種村季弘



『東京迷宮考 -種村季弘対談集-』
 (青土社
 2001年10月刊)

●読み返してみて、アレ? っていう


 この本ねぇ、読んだときはあんまり面白かった印象がなかったんだけど、この感想を書くにあたって、初読からかなり時間も経ってるしと思って、もう一回ペラペラめくってみたんですよ。そしたらすんごい面白いんだ。最初読んだとき、ちょっと心が弱ってきてる時期だったから、いろいろなものに興味が向かわながったんでしょうね。書かれてる内容に心が向かってなかった。
 本との出会いというのは、本に書かれている内容自体は原則としてはずっと変わらないんだけど、読み手の側がその内容を受け止められるくらいまで成長してるかどうかとか、それを読んだときのコンディションによっても、読み手の心にどれだけのものが残るか変わってくるんだから、すごく偶然によるところが大きいんですよね、実のところ。むかし読んで、すごく影響を受けた本であっても、今読んでみるとそんなでもなかったり、逆にたいしたことないと思ってた本が、あとあと読み返してみると最初に読めていなかったところが理解できて非常に面白かったり。
 だから、いいと思える本との出会いというのは、あらためて考えると非常に幸運な出会いなんだなと思ったりしますね。

●印象的な対談について

-寺山修司と前田愛-


 さて、この本ですが、『天使と悪魔』『異界幻想』と続く種村季弘先生の対談集シリーズの第1弾であります。それを僕は『異界幻想』から遡って逆に読んできたわけですね。まあ、シリーズとは言っても、編まれたテーマが異なっているだけで、最初の対談集だから昔の対談を集めているとかいうことはない。どこから読んだっていいわけですが。
 この『東京迷宮考』は、一応、都市と、それにまつわる人間の暮らしに関する対談を集めたものということになっている。
 対談相手をざっと眺めてみて、なんといっても目を引くのは寺山修司氏の名前でしょうかね。僕は寺山はちゃんと読んだことがなくて、短いものを見たかぎりでもそこまですごく衝撃を受けたという記憶もないんだけど、こうして対談という形で読んでみると、面白いことを考えていた人なんだなというのが実感としてわかる。
 この対談は、1981年に「is」という雑誌で企画されたもので、寺山が晩年には著作を予定していたという路地についての切り口で、路地という空間の象徴的な意味合いとか、そこから発展して都市のプライバシーとか家族というシステムの崩壊について語っている。20ページていどの短い対談だけれども、非常に内容が濃い。

 あと、内容が濃いということで言うと、やっぱり前田愛先生との対談はすごいなと。「現代食物考」というタイトルで、食べ物を切り口にして都市を語っているわけですが、いやあ、これねえ。読んでるとすんなり読んでしまいますけれども、「食べ物という切り口で語ってください」って言われても、ふつうそんなに長く語れないですよ、そんなもん。それがあっさり成立するってのがまずすごいよね。
 それと、印象的だったのは、食というのはヒエラルキーでもって分化していくんだっていうことですね。たとえば、牛なら牛一頭を丸ごとぐつぐつと煮込むと、一番上に上澄みが出てきて、だんだん鍋の下の方へいくにしたがってもとの牛という形態が残るように層をなしていく。それで最後の一番下の方は、モツ煮込みみたいなドロドロッとしたものになる。それが、上澄みの方が上等だっていうことで、まず社会の一番上層にいる貴族階級の人たちがコンソメスープみたいな形で上澄みを食べる。だんだん階級に従って下の方のものを食べることになるんだけれども、最後のモツ煮込みの部分は、臓物とかは穢れてて一般の人は食べないもんだってことになってるから残ってしまう。誰も食べない。そうすると、社会の枠組みの外にいる、被差別階級とか乞食とか、そういう人だけがそのモツ煮込みを食べることになる。穢れてるとかいうしがらみを受けてないから。ところがそういう部分というのは、栄養は一番あるわけですね。だから、社会の最下層の人が一番栄養のあるものを食ってるという、なんか逆転現象が生じることがある、っていう。
 それで、都市とのからみでいうと、やっぱり、たとえば東京なら東京の中でも、このあたりの人はこういうもんを食べる、というのが、昔はあるていど決まってた。それはヒエラルキーをそのまま地図上に落とし込んだ部分と、それと物流の面で、やっぱり荷揚げ所みたいなところに近いほど、新鮮なものを食べられるっていう部分がある。で、新鮮な食べ物はいったん荷揚げ所に集積されるから、食べ物屋さんというのはその荷揚げ所の周辺から発展していくし、まず市場とかができて、その外側に料理屋ができて、それを取り巻くように盛り場ができる。新鮮な食べ物を求めていろんな人が来るから、異なる文化がそこで混じり合うわけですね。
 こういう都市のありようは、物流が発展してしまって、また水運で食べ物をはこぶということがなくなったから、今日ではあんまり見られなくなってると思うけれど、鶏と食物というのが不可分なもんだという指摘として、とても面白い。また、もっと広い視野でとると、神戸とか横浜が食べ物が美味しいというのは、やっぱり水運でもって発展したからなのかしらとも思えてくるしね。

●なげやりにまとめ


 他にも、川本三郎氏との対談なんかも面白かったし、総じて内容の濃い一冊であるということは言えると思う。僕自身が、都市というもののありようについて、あんまりこれまで考えたことがなかったので、なかなか内容自体を受け止め切れていないという面があり、少しもどかしいような思いもするのだが、やっぱり読んでいて新鮮なものの見方を提供してくれる本であるというのは貴重なことです。
(2007.7.29)


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『天使と怪物 -種村季弘対談集-』
 (青土社
 2002年1月刊)

●追悼


 種村季弘という稀代のディレッタントが亡くなられてから、すでに1年以上が経過してしまった。面白い評論を書く人はたくさんいるし、素晴らしい成果を残す研究者も数多い。どちらでもないがおそろしく広範な知識を持っている、という人も(僕たちの目に触れることは少ないが)数多い。
 しかし種村氏のように、そのすべてであり、と同時にそのすべての範疇からはみ出してしまう人、というのは、あまりにも得難いのではないだろうか。
 氏の逝去を悼む−−−。

