黒の宴 9
(9)
「…ありません。」
寡黙な棋士に戻っていた社がそう言って頭を下げた。
それに対しアキラの方が敗者のような面持ちで頭を下げた。
「東京駅まで、送ります。」
今の自分に出来る精一杯の誠意のつもりでアキラは言った。社がニコリと微笑んだ。
体格のせいもあるが、青年のような落ち着きのある穏やかな笑顔だった。
今まで周囲に居なかったタイプなのは間違いない。アキラの同世代の棋士は皆アキラに対し過剰に
敵視するか妙に遜って一線を引こうとするかだった。だがこの社には余裕がある。懐の深さを感じる。
不良も優等生も分け隔てなく友人として周囲に多く持つような、そんな快男子のイメージが漂っている。
自分の体はある意味正常ではないが、ある意味正直なのだろうとアキラは思った。
魅力的な碁を打つ者に惹かれる。それだけなのだ。
社が大きなスポーツバッグを抱えてアキラの隣に立つ。広い肩幅に真直ぐな姿勢。何か試合を終えた
体育会系の部員としか見えない。
だがその学生服から臭うのは土や汗臭さではなく、アキラも馴染んだ碁会所特有の煙草の移り香だ。
市河もどこか心の琴線に触れるものがあったらしく受付の定位置でぼんやり社の横顔を見つめていたが、
正確には中途半端なアイドルも逃げ出すであろうこの見目麗しい美少年のツーショットに
見愡れていたのだが、連れ立って出て行こうとする二人にハッとしたように我に返って声を掛けて来た。
「そうだわ、アキラ先生、忘れないうちにこれ」
そう言っていかにも事務的な符丁のついた一つの鍵をアキラに手渡して来た。
「あ、はい。」
何の気無しにアキラが市河から鍵を手のひらに受け取るのを社がじっと見つめていた。
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