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TRANS LINE(第3話)


前編

作:逃げ馬




車内には、電車のモーターの音と、レールの継ぎ目を走るリズミカルな音が聞こえている。
あなたは、スマートフォンのニュースアプリでニュースをチェックしていた。
コーヒーを飲みながら、座って通勤ができる。
今日はラッキーだな・・・・・。
あなたは、前の座席の背もたれに付けられたテーブルに置いていたコーヒーを口にした。



15両編成の『トランスライナー』には、2両のグリーン車が連結されている。
そのうちの一両。5号車の窓側の座席に、濃紺のスカートスーツ姿の若い女性が座っていた。
肩の下まで伸びる黒髪、大きな瞳は今、経済紙の記事をチェックしている。
その視線は、彼女の聡明さを感じさせる。
白く細い指がページをめくり、膝丈のスカートから伸びる白い美脚を組み直す。
彼女の隣の座席では、細いフレームの眼鏡をかけた、セミロングの髪の落ちついた雰囲気の女性が、テーブルに置いたノートパソコンのキーボードを忙しく叩いている。
彼女は、キーボードを打つ手を止めて、窓側の席に座る若い女性に、
「先生、サンドイッチがありますが、お召し上がりになりますか?」
若い女性は、視線を新聞から隣に座る女性に向けると、
「ありがとう。でも、いらないかな?」
わたしは、いつも朝は御飯の方だから・・・・・若い女性は、ニッコリ笑った。
隣の女性も微笑みながら、
「先生のような若い女性は、朝食はパンの人が多いですよ」
「慣れないといけないのは、わかっているのだがな・・・・・」
若い女性が呟くように言うと、隣に座る女性は、厳しい視線を若い女性に向けた。
「その言葉! 注意してもらわなくては困ります!『高瀬里奈(たかせ りな)』先生♪」
女性の口調には、どこか若い女性をからかうようなニュアンスがある。
若い女性は顔を赤らめ、肩を竦めながら、
「ハイハイ、気をつけます♪」
二人の女性が、クスクスと笑った。
窓側の席に座る女性は、窓の外を流れる景色に視線を向けると、ふっくらとした唇からほっと吐息をもらした。

若い女性は、高瀬里奈。
26歳の彼女は、知的な美女と言っても良い容姿を持っている。
隣に座る、古瀬 美恵子(ふるせ みえこ)は40歳だから、『一回り以上』の年齢差がある。
その古瀬に『先生』と呼ばれるのは、里奈が26歳の若さで、衆議院議員に当選したからだ。
そして、彼女には大きな秘密がある。
実は彼女は、『85歳の男性』なのだ。
いや、厳密に言えば『彼女が男性』というのは、間違いかもしれない。
なぜならば、彼女の肉体は、間違いなく女性のものだからだ。
しかし、『その身体の中にいる』のは、『85歳の男性』・・・・・それには、ある事情があった。



『高瀬里奈』の中にいるのは、野崎源三郎(のざき げんざぶろう)。
『女性の肉体』になった時には、85歳だった。
野崎の父は、国会議員だった。
いわゆる『戦前』の国会議員だから、『地元の名士だから選ばれた』ようなものだった。

トランスライナーが、駅を通過する。
里奈=野崎の大きな瞳は、プラットホームで電車を待つ、コートを着た壮年の男性の姿を見ていた。
野崎の心の中に、彼の父との記憶が甦ってきた。

戦前、少しずつ『きな臭さ』が感じられる時期に野崎の父は、『戦争をすれば、この国は負ける』と、堂々と言っていたそうだ。
しかし、今の『彼女の周りにいる議員』とは違い、野崎の父は『抑止力としての力の必要性』を知っていた。
その力を背景に交渉すべきと、政府にも訴えていたそうだ。
しかし、やはり時代の流れは、止めることができなかった。

戦後、野崎が高校、大学と進学して、いよいよ社会人になるときに、彼の父は『社会に貢献できる人になれ』と言ったが、『俺の後を継げ』とは言わなかった。
大学卒業後、野崎は銀行に就職した。
公務員試験にも合格していたのだが、公務員になると『親父の力だろ』と言われるような気がしたのだ。
今思うと野崎にとっては、ささやかな反抗だったのかもしれない。