●歯車あるいはウロボロス
   -荒俣宏氏との対談-


 本書は2001年に編まれた(出版は翌年)対談集で、以前に感想を書いた『異界幻想』の前冊にあたる。青土社からの対談集は三冊のシリーズとして企画されており、この『天使と怪物』のさらに前冊として『東京迷宮考』がある。ちなみに僕のゲーム関係ブログである「迷宮遊戯考」はここから名前をいただいている。
 対談のお相手は合田佐和子・高橋康也・瀧口修造・荒俣宏・前田常作・矢島文夫・谷川渥・手塚治虫・河合隼雄・ルネ・ホッケ・池内紀・山口昌男の各氏。パッと見て目を引くのは、やっぱり手塚治虫の名前だろうか。でも個人的に一番読みごたえがあったのは荒俣宏氏との対談で、次が谷川渥氏。
 もっともこれは、対談のテーマとか、あるいは単純に対談の量という側面もあるので、一概に言えることではないけれども。映画に興味のある人なら山口昌男氏との対談なんかはとても面白いだろうと思うし。

 3分冊の対談集は、それぞれにテーマらしきものを持っている。この『天使と怪物』では、天使や怪物だけにとどまらず、不思議の国のアリスやUFO、はたまたそうした奇想を手法として絵画に取り入れたマニエリスムなどをとりあげた対談を集めている。人間にとって想像あるいは創造の上で、そうした人外的な存在がどのような意味を持っているのか、といったことがひとつのテーマではあるけれども、そういった事象の普遍的な意味をどうこうするより、単にそういう話が好きな人が集まって「そういやあんなのもある、こいつはこんなのを書いてる」みたいな雑談をしているという感じのものが多い。なんかやたらと楽しそうなんだこれが。
 種村氏の場合、相手にあるていど合わせて話をしてはいるんだけれども、ともすれば対談相手が聞き役に回ってしまって、ひたすら種村氏の側が話をしている、という展開にもなりやすい。そりゃ、次から次に話が出てくるんだから、気後れもするだろうし、黙って話を聴いてる方が楽しいというのもあるよなあ。でもそれでは対談にならない。
 その点で、さすがはと唸らせてくれるのが荒俣宏氏。
 博物学にとって珍奇なものとか怪物とかはどういうものなのかというテーマでの対談だが、種村氏と荒俣氏の両者ともが歯車になって、自分も話を出しつつ互いから話を引き出している。このがっちりと歯車のあった感じがたまらんですね。面白い。

 荒俣氏が最初に、大航海時代なんかに外国のものを珍しがって集めていたのが、航海技術が進歩して世界が広がるにつれてそれが珍しいものではなくなっていく、そうするとこれまでのものの価値が下落するから、その代替として今度は数を集めようとするんだ、というようなことを話す。
 すると今度は種村氏が、メディチ家でそういうのを集めた博物館があって、そこから博物館というのが発展していく、その中で特異な例として、奇形の人間が食客みたいな形で集められてた、みたいな話をする。奇形の人間もまた自分をそういう珍しいものとして売り込んでいて、ある種、前向きだった。そういうのはルネサンス期の時代精神なんじゃないかと。
 で、それを受けて荒俣氏が、人間に限らず今ならただの奇形とか偶然で片づけられるようなものでも、当時は絶対的にサンプルも理論も少ないから、そういうのが「ある」というだけで、新種の発見みたいになるんだ、と話す。で、そういうのが無いなら、もう人工物で作ってしまうというようなことも当時は多かったし、それにあんまり悪びれてないんだと話を振る。
 種村氏は、当時はこれだけ珍しいものがあると博物館みたいな形で揃えるのは、その珍しいものがある、という場所が自分の勢力圏内であるということを意味していたんだ、と博物館の発展の裏にあったものを整理し、今度はそこに珍しい物自体ではなくて、珍しい物を作る芸術家を集めるようになるんだ、と話す。
 まだまだ対談は続くんだけれども、これですよ、この停滞のなさ。どっちかが聞き役に回ると、片一方がどうしても説明役にならざるをえない。すると対談の醍醐味であるはずの、関連性のある話題が次から次に予測不能に出てくるというダイナミックな話題の展開が見られなくなる。
 種村氏も荒俣氏もそれをわかった上で、次にどんな話になるかを楽しんでいるという感触を受けました。

 逆に瀧口修造氏やルネ・ホッケ氏との対談は、実はその収録の段階から、対談ではなくて種村氏が聞き役になってのインタビューとして位置づけられていたものだそうで、これはこれで瀧口氏やホッケ氏の内奥がかいま見える面白さがある。
 いずれにしろ、多くは1970年代のものであるこれらの対談が、博学を背景にしつつ、怪物や天使やUFOについて実に示唆に富むものとなっているのは面白いことだと思う。逆に、僕たちがマンガやゲームで触れる怪物や天使やUFOは、実は一般的な怪物像・天使像・UFO像を下敷きに、あるていどの味付けを施したものが多く、それらを描く意味についての腑分けは、むしろなおざりにされてきたのではないか、という気がする。
 こうした超自然的存在がいつしか生活に馴染みのものになっていくということは、つまり普通の人々の間にこうしたものへの共通の認識が育っていくということであり、それは定型性となっていく。
 それ自体は悪いことでもなんでもないが、しかし怪物が異形でなくなってしまった世界というのは、なかなかに難儀なものである。
(2005.9.8)


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『山師カリオストロの大冒険』
 (岩波現代文庫
 2003年3月刊
 原著刊行1978年2月)

●錬金術と贋金づくり(あるいはルパン三世とカリオストロ)


