを抱えてアキラの隣に立つ。広い肩幅に真直ぐな姿勢。何か試合を終えた
体育会系の部員としか見えない。
だがその学生服から臭うのは土や汗臭さではなく、アキラも馴染んだ碁会所特有の煙草の移り香だ。
市河もどこか心の琴線に触れるものがあったらしく受付の定位置でぼんやり社の横顔を見つめていたが、
正確には中途半端なアイドルも逃げ出すであろうこの見目麗しい美少年のツーショットに
見愡れていたのだが、連れ立って出て行こうとする二人にハッとしたように我に返って声を掛けて来た。
「そうだわ、アキラ先生、忘れないうちにこれ」
そう言っていかにも事務的な符丁のついた一つの鍵をアキラに手渡して来た。
「あ、はい。」
何の気無しにアキラが市河から鍵を手のひらに受け取るのを社がじっと見つめていた。
(10)
そういえばこの近くに父が新たに事務所として一室を借りたと聞いていた。市河が軽く清掃をしてくれたのだ。
「やっぱ東京モンは違うな」
碁会所を出て間もなく社がそう口にし、アキラが怪訝そうな顔を向けた。
そして直ぐに社がさっきの鍵の事を何か誤解しているのだと気がついた。
「違うよ、この鍵は事務所の部屋の鍵。」
ゆくゆくは自分も使う機会があるだろう。一度見ておきたい場所であった。
「なんや、色気の無い話やなあ。」
「色気って…」
「まあお互い碁一筋の青春っちゅうことやな。ハハハ。」
と、爽やかな笑い声と同時にグルウウウウと豪快に社の腹が鳴った。
「…ハ」
社は赤くなるとパンッと手を合わせてアキラに頭を下げた。
「スマンが塔矢三段、ちょこっとつき合うてくれ」
数分後、アキラはファーストフードの店内でハンバーガー五個とポテトとコーラのLを
2個のトレーに分乗させた社と向き合って居た。
アキラはオレンジジュースのsのコップを手にしていた。社はほとんど二口程で立続けに3個ハンバーガーを
無き物にすると4個目からようやく味わう気になったらしくゆっくり頬ばった。
ヒカルも空腹の時は3個位頼む事はあったが社の豪快さには届かない。
「やっと収まった。実は死にそうに腹減っていたんや。」
ポテトをひょいひょい口の中に放り込みながら社が屈託のない笑顔を見せる。つられてアキラも笑顔になる。
店内の、特に若い女性が振り返り友人同士で社とアキラのどちらの方が好みか囁き合うのが聞こえて来る。
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白のセーターと淡いベージュのチノパンに深いグリーンのPコートを羽織ったアキラを少女と見間違えて
「お似合いのカップルね」と耳打ちし合うアベックも居る。そう言う事にアキラは慣れていて気にしていなかった。
ヒカルだって社と並べば女の子に間違えられかねないだろうと思った。
確かに店を出てからも社は心持ち人混みからアキラを庇うように寄り添って歩いた。
アキラに対し興味深気な視線を送る中年の男を社は容赦なくジロりと睨み返す。
社の行動一つ一つに押さえ切れない男気が見て取れる。怖いもの知らずで生意気盛り。
多分社はかなり女の子にモテるだろうな、とアキラは思った。
その時ふと、社が足を止めた。繁華街の店の並びの本屋を気にしている。
「塔矢元名人の詰碁選集、新しいの出たんやろ。まだゲットしとらへんのや、オレ。」
「何だ、それなら、」
碁会所に戻ればあるはずだが、ふとアキラは新しい事務所に寄ろうかと思った。
父の本以外にも参考に出来る本が運んであるはずだ。社に好きな物を選ばせて貸してあげられる。
アキラはその事を社に提案してみた。新幹線の時間の事が気掛かりではあったが。
「ホンマか!?ええんか!?大阪行きなんて遅くまでいくらでも出とる。大丈夫や。」
賑やかな表通りから一本奥まった通りにその建物はあった。
碁会所と同じように八階立てのコンクリートのビルの中の一室。
他の部屋も住居と言うより事務所として借りられているせいかエレベーターであがっても
内部はひっそりと静まっている。
二人は黙ったままやけに足音が響く廊下を歩いた。時間的なものもあるが、これ程人気の無い
場所だとは思わなかった。
アキラは多少後悔する反面、そう思う事が社に対して失礼な話だと自分を戒めた。
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