里奈=野崎の細い指がコーヒーを取り、ふっくらとした唇に運んだ。



野崎の父が亡くなった時、長男として葬儀を出した野崎は、地元の人達に後継者になるように『懇願』された。
銀行員として、仕事が面白くなってきた時期で、そもそも政治家になるつもりなど無かった野崎は困惑したが、最後には押しきられるように衆議院選挙に立候補して、圧倒的な大差で当選した。
その時、野崎は父の人望の大きさを噛み締めていた。

国会議員になった野崎は、周囲からは『父に勝るとも劣らない理論派政治家』と呼ばれるようになった。
利権獲得に奔走する同僚議員に忠告をしたり、テレビの討論番組に出演した時には、持論をとうとうと語る・・・・・実は空理空論なのだが・・・・・女性政治家に、『誠実に』現実的な考え方を説いた。
その女性政治家と、彼女を支持する女性評論家は、大きな声で『あなたのような人がいるから、日本が悪く言われる』なんて言っていたものだが。

そんな野崎の議員としてのライフワークの一つが、身寄りのない子供たちに対する援助だった。
国会や選挙への対応に時間を取られる事が多かったが、それでも時間ができれば養護施設を訪問して、実状や要望を尋ねて歩いた。
それは、彼が仲間を集めて法案として可決して、子供たちへの救いの手になることに繋がった。
野崎本人は、それについて口にしなかったし、彼の秘書達は・・・・・今、横に座っている古瀬女史でさえも・・・・・『先生、養護施設の支援は、選挙の票には繋がらないのでは?』と、彼の行動に異議をとなえた。
『選挙に当選する事だけ』を考えるのならば、彼らがそう言うのも無理はない・・・・・野崎は、今でもそう思う。
それでも野崎が養護施設への支援を止めなかったのは、若くして死別した妻との間に、子供が出来なかったためなのかもしれない。
いつの間にか? 党の要職を務め、ついには大臣になり、危うく? 党の総裁選にまで担ぎ出されそうになった野崎だったが、やはり子供たちへの支援を止めることはなかった。
彼は、自分の手柄を自慢するタイプではない。
淡々と、自分の出来ること。選挙で選んでくれた人達に出来ることをしてきただけだ。
そんな彼の事を、彼の選挙区の有権者たちは、ちゃんと理解をしていたようだ。
野崎は選挙では、常に次点の候補者にダブルスコア以上の大差で当選していた。
『選挙に強い野崎』などと、周りの人は勝手に言っていたが。
政治家として充実していた野崎。
そんな時期に出会ったのが、里奈だった。



里奈=野崎は今、窓ガラスに映る自分の顔を見つめていた。
そこには、85歳の老いた男の姿はない。
窓に映るのは、濃紺のスーツを着た、26歳の美女だ。



野崎が里奈と出会ったのは、とある児童養護施設に視察に出かけた時だった。
その児童養護施設は、野崎が国会で活動をして、彼の選挙区にあった国の遊休地に作られた。
野崎がその施設に視察に出かける時には、彼はポロシャツとスラックスという、『国会議員』らしからぬスタイルで、『地元の役員』がフラりとやって来たということにして、決して自分たちが国会議員とは明かさなかった。
ある日、いつものように視察にやって来た野崎に、元気に挨拶をする小学校高学年くらいに見える少女がいた。
「おはようございます!」
元気に挨拶をして一礼をした少女に、
「はい、おはよう」
70歳の野崎は、にこやかに低い声で答えた。
顔を上げた少女が、野崎の目を見て、そして、人懐っこい笑顔を浮かべた。
野崎は、じっと少女の大きな瞳を見つめていた。
何故か、視線を外す事ができなかった。
少女は、少し顔を赤らめ一礼すると、小走りに廊下の奥に走り去って行った。