 種村季弘氏のお家芸、詐欺師の評伝であり、大立者カリオストロ伯爵の登場である。
 カリオストロと言えばルパン三世だが、宮崎駿氏があそこに描き出したカリオストロ伯爵は、いささかりりしく、というか悪の大ボスにふさわしい風格を備えすぎているものの、やはり実在した本書の主人公、カリオストロこと本名ジュゼッペ・バルサモをひとつのモデルとしていることは疑いない。
 なんとなればルパン版カリオストロが得意とした贋札づくりは、まさに18世紀のカリオストロが、当時の詐欺師たちの例に漏れずその秘奥に通じたとして売り出した錬金術の現代版に他ならないからだ。
 なるほどゴート札とはよく考えたもので、錫やらなんやらの卑金属、あるいは水銀を黄金に変えんとする錬金術はリアリティがなくとも、贋札づくりとなればリアリティがある。しかも、たとえばフランスにおける紙幣は、もうひとりの詐欺師ジョン・ローによってもたらされたものであったことを思えば、なかなかに感慨深い錬金術の変遷だ。
 錬金術が生み出そうとするのは黄金それ自体だが、贋札づくりが生み出そうとするのは贋の「信用」に他ならない。銀行紙幣とはまさしく、その発行元である国家つまりは「胴元が破産しないという前提」に立った上での「賭博場の入口で現金と引替えられるチップス」(種村季弘『ぺてん師列伝』)であるからだ。もちろん国家が破産すれば昔日の高額紙幣もただの紙切れと化すのであり、事実、ジョン・ローが生み出した紙幣はそのような道筋をたどった。
 「本物以上と言われた」ゴート札は、その細工のほどはまさしく本物以上であっても、その後ろ盾になる信用は贋物に過ぎない。他国の信用に庇を借りる形でもって、贋の信用を産出したわけだ。
 映画版ルパンに宮崎駿氏の近代経済に対するアイロニカルな視点を見るのは、あながち間違いでもないような気がしてくる。もっともここではそれは本題ではない。

●カリオストロとドイツロマン主義


 さて、ちょっとマクラが長くなった。
 本書はカリオストロの評伝であるが、同時に18世紀という退屈をもてあました退嬰の時代の評伝でもある。もちろん退嬰とは文化的成熟の母親の別称でもあり、したがって種村氏が本書の冒頭をはじめ、巻末にいたるまで、同時代を生き、カリオストロに並々ならぬ興味を抱いたゲーテを併走させているのはゆえなきこととしない。
 時代とカリオストロとの蜜月的連環について、種村氏はこのように書く。

 カリオストロ伝説を古来の魔術師伝説の再来として仮構したのは、カリオストロ自身であるよりもはるかに同時代人の方だったのである。十八世紀人にとって、問題はカリオストロのような人物が、したがってこの怪物を作り上げたアルトタスのような導師が、いたかどうかではなく、むしろいて欲しかったのであり、いなければならなかったのである。(引用者註:下線部は傍点)
(p.62 「高貴なる旅人」より)


 アルトタスとはカリオストロが獄中で記した回想録に登場する、彼の錬金術の師であったという人物。ただし実在したかどうかはさだかでないという。
 なぜ十八世紀人にとってそうした人物が「いて欲しかったのであり、いなければならなかった」のか。少しページをさかのぼって次の箇所を引く。

 カリオストロがいなければ、人びとは確実に一人のカリオストロを作り上げたのに相違なかった。啓蒙主義と百科全書派が、ドイツでならカントとレッシングが理性の光によって地上から神を一掃し、同時にイエズス会が解散して「地下」に潜ったとき、急激な時代の転回は前代の敬虔主義(ピエティズム)に基づいた宗教感情に何らかの代償物を当てがってやらなければならなかった。ハインリヒ・コンラート教授の精神病理学的研究にしたがえば、「純粋理性的思考の諸結果に不満足もしくは不安を感じて、人びとはこのとき教会への、その教義(ドグマ)と−−奇蹟への退行を求めた。この転回のなかで宗教的神秘主義が培われ、謂うところの新しい奇蹟に……もっとも緊張した注目が向けられた」のである。
(p.50 「高貴なる旅人」より)


 ちょっと簡単にまとめすぎなのでは、という危惧が頭をかすめないでもないが、要はシュトゥルム=ウント=ドラング、ひいてはドイツロマン主義と同じ土壌が、貴族階級の間に錬金術を、ひいては詐欺の大輪を咲かせたのだというわけだ。シュトゥルム=ウント=ドランクの巨星がゲーテであることは、ここでは言うまでもないだろう。
 近代的合理精神では割り切れないものもあってほしい、いや、あってくれ、というわけで、これはもう詐欺師垂涎の状況である。騙してくれと言っているのだから騙しましょう、とばかり、カリオストロは出身地イタリアのシチリアを皮切りにして、ローマ、ペテルブルグ、ロンドン、パリと、ヨーロッパ各地をめぐり、その都度に詐欺を働く。
 ローマでは美貌の妻にして詐欺の相棒ドンナ・ロレンツァを得、時にというかしばしば彼女に高級娼婦のようなまねごとをさせつつ、ロンドンではフリーメーソンに正式加入、以後は千里眼の手品をつかった錬金術の実践とフリーメーソンの神秘的な名、そして逗留先で名声と信頼を獲得するためのノウハウで、フランス革命前夜のパリにて王妃の頸飾り事件に連座してとらえられるまで、その抱腹絶倒の遍歴は続くことになる。
 詳細は本書を読んでいただきたい。

●詐欺師と王妃と中世の終焉


 さて、本書の冒頭およびはしばしにゲーテが登場することは先に述べたとおりである。
 ゲーテばかりでなく、同時代人として、シラーも登場すればカサノヴァやサン=ジェルマンも本書の中には登場する。一種の人物博覧会という様相すら呈してくるが、中でもゲーテが重要なのは、自身も変奏趣味を持っていたゲーテが、カリオストロの道行きの補助線となっているという事情がある。カリオストロという主線とゲーテという補助線は、おのおのの軌道を描きつつ、王女の首飾り事件へとその消失点を求める。
 カリオストロはここで命運尽き、ゲーテは補助線としての役割を1人の女性にバトンタッチする。
 実に540個のダイヤをつなぎ合わせた異例の首飾りが盗み取られたこの事件の主人公は、カリオストロではなく、ド・ラ・モット伯爵夫人ことジャンヌ・ド・サン=レミ・ド・ヴァロワなる、ヴァロワ朝王家の末裔にして野心家の女詐欺師であり、道化役はロアン枢機卿が、そしてロアン枢機卿が懸想するヒロインは時の王妃マリー・アントワネットがつとめることとなる。ちなみにゲーテから補助線の役割を受け継いだのはこのジャンヌである。
 本書のクライマックスのひとつともいうべきこの一大スキャンダルは、本来の主人公たるべきカリオストロをほとんど脇役に追いやっておいて、かくのごとき人物たちによって演じられる。なぜだろうか。
 種村氏は「王妃の頸飾り事件ほど歴史家によって見解が区々(まちまち)に食い違っているスキャンダルはない。さまざまの欲望や固定観念がまるで王妃の頸飾りそのもののように錯雑として繋り合い、縺れ合って、人間の情念の底知れない迷宮を構成しているからだ」としつつも、この事件に一定の意味を見ている。氏の言葉を借りれば「断末魔のフランス宮廷」であり、この一大詐欺が破綻して終わったとき、ジャンヌもロアンもバスチーユへとその身を送られ、さらにはジャンヌの自白だけを頼りにカリオストロ夫妻もまたバスチーユへと送られた。
 そして間もなくフランス革命が勃発し、「フランス宮廷はギロチンの下に解体して四散した」のである。

 これはつまり、中世ヨーロッパの爛熟がここで滅んだということに他ならない。
 詐欺師カリオストロ伯ことジュゼッペ・バルサモの悪事を成立させていたのが18世紀という時代であったことはすでに述べられている。その18世紀が実質上ここで死んだのであって、これはつまり、バルサモがカリオストロとして生きていけなくなることを意味している。
 カリオストロは逮捕からほどなく冤罪が証明されてバスチーユを出るが、彼の栄耀はここまでであり、後は故郷イタリアでの天使城への幽閉という最期が待っているだけであった。1795年、まさに18世紀が終わろうとするときに、彼は天使城で息を引き取る。しかし事実上、詐欺師としての彼の命運はバスチーユで尽きていたと言えよう。
 少なくとも、種村氏はそう見ている。
 かくて源氏物語まぼろしの巻もかくやの主人公なき主人公の死の場面が描かれたのではないかと、僕は考えている。

 なお、蛇足ながら第1の補助線ゲーテは、周知の通り長命を保ち、カリオストロの死後37年間を生きて、83歳でかの世界史に残る辞世の言葉「もっと光を!」をのこして永眠。
 カリオストロの凋落に向けて第2の補助線を描いたジャンヌ・ヴァロワは、何者かの手引きによりサルペトリエールの監獄より脱走。その後については諸説あるが、一説には1826年、クリミアで「ガシェ夫人」という別名で永眠したという。
(2004.5.12-14)



◆補足

 ルパン三世映画版のカリオストロ伯爵には、無論、もう一人のカリオストロが影を落としている。
 ルブランの描いたルパンシリーズに『カリオストロ伯爵夫人』というのがあって、ジョゼッペ・バルサモの娘を名乗る「ジョセフィーヌ・バルサモ」という女性が登場するのがそれだ(と、偉そうに語っているが、実は僕自身、この作品のことを知ったのはつい最近だったりする)。このジョセフィーヌはアルセーヌ・ルパンと対決するライバルなのだが、また同時にルパンが愛した女性でもある。
 のちに再度『カリオストロの復讐』という作品でも登場するこの女性と、「カリオストロの城」との関係を考えてみるのも面白いと思うが、ここではひとまず補足として指摘するにとどめる。
(2004.5.24)


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『異界幻想 -種村季弘対談集-』
 (青土社
 2002年2月刊)

●対談のよしあし


 吸血鬼や詐欺師など、独自のフィールドで評論を展開する種村季弘氏の対談集で、どこにも書いてはいないが実はこれが対談集シリーズの3冊目にあたる。
 同じ青土社より刊行されている1巻目『東京迷宮考』と2巻目『天使と怪物』は持っていなくて、なぜかこの3冊目、シリーズ最終巻だけを持ち合わせていた。
 対談の醍醐味は、何と言っても異なる分野の専門家同士が顔をつきあわせて、違った専門分野が重なり合う、その雷光のごとき一瞬について見解をかわす、まさにそこにこそあるだろう。ひとつの興味のある事象について偏りのない見解というものを獲得するためには、何と言っても、違うジャンルからその事象にアプローチしているものをガシガシと複数摂取するのが手っ取り早い。対談というのは、一石二鳥というか、一度にふたつの方向から照明をあててくれるので、手っ取り早さもさらに倍というところだ。
 もっとも、じっくりと深く突っ込んだ意見を聞きたいという場合には向いてない。ものは使いようというやつである。
 そんなわけだからして、どっちかが一方的に話しまくってて、もう一方がはいはいとそれを聞いている、などというのは対談としてはあんまりよろしくないだろうと思う。そこまで一方的でなくても、あんまり両者の間に歴然とした力関係が見えてしまうと、対談というのは面白くなりにくい。以前に感想を書いた斎藤環氏の『OK? ひきこもりOK!』でいうと、上野千鶴子氏との対談では、そういうところがないではなかった。
 多分、あまりに大御所になりすぎてしまうと、対談というのはなかなか組み合わせるのが難しいものなんじゃないのかなと思う。