聡明そうな、澄んだ瞳の少女。

それが初めて里奈と出会った、野崎が感じた彼女の第一印象だった。
「野崎先生?」
どうかされましたか? 施設の所長が不思議そうに野崎を見つめている。
「いや・・・・・何でもない」
野崎は、苦笑いをしながら所長を促して視察を始めた。

施設には、いろいろな事情のある子供たち・・・・・乳児から高校生までが入所している。
里奈も、そのひとりだ。
里奈は野崎と出会った時には、小学校五年生の11歳。
所長によると彼女は、両親と死別して身寄りのない、謂わば『天涯孤独』の身となり、この施設に入所したそうだ。
その夜、野崎は養護施設の子供たちと夕食を共にした。
子供たちとテーブルを囲む野崎は時折、里奈に視線を向けた。
野崎から見た里奈は、施設を訪問して彼が見てきた子供たちとは、何かが違っていた。
施設にいる子供たちは、何かしら『こころに傷を負った子供』が多い。
しかし、里奈を見ていると、そんな『心の傷』を感じさせない明るさがあった。
そして野崎は、隣に座る子供と話す、里奈の大きな瞳を見つめていた。
まだ小学生なのに、彼女の瞳の中に、野崎は彼女の聡明さを、確かに感じとっていた。

訪問を終えた野崎は、養護施設と連絡をとる時に、さりげなく里奈の事を尋ねるようになった。
所長の話しによると、里奈は学校での成績も優秀なようだ。
「普通の家庭ならば、いわゆる『中学受験』をさせる程の成績です」
電話越しに所長の話を聞いた野崎は、里奈の不運を思い、胸が痛んだ。

里奈は公立の中学校に進学した。
学校には施設から登校する。
この時期、里奈は学校で同級生から無視される、『いじめ』の標的になった。
両親がいない里奈が、クラスでの成績が良いことを妬まれたためだろう。
所長から話を聞いた野崎は、義憤に駈られ、一時は学校に怒鳴り込もうかと考えたほどだ。
心配になった野崎は、忙しい時間をやりくりして、施設に『視察』に出向いた。
野崎が施設に到着した時には、里奈は自室で勉強をしていた。
しばらくドアの隙間から、彼女の様子を見つめていた野崎だったが、小さく吐息を吐くと、ドアをノックした。
「はい?」
里奈が机に置いた教科書から顔を上げて、視線をドアに向けた。
「やあ、こんばんは」
頑張っているね・・・・・野崎は、努めてさりげなく里奈に声をかけた。
一緒にいた所長は、野崎を『地元の役員さんで、この施設を助けてくれている方』と紹介した。
里奈は初めてあった時と同じように一礼すると、
「高瀬 里奈です」
澄んだ声で自己紹介した。
「聞いたよ・・・・・学校、大変みたいだね」
いじめをするなんて、最低な子達だな・・・・・野崎が言うと、里奈は可愛らしい微笑みを浮かべながら首を振った
「そんなことを言わないで下さい。 みんな、わたしの同級生ですから」
野崎は思わず唸った。
この娘は、自分に対するいじめよりも、同級生への友情を大切にしている。
両親を失い、施設に入り、学校では陰湿ないじめに遇っても、その想いを失っていない。
野崎の顔に、自然に微笑みが浮かんだ。
「そうか・・・・・学校は、どうかな?」
野崎が尋ねると、
「ハイ!」
里奈は人懐っこい視線で野崎を見ると、学校での日常を、面白おかしく野崎達に話して聞かせた。
そこには、陰湿ないじめの話題は出てこない。
野崎には、その理由が薄々解っていた。
野崎達に学校でのいじめの存在を肯定するということは、里奈にとっては学校での自分の頑張りを否定するのと同じ意味なのだ。
野崎は里奈の話しに頷き、時には質問を交えながら、里奈の利発さに舌を巻き、彼女がどこまで才能を伸ばすのか、その行く末を見てみたいと強く思った。