 本書でもそういう、これは対談としてはどうなんだろうなあ、というのが無いではなかった。
 具体的に言うと、たぶん『ポーの一族』とのからみでセッティングされたと思われる、1980年の萩尾望都氏との吸血鬼についての対談とか、『蛇を踏む』で芥川賞を受賞したばかりの川上弘美氏との2000年の対談などがそうだ。
 一般に研究者と作家との対談というもの自体、対象のとらえ方が違っていたりして、今ひとつきっちりと決まらないことが多い。
 それもあるのだろうとは思うが、終始、種村氏が知識を披瀝し続けている印象がある上のふたつの対談は、やっぱりちょっと力関係に差がありすぎたんじゃないかという気がする。
 萩尾氏にしろ川上氏にしろ、非常に巧みなストーリーテラーだと思うし、それは種村氏が喋っている内容について的確に会話しているのでもはっきりと才能が確認できる。ただ、相手が圧倒的な博学を誇る種村氏だと、会話の切り出しがどうしても種村氏側からにかたよりがちになってしまうのは致し方ない。
 反面、民俗学の宮田登氏や小松和彦氏、カサノヴァ研究で有名な窪田般彌氏などとの対話は、研究者同士のがっぷりよつという感じで非常に読みごたえがある。
 作家というのは、もちろん資料にあたって調べものをしたり、豊富な知識量の中から素材を見つけたりもするけれど、何よりも、自分の精神の懐の中からセンスという1枚の光り輝くコインを取り出し、それを元手にして作品を結実させるための大勝負に挑むもので、それはもちろんそうでない方法論をとる作家もいるけれど、萩尾氏や川上氏の場合は、その点、おそらく種村氏らとは核になっている部分が違うのだ。どちらがいいとか悪いとかいう話ではない。

 しかし驚嘆すべきは種村氏の知識量だろう。対談の場合、普通、テープ起こしをした後に、対談した両者に原稿を回し、対談当日の記憶違いの修正や補足などを書き加えてもらう、という行程を経ることがしばしばある。
 その過程の中で書き加えられた部分も、本書の中にも当然あると思う。しかし、もちろん相手の台詞まで勝手に書き換えることは許されないから、あきらかにこの部分は後から書き足したものではないな、と判別できる箇所もまたある。そういう箇所に限って考えてみても、この知識の広範さはただごとではない。それに互する宮田氏や小松氏などもすごいのだが、日本の伝説や民話の類型にはじまって、18世紀ヨーロッパ史、明治の日本文壇まで、まさに本書の帯に言う「博覧強記の種村ワールド」が繰り広げられる様は正しく圧巻と呼ぶべきだ。
 知ってりゃいいってもんじゃないんだよ、というのは正論だけど、知らない人が言うとただの負け惜しみだもんねぇ。それに種村氏のすごさは、それらを自分の頭の中で自在に結びつけて考えることのできる柔軟さでもある。
 何カ所か誤植もあったりするが、そうした細かいキズはともかく、非常にお買い得な1冊。

●面白かったところの引用


 以下、何カ所か防備録的に記憶しておきたい箇所を引用しておく。多分本書の魅力を伝えるにはそれがベストだ。

種村 (前略)もうひとつはギリシア・ローマ以来の神話主題で、それはヴェルギリウスの『アエネイス』に出てくるシュビラというクーマエの巫女です。これが中世文学の中にいろいろ形を変えて出てきます。ローマのヴェルギリウスでは女予言者で、しかもキリスト教以前の聖なるものの密議と非常に結びついています。彼女は聖なるものに憑かれた人間ですから、見た目に戦慄的な凄さがある。でも、醜いというのではない。ところが中世になるとキリスト教に切断されたために、そういう神的なものとの関連がシュビラからなくなってしまう。そうすると単純に知識のある女、あるいは秘密の知に通じている女、魔法使い、魔女というふうな解釈になるわけですね。神的なものとの関連を失ってしまいますから、合理的な知の管理をする女、単に賢い女になる。内面の方は知的になって、同時に凄みのある外側の表情の方は聖性から切り離されて、単なる醜さになってしまう。
(中略)
宮田 弥彦山の話だけではなくて、安達ヶ原の鬼婆にもつながりますし、浅草寺の裏の浅茅が原の一つ屋の老婆にも通じている。それらは共通してあの世とこの世の境にいて、異界からの声を聞けるような、巫女的な存在であったというふうに考えられる。日本の場合にはキリスト教ではなく、修験道とか仏教とか神道などが女性の宗教であったと思われる山神祭祀の巫女集団を排除していったのではないかという感じがしています。

(p.13〜19 種村季弘・宮田登「静養の魔女、日本の魔女」より)


 このへんは悪魔なんかでもそう。異教の神が悪魔になっていくというあれ。

宮田 (前略)日本には男の吸血鬼はいないんです。それもひとつの特徴になると思うんですが、女の吸血鬼で血を吸うときには髪の毛を相手の男に絡ませて血を吸い取るんです。出現する場所が海の際で、北九州の西海岸の方で報告されたのが一番古かったんですが、濡れ女のというものです。水際にいて、出現するときにものすごい絶叫をするらしい。中世の魔女も耳が破裂するようなすごい声を出すという。その衝撃で通りがかりの男が倒されてしまうと、そこで黒髪を絡ませて血を吸う。
種村 なるほど。
宮田 赤ん坊を抱いていて、その赤ん坊を預けるというのは、産女の系統になりますね。妊婦のままで亡くなった女性たちの怨念がそういう産女になるんです。出産の最中出血多量で亡くなったために、失った血をほしがるわけで、男の生き血を吸い取ってしまうということらしい。しかし一度元に戻せば、赤ん坊は生まれ変わることが可能なんです。だから産女は赤ん坊を誰か通りがかりの男に抱かせておきしばらくすると出てくる。そのとき男が南無阿弥陀仏とか経文を唱えたりすると、その男はまじないから解放される。産女はおかげで子供が生まれ変わったというのでお礼として男に力を与えることもあります。男は異常な力を授かっており、力士ですと名横綱になるし、武士ですと有能な武将になるとか、そういう男の出世譚と結び付けられる。つまり女によって力が与えられ、その力は吸血鬼の血の力にも関係しているといえる。
 日本の吸血鬼は吸血女で、出産とか死というものと深く結びついているという感じがしている。これはヨーロッパの吸血鬼のものとは文脈が違うのだろうと思います。