3年後、里奈は高校生になった。
彼女は、地域でも進学率の高い公立高校に入学した。
この頃には、里奈も新聞などで野崎の記事を目にして、『彼の正体』を知り、彼の事を『野崎先生』と呼ぶようになっていた。
呼ばれる野崎にすれば、里奈との間に『大きな距離』が出来てしまったように感じて寂しく感じたのだが・・・・・。
里奈は相変わらず、学校ではいじめもあるようだった。
しかし里奈は明るさを失わなかった。
それが、里奈の周りに人を集めることに繋がったようだ。
彼女は高校では、生徒会長を務めることになった。
高校生になり、少しずつ美しくなってゆく里奈を、施設に『視察』に訪れる野崎は、眩しそうに見つめていた。

高校を卒業すると、規定によってこの養護施設を出なけれはならない。
里奈にとっては、施設を出て一人立ちするために就職をするか、大学に進学することになる。
高校での里奈の成績ならば、有名な大学に十分に合格できる。
しかし、学費は? 生活費は?
進学は諦めるしかない・・・・・里奈が思った矢先、思わぬ形で道が開けた。

「地元に進出している企業が、新たに奨学金を設立したらしいよ」
最近流行りの返済不要の奨学金だ。応募をしてみたらどうだ?・・・・・施設の所長が、里奈の前にパンフレットを置いた。
大学で、まだ学ぶ事ができる。
喜ぶ里奈の明るい笑顔を、野崎は扉の外から微笑みながら満足そうに見つめていた。

高校でもトップレベルの里奈の成績ならば、奨学金の審査に合格するのは、それほど難しいことではない。
高校を卒業した里奈は、国立の最高学府・・・・・東都大学に入学した。
施設の所長から、里奈の大学進学の報告を受けた野崎は、東都大学に入学をすることで、里奈が『自分の後輩』になったことに、喜びを感じていた。
大学の入学式に野崎は毎年、来賓として招待されていた。
例年、多忙な野崎は招待を丁重に断っていたが、この年は『行かないと失礼になるかな?』と、スケジュールを調整してまで大学の入学式に出席をして、秘書の古瀬女史を驚かせた。
スピーチで壇上に立った野崎は、『4年間という限られた時間を、大切に使って下さい』と、学生達に、そして壇上に立つ野崎を大きな瞳で見つめている里奈に語りかけた。


大学に入学した里奈は、経済学部に入り、授業に、そしてサークル活動に、充実した日々を過ごしていた。
この頃になると、野崎は密かに里奈と会うようになっていた。
きっかけを作ったのは、里奈だった。
彼女は、施設の所長に、

「この施設や、恵まれない子供達への奨学金を作ったのは、実は野崎先生ではないですか?」

と、尋ねのだ。
真剣な目で見つめる里奈を見て所長は、野崎が国会で尽力して、この施設を建てたこと。18歳になり、高校を卒業して施設を出なければならなくなっても、大学で学びたい学生のために返済不要の奨学金を設立したこと。野崎本人は、それについて何も、そして、誰にも言っていない・・・・・と、里奈に話した。
所長の話を聞いた里奈は、不思議そうに所長を見つめていた。
里奈にとっては、ニュースや新聞で見る『政治家』は、自分の功績の自慢をすることと、私腹を肥やすこと、そして『敵』の失敗を攻撃ことに長けている・・・・・『政治家』は、そういう人だと感じていたのだ。
所長は、里奈の思いを感じて微笑んだ。
「野崎先生は『政治屋』ではない。『政治家』なんだ。野崎先生は、政治で自分が儲けようとは考えていないんだよ」
里奈ちゃんや、みんなのために国会で働いているんだよ。
静かに話す所長を、里奈はキラキラした大きな瞳で見つめ、そして頷いた。