(p.38〜39 種村季弘・宮田登「静養の魔女、日本の魔女」より)


 色々と示唆するところが多い。谷川健一氏が『日本の神々』の中で指摘しているように、古代の日本では海というのは出産と非常に深い関わりがあると考えられていた。海岸に近い地方では浜辺に「産屋」と呼ばれる小屋を建て、そこで出産をする風習があり、近代に入ってもこの習慣が残っていた地方もある。ちなみに、そこにまいていた砂が「うぶすな」の語源ではないかというのが谷川氏の説だ。
 濡れ女は水木しげる氏の妖怪図鑑などでも姿を見ることができる妖怪だが、海と出産との関わりから見ても。この濡れ女の吸血に産褥の失血を痕跡としてみる考え方は面白い。
 髪の毛を絡ませるというのは、何か女の髪の毛の呪力的な俗説とかかわるのかな。

小松 (前略)村なら村の共同幻想というのがあって、それを打ち破ってくれる一番象徴化されたものの一つが童子的存在だと思いますね。たとえば、一揆なんかも、面白いと思うのは、一揆を組織するのが、多くの場合、やくざ者のような人たちだということですよね。それまでは村人から嫌われていた、どうしようもない博徒みたいな人々ですけども、いざ一揆をやるとなると、彼らが集まってくる人たちのリーダーとなって一揆を組織していくんです。
 ですから、共同体的な壁をぶち破って人間が動こうとするときには、ふだんは外れて不良だなんだと罵倒されるような人が外部への風穴を開けてくれる。そう言う面があると思うんです。とにかく、文化とか共同体とか、そういうものが動くとき、そのエネルギーを流していくための回路づくりが必要で、そうした役割を担っているのが、童子的存在であるという気はします。

(p.87 種村季弘・小松和彦「物語世界の異人たち」より)


 この場合の「やくざ者」は、農民と異なる文脈で動いている人、白拍子とか中世までの職人のような漂泊民のニュアンスを含む。

種村 さっきの職人とか大工、これはコンストラクションの専門家のように見えるけども、同時にディコンストラクションの専門家なわけですよ。解体もすぐにできる。だから、江戸の大泥棒は大工出身者が多いでしょう。自分のつくった家に忍び込むわけだから……
(p.90〜91 種村季弘・小松和彦「物語世界の異人たち」より)


 これは単純に指摘として面白い。80へぇ。

小松 異類が女だったら、一応、人間の男の血の方が強いというのかな、異類の女の血がまざってもその子は生かしてもらえる。『蛇聟』のような話は、おそらく古いタイプだと思いますけども、古代神話の伝説なんかに出てくる『三輪山神婚譚』のように、蛇が夜な夜な女のところに妻問いしてきて、子供が生まれちゃう。ところが、昔話では、その子は全部殺されているんですが、伝説では生かされているんですね。
種村 なるほどね。昔話では、男自体がもう霊性を持っちゃうとき、それは排除されるわけですか。

(p.99 種村季弘・小松和彦「物語世界の異人たち」より)


 異類婚姻譚の構造について。民俗学でいう神話・伝説・昔話の区別が援用されているが、まぁ、イメージ的にわかるとおり、昔話は共同体の中で口承されるうちに、共同体的な常識とかモラルがそこに投影されることになる。伝説は縁起のようなもの。
 このあと、伝説は共同体的なモラルに規制されていず、教訓譚よりもむしろ、そこで取り上げられている縁起の末がいかに異常であるかの裏付けであると小松氏が指摘。これは、異人殺しの伝説というのは何かで金持ちになった家に対して、村の他の人々がルサンチマン的に旅人を殺して金を奪った的な伝承をくっつけたのだという、氏の『異人論』とかかわってくる発想だ。

萩尾 種村さんの中学時代っていうと、男子校ですか、やはり。
種村 そうです。ぼくはいまの北園高校、むかしは府立九中といったんですけどね。板橋のほうにあるの。それで、まあ敗戦直後の混乱期のときですからね。ずいぶん死にましたよ、つまり自殺した人が多かった。
萩尾 同級生ですか。
種村 ええ。だいたい四十人ぐらいのクラスメートのうち、四人ぐらい死んじゃったかもしれないな。
萩尾 自殺でですか。
種村 非常にカラッとした自殺でね。当時の要するに焼跡のパーッと拡がってるところで、そこにカンカン照りの太陽が射してる……。たとえば体操の時間にサッカーやって、終わったあと、のど渇いたからって水飲場にならんで水飲んでるでしょ。その中で一人だけ、いままでサッカーやってたやつが青酸カリをパッと飲んで、そのまま水飲んで死んじゃうとかね。
萩尾 ふーん。
種村 理由とか内面的な悩みとか、そういうようなものが全部オミットされてスポンと、激しい肉体運動のあとで、すぐ地つづきみたいにして死の世界に入っていっちゃう。まあ、そういう死に方ばかりではなかったけれども。

(p.131 種村季弘・萩尾望都「吸血鬼幻想」より)


 奥野健男氏が『三島由紀夫伝説』のなかで、戦後に大変に若い人が自殺するのが流行して、自分たちなんかもいつ自殺してしまってもおかしくないような空気があった、と書いているが、おそらくその感覚に非常に近い。種村氏は三島よりも8歳くらい年下だが、それでもやっぱりそういう感覚というか、空気があったらしい。太宰治の『トカトントン』とか、こういう言葉をしたじきにして読むとよく理解できる気がする。
 もっとも、種村氏がここで挙げている例は、あらかじめ青酸カリを持参してるんだから、実は完全に計画的な自殺なんだけども。
 萩尾氏はこの自殺の話にかなり衝撃を受けたらしくて、しばらく間をおいて、またこの自殺の話を聞き返している。種村氏は自分たちの時代は原口統三の『二十歳のエチュード』がひとつのモデルだったと言いながら、当時の自殺と、対談収録時の1980年ごろの子供の自殺とを比較している。