所長の話を聞いた里奈は、野崎の事務所に手紙を書いた。
古瀬女史から白い封筒を受け取った野崎は、丁寧な字で書かれた宛先と野崎の名前、そして裏に差出人として書かれた『高瀬里奈』の名前を見ると、胸が高鳴り・・・・そして、苦笑いをした。
77歳の年寄りが、まるで高校生のようではないか・・・・・と。
野崎は無骨な指で、封筒の中から便箋を取り出した。
聞いた話だと、若い女性は動物等・・・キャラクターというらしい・・・が描かれた便箋や封筒を好んで使う事があるらしい。
しかし、野崎が取り出したのは、シンプルな白い便箋だ。
その便箋に、几帳面な女性の文字が並んでいる。
そこには、養護施設を設立してくれた事への感謝と、そのお陰で自分が高校まで進学出来て勉強の楽しさを知ることができたこと、野崎が尽力して、地元企業と共に奨学金を設立してくれたお陰で大学に進学できた事への感謝が書かれ、多忙な野崎の体を気遣う言葉が綴られていた。
手紙を読んでいた野崎は、目頭が熱くなってきた。
「先生?」
古瀬女史が、心配そうに見つめていた。
野崎は照れくさそうに笑うと、
「ありがとう、大丈夫だよ」
答えた野崎の声は、微かに震えていた。
野崎は思った。
彼の同僚には、自分の利権や名声を追い求める者も多い。
しかし今、野崎は若い女性を『未来への扉』の前まで導き、彼女から感謝の言葉を貰った。
シンプルな紙の便箋に書かれた手紙。
彼女の想いの重さを、野崎はしっかりと受け止めていた。

野崎は、里奈に手紙の返事を書いた。
返事を書いていた万年筆を持つ手が止まり、野崎は古瀬女史に、
「彼女と食事でもしながら、ゆっくりと話したいのだが?」
問いかけられた古瀬は、一瞬キョトンとした表情を野崎に向けて、
「手紙をくれた、高瀬さんとですか?」
「そうだ、彼女は私の大学の後輩でもあるしな」
古瀬は、驚いて首を横に振った。
「先生、御自分の立場をわきまえて下さい! 男性議員が18歳の女子大学生と、二人で食事をしていた・・・・・なんて、新聞や雑誌に書かれれば、傷つくのは高瀬さんの方ですよ?!」
古瀬に言われて、野崎は思わず絶句した。
野崎にすれば、施設に視察に出かけていた頃と同じ感覚だったが、今、彼女が住んでいるのは東京。
そして、野崎自身は今や『国会の重鎮』と言われる存在だ。
たとえ野崎が望まなかったとしてもだ。
小さくため息をついた野崎に、
「先生、この件。わたしに任せていただけますか?」
顔を上げた野崎に、古瀬がにっこり微笑んだ。



それから一ヶ月ほど経った夏のある日、野崎は、古瀬女史から大学の特別講義で『経済政策の景気に与える効果について』というテーマでの講演を依頼された。
講演場所は、東都大学。
選挙の有権者年齢が引き下げられることもあり、今年入学した新入生を対象に講演するらしい。
若い学生達に話すのならば、党の若い議員の方が良いかとも思った野崎だったが、自分の母校からの要望でもあったので、引き受けることにした。

当日、野崎は大きな『階段教室』の教壇に立った。
教室いっぱいに入った学生達に、
「国会議員よりも、君たちの方が、出席率は高いかもしれないな」
と笑わせてから、現在の日本経済の状況を、学生達が理解しやすいように家計や給与を例にして経済政策と、それが与える効果について講演をした。
学生達一人一人の顔を見ながら話す野崎は、その中に里奈の姿を見つけた。
彼女は、大きな瞳で野崎をしっかりと・・・・・まるで彼に挑みかかるような視線を向けて、彼の話を聞いている。
野崎は微かに微笑むと、一人一人が政治に参加をしているという意識を忘れない事が、議員に対する監視機能の意味でも、良い政策を作る意味でも大切だ・・・・・と話して講演を締めくくった。