 他にも、窪田氏との18世紀中世氏をめぐる対話とか、高山宏氏との対談で出てくるリスボン大地震がひとつの境目になって、ヨーロッパの世界都市がパリにうつっていくんだという指摘とか、色々と面白い箇所があるけど、ひとまずこのへんで。
(2004.5.9)


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『ぺてん師列伝 -あるいは制服の研究-』
 (岩波現代文庫
 2003年4月刊
 原著刊行1982年6月)
 先に、同じ種村氏の著作で、同じ岩波現代文庫に入っている『詐欺師の楽園』を読んだ。その折の感想でも、ちらりと本書の名前を出したが、本書もまた、岩波現代文庫に所収された1冊である。
 では、その詐欺師とぺてん師は、どこがどう違うか。
 そう問われて「ここがこう」と淀みなく答えられる人というのはそう多くないのではなかろうか。はっきりと答えが出せる人、というのは、普段から詐欺とかぺてんについて考えている人、すなわち職業的詐欺師の疑いがある。
 冗談はともかく、ちょっと調べてみた。

●さぎ【詐欺】
(1)巧みにいつわって金品をだまし取ったり、相手に損害を与えたりすること。あざむくこと。ペテン。
「―にひっかかる」「―を働く」「―師」
(2)〔法〕 他人をあざむいて錯誤に陥らせる行為。民法上、詐欺による意思表示は取り消すことができ、また、詐欺による損害は詐欺者の不法行為として賠償させることができる。

●ぺてん
人をいつわりだますこと。また、その手段。いかさま。「―にかける」
〔中国語の「○(引用者註:弓へんに并)子(bngzi)」のなまりからという〕


いずれもgoo辞書国語辞典(引用元として「大辞林 第二版」)より

 「詐欺」の説明に「ペテン」が載っているくらいで、両者の間に、おそらく明快な区別はない。種村氏もまた、明確に区別をして、両者を分類したわけではないと思う。
 しかし、上の注釈を何度か読み返していると、「詐欺」の方が、「金品をだまし取」ることにウエイトを置いた説明となっているのに対し、「ぺてん」は「だますこと」であるとされているのに気がつくだろう。
 つまり、詐欺の方が目的意識が強いのである。言い換えれば、ぺてんとは愉快犯的なにおいがするのである。これはおそらく、漢語を公用語的なもの、概念的な語、かたくるしい言葉として用い、和語を日常語的なもの、具体的な語、柔らかい言葉としてつかいわけてきた日本人の心性からきている。
 「ぺてん」は、上に引用した辞書的な定義の語源からしても和語ではないが、しかし、ひらがなもしくはカタカナでなくては書けない言葉であるだけに和語的な印象を与えるのだ。
 ただしもちろん、いかに愉快犯であろうとも、それを職業としてぺてん「師」となるためには、それによって金銭を稼がねばならない。
 そうなると「詐欺師」と「ぺてん師」の境界線などなくなってしまうのではないか。
 左様そのとおり。違いなんてなくなってしまうのである。ここまで長々と言葉を連ねてきて、結論は「どっちも同じ」。しかも、そろそろお気づきの方も多いかと思うが、これはまったくもって本書の感想とは無関係な話の枕である。僕自身、ここからどう感想につなげられるのか、書きながら途方に暮れているところだ。

 気をとりなおそう。
 袋小路にはまったときには、入り口まで戻るのが結局は近道だ。
 本書は1982年、青土社より刊行された単行本を底本にしている。『詐欺師の楽園』より遅れること7年だが、内容的にはほぼ、『詐欺師の楽園』の続編であると言ってもいいだろう。
 「あるいは制服の研究」という措辞がくっついてきてはいるものの、要するに近世から近代のはじめを生きたぺてん師たちの列伝であって、それは詐欺師たちの列伝であった『詐欺師の楽園』とほとんど同工異曲と言ってよろしい。違っているのは、書かれた年代と、出版元と、そして1人のぺてん師を1章で扱うのではなく、何章かにわたって、少し詳しく書いてあるケースもあるという点だ。
 素直に、その冒険譚を、水滸伝でも読むように楽しめばいいと思う。
 制服云々は、あまり意識していなくてもいいが、要するにぺてんなり詐欺なりというのは、「私は何々でござい」と自分を売り込んでいく、その売り込み方のもっとも効果的なもののひとつが制服であるということだ。最初に取り上げられる「ケッペルニヒの大尉」ことヴィルヘルム・フォイクトが非常に象徴的な例ではあるが、大尉の制服を着ていたからと言って、もちろん、その中身が大尉であるとは限らない。そういえばわが国の三億円事件の犯人は、警官の制服を着て登場したのではなかったか。
 ただし三者(引用者註:フォイクト、ヴィルヘルム二世、アドルフ・ヒトラー)の認識は一点においては符合している。ドイツ国民はその制服と機械への熱狂を通じてこれを容易に夢遊病者たらしめることができるだろうという洞察である。第三帝国総統アドルフ・ヒトラーもまた当代切っての制服ベスト・ドレッサーであった。
 制服着用者の実体というものは何でもないということに、とはつまり誰でもない人という無人格が制服を着用して動き回っていることに、いずれ人びとはすさまじい幻滅とともに気がつくことだろう。すくなくともしかしそれまでの間は、制服の中身である無の指令に従ってドイツ全国民が陶酔のうちに動くのであり、事実そう動いた。

(p.69「二人のヴィルヘルム」より)

 制服とはこの場合、非常に象徴的な意味合いをはらんでいて、例えば思想を制服がわりにした点で毛沢東はまさしくヒトラーの子であったとも言えるだろうし、同様に宗教を制服がわりにしたり、改革という言葉を制服がわりにしたりもできる。
 カモがその制服を信じた時点で、制服の表象する意味とは縁もゆかりもなかったその中身、すなわちぺてん師は、自由に動くことのできる担保を手に入れたことになる。
 フォイクトやヒトラーがぺてんにかけて操ったのはドイツ人であったが、警官の制服ひとつでコロリと現金輸送車を奪われ、漢語という記号を使われれば、ついそれが立派なもの、難しいものであるかのように思ったりもしがちな日本人という人種もまた、カモとなりうることは言うまでもない。
 「詐欺」と「ぺてん」は、言葉から受ける印象がどう違おうとも、その中に入ってこれを操作する「詐欺師」と「ぺてん師」が同じであれば、これはまったく同じものなのだ。
 ということで、きれいに話が元に戻ったところで本書の感想はおしまい。実はこれをハナから狙っていたのだと言えば、ぺてんにかけられたような気もするだろうが、一応の筋は通っているので信じてほしい。
(2003.12.2)


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『詐欺師の楽園』
 (岩波現代文庫
 2003年1月刊
 原著刊行1975年5月)
 朋友澁澤龍彦の亡き後、日本のディレッタントシーンの一翼を彼に代わって支え続けてきた種村季弘氏の名前は、それこそ「知る人ぞ知る」レベルではあるだろうが、一定のシーンの中では知らぬ人ぞなき名前だと思う。ってどっちだよ。
 とはいえ、僕が氏の名前を初めて見たのは、5年ほど前にちくま文庫から刊行された泉鏡花集成における解説でのことで、そのときは氏の主著である『ナンセンス詩人の肖像』の名も知らなかったし、サン=ジェルマンやカリオストロといった世界史に名を残す奇人たちについての、氏の仕事も知らなかった。
 まぁ、当時の僕は今から考えてもホントにアホだったので、何やってたんだという思いと、まぁ、アホのやることじゃしょうがないなぁ、という思いが甘酸っぱくもこみ上げてくる。しかし、僕がアホだったということのほかに、やっぱり氏のそうした著作が、文庫化されていなかったのはもちろん、ハードカバーでも版がきれていたりして、なかなか入手が難しかった、ということも、僕が氏の名前を知らなかった原因のひとつであるといってもいいのじゃないだろうか。
 このたび僕が読んだのは2003年の1月に刊行された岩波現代文庫版。
 岩波現代文庫には、他にも氏の『ぺてん師列伝』なんかも入っているし、今後、同様の著作が文庫化されることもまたあるかもしれない。ちょっとディレッタンティズムに傾斜しすぎているきらいもないではないが、やっぱりいい仕事をしてくれる文庫編集部である。

 さて、本書には、12人のトリックスターたちが登場する。中には、詩人アポリネールや、「フィガロの結婚」の作者でもあるボーマルシェなど、詐欺師とは呼べない人物もいるが、いずれも自分が生きている世界を大向こうにまわして嘲笑して見せた希代のトリックスターである。
 後に大作家になったり映画化されたりもする若き日のヴァージニア・ウルフらとともに、「エチオピア皇帝」をいつわって英国艦隊を「ご見学」した悪男児ヴェア・コール、ルーマニアの泥棒英雄ゲオルグ・マノレスコらにはじまり、カザノヴァや女装の剣士外交官デオン・ド・ボーモン、政府の特命をいつわって正式な印刷所と正式の銀行を使った偽札を印刷させ、それをもってアンゴラ一国を買い占める寸前までいったアルヴェス・レイスなど、いずれもそうそうたる面々で、読んでいて快哉を叫びたくなってくるピカレスク・ロマンにしあがっている。
 ピカレスク・ロマンに、なぜ人々は爽快感をおぼえ、快哉を叫ぶのか?
 それは彼らが、社会のシステムを逆手にとって、その裏側から、読者ががんじがらめに絡め取られている社会を突き崩してくれるからだ。たとえば、その魅力をあますところなく表現している、次のような箇所を引用してみよう。

 窃盗(シノビ)や強盗(タタキ)と違って、詐欺はシステムを逆手にとる犯罪技術であるから、インテリでなければできない、ホワイトカラー犯罪なのである。サギられる側の性格もこれを裏づけている。年齢的に詐欺の被害が多発するのは、男なら五十歳代から六十歳代にかけてが圧倒的な数に上る。未成熟のために詐欺に引っかかるのではないのである。豈計らんや世の仕来りをきちんと身につけ、このシステムについての知識経験を生かして、あわよくば一発当てようと勃々たる野心を秘めている連中が、いちばんのカモなのだ。カモはシステムの操作にかなりの自信を持っている。年来の経験の賜である。さもありなん。ただ惜しむらくは、彼はシステムの内部で、市民階級の諸条件を手放さずに一攫千金を企む。そこが詐欺師のツケ目だ。こちらは市民階級の外部から、市民そっくりの他所者としてやってきて、脂ぎった市民諸君の欲望をシステム通り、ただし外部から操作して、造作なく逆手に取ってしまう。
(「はじめに ---表層の人」より p.2〜3)

 まさにブラーヴォと叫ぶに足る名文だと思うのだがどうだろうか。
 きっと、詐欺師マノレスコを英雄として迎え、その仕掛け譚を胸躍らせて聴いたルーマニアの人々も、同じような気持ちだったのに違いない。
 現代の詐欺は、どうにもみみっちいものが多くっていけない。頭の惚けかけた年寄りや主婦を手玉にとって、布団を売りつけたり俺俺と銀行にたかだか100万程度の金を振り込ませたり、しかも手口自体もマニュアル化されたものをなぞっているばかりだから面白味に欠けるのである。
 現代日本に生きる詐欺師たちのなかで、その人の体験談が本書のようにつまびらかにされたとき、あっと目を見張るものになるのは、大神会長かジャパネットたかたの社長くらいなものではなかろうか。
(2003.11.15)


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種村季弘

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