講演後、野崎を囲んでの懇親会が行われた。
学生達は熱心に、野崎に議員の活動の内容や、政策、あるいは外交政策について質問してきた。
野崎は質問に丁寧に、そして時には冗談を交えながら答えていた。
野崎の周りには若者達が集まり、時には爆笑が起きていた。
「野崎先生」
野崎の背後から、可愛らしい声か聞こえてきた。
振り向くと、里奈が大きな瞳で野崎を見つめていた。
あれだけ里奈に会って話をしたいと思っていた野崎だが、いざ里奈に会ってみると、言葉が出なかった。
「やあ、元気そうだね」
咄嗟に出たのは、ごく当たり前の言葉だった。
「野崎先生、先生のお陰で、わたしは大学まで進学できました」
どうも、ありがとうございました・・・・・里奈が野崎に頭を下げた。
「いや、私は何もしていないよ」
したのは、議員として“あたりまえ”のことさ・・・・・野崎が微笑むと、里奈は初めて出会った時と同じように、大きな瞳をキラキラさせながら、野崎に一礼した。

懇親会が終わり、野崎と古瀬女史が、迎えにきた銀色のトヨタ アルファードに乗り込んだ。
学生達が車の周りに集まり、
「ありがとうございました!」
「また、来てくださいね!」
野崎に向かって、口々に感謝の言葉を言った。
後部座席の窓を開けた野崎が、その声に応える。 しかし・・・・・?
「どこにいるんだ?」
学生達の中に、里奈の姿は無い。
野崎は、にこやかに学生達の声に応えながら、里奈の姿を探していた。
やがて、
『いた!』
野崎の視線は、里奈の姿を見つけた。
車を囲む人垣の後ろから、野崎の姿を見つめている。
里奈は野崎と視線が合うと、深々と一礼した。
車が動き出して、学生達、そして里奈の姿が小さくなっていく。
野崎は車の窓を閉めて、ため息をついた。
その様子を見ていた隣に座る古瀬女史が、微かに笑ったのを、野崎は聞き逃さなかった。
「何かね?」
「いえ・・・・・」
何も・・・・・古瀬は答えると、笑いをこらえながら、バッグの中から何かを取り出した。
「これを・・・・・」
手帳のページを切り取った紙片に、電話番号と、アルファベットが書き込まれている。
「これは、何かね?」
「高瀬さんの電話番号と、メールアドレスです」
古瀬は澄ました顔で答えた。
野崎が驚いて古瀬の横顔を見ると、
「口の固いお店もいくつか見つけてあります。今度、お食事に出かけられてはいかがですか?」
彼女のためにも・・・・・古瀬の言葉に、野崎は感謝の言葉しか出なかった。



この講演の後、野崎と里奈は食事に出かけるようになった。
古瀬が見つけてくれていたのは、客のプライバシーをしっかり守り、店の入り口が複数あるような店だった。
流石だな・・・・・野崎は、古瀬の気遣いに舌を巻いた。
店の従業員は、野崎が来ていると気がついているのだろうが、『こく当たり前』に接客している。
古瀬女史によると、客の信用を守るために、芸能人の後をつけてゴシップ紙の記者が来た時には、記者が裏をとろうと店員に尋ねると皆が、とぼけとおしたらしい。
今も二人の前に料理を並べて、スッと一礼をして部屋を出て行く。
彼らの目には、今の自分はどのように映っているのだろうか? おじいさんと孫・・・・・普通ならば、そうなのだろうが?
「さあ、頂こうか?」
野崎が声をかけ、里奈が頷いた。
二人は、料理を食べながら話をした。
野崎が驚いたのは、里奈も野崎と養護施設で初めて出会った時の事を覚えていたことだ。
77歳の男と18歳の女子大学生は、食事をしながら思い出話や政治の話、里奈の大学での日常や、野崎の大学時代との違いなど、話をしているうちに、あっという間に時間が過ぎていった。
店を出るとき、野崎は「また、会おう」と里奈に言った。
里奈も頷いた。
「ハイ、是非。また!」

翌日、野崎が議員会館へ行くと、古瀬女史が話を聞きたがった。
野崎は店の手配の礼を言い、昨夜の様子を簡単に話した。
また食事をするかもしれないと話すと、古瀬女史は、良かったですねと言った後、
「普通の77歳の男性ならば、高瀬さんは断ったかもしれません。 先生は、わたしが言うのは失礼かもしれませんが、柔軟なお考えを持っておられるから、高瀬さんも話をしていて楽しいのかもしれませんね」



それから、野崎は半年に一度、里奈と会うようになった。
古瀬女史が言った通り、野崎は柔軟な思考を持っている。
野崎と話すことは、里奈にとっても得るものが多かったようだ。
4年後、里奈が東都大学を卒業する時には、彼女は主席で卒業した。

卒業後、里奈は大手商社に就職した。
野崎と会って話をしているうちに、外国と日本の企業との架け橋になりたいと考えたようだ。
話を聞いた野崎は喜んだ。
東都大学の卒業式に来賓として出席した野崎は、袴姿の里奈を見つめながら、一つの役割が終わったと、肩の荷が降りたような、そして同時に一抹の寂しさも感じていた。

就職後、里奈は季節毎に野崎に近況を知らせる葉書を送ってきた。
これから彼女は、自分の足で歩かねばならない。里奈が大学を卒業した後は、野崎は里奈と会うのを控えていた。
それでも里奈が送ってくる葉書は、野崎のささやかな楽しみだった。
「あとは、良い男性と出会って、幸せな家庭を作ってくれれば・・・・・な」
パソコンのキーボードを打つ古瀬女史に向かって、野崎が言った。
古瀬女史はキーボードを打つ手を止めて、
「彼女なら、大丈夫ですよ」
それよりも・・・・・と、古瀬の顔が曇った。
「先生のお体は、大丈夫なのですか?」
気をつけていただかないと・・・・・古瀬に言われて、野崎は苦笑した。

里奈が大学を卒業してから3年。
里奈が仕事に充実感を感じる日々を送る一方で、この頃の野崎は、党の議員達の取りまとめに神経をすり減らしていた。
『若手政治家』が増える一方で、野崎から見れば、政治家としての自覚が足りない政治家が、あまりにも多すぎた。
野崎は、党のトップに「気をつけないと、議員の不祥事で、貴方の足を引っ張られるかもしれない」と忠告した。
すると、彼はこう言った。
「それなら、野崎さんが議員の引き締めをやってください」
彼は、煙たがられるような仕事は、したくはなかったから、野崎に謂わば『丸投げ』したのだ。
野崎は、後輩議員の育成に尽力した。
彼にすれば、議員の不祥事で野党から『くだらない追及』を受けて、本来進めなければならない国会での審議が出来ない事が耐えられないのだ。
さらに悪いことに、この時期に大臣の失言が相次ぎ、野党に絶好の攻撃材料を提供することになった。
党のトップは、その火消しを85歳になった野崎に任せた。
野崎には人望がある。
野党の議員達も、一目置く存在だ。
その男が、齢85歳で説得に出向き、頭を下げ、国会での審議への協力を求めた。
野崎が調整に動く一方で、『党のトップの懐刀』や『側近』を自称する議員達が『放言』をして、野崎の調整が『元の木阿弥』になってしまうことも、しばしばだった。
彼らは、『野崎さんの調整が下手だから』と言い放っていたが、決して自分達で突破口を作ろうとはしなかった。
古瀬女史が心配するように、心労と体の疲労で野崎は、やつれてしまった。
そんな多忙な野崎の事務所に、里奈からの手紙が届いた。
テレビのニュースや新聞で見る野崎が、痩せてしまって、あまりにも疲れているように見える事が心配なようだ。
そして、『気分転換に食事をしませんか?』と書かれていた。
手紙を読んだ野崎は、背広のポケットからハンカチを取り出して、目頭を押さえた。
驚いて古瀬女史が駆け寄った。
野崎は、苦笑いをしながら、
「年を取ると涙脆くなって、いかんな」
涙で潤んだ目で古瀬女史を見ると、里奈からの手紙を差し出した。
古瀬は手紙を受け取り一読すると、
「先生、お出かけになるべきです」
高瀬さんと一緒に美味しいものを食べて、リフレッシュして下さい・・・・・優しい目で見つめる古瀬に、野崎は机に置かれた里奈からの手紙を見つめながら、小さく頷いた。

一週間後、野崎は古瀬女史を伴って、レストランに向かった。
この店で、里奈と三人で食事をすることになっている。
しかし、待ち合わせ時間になっても、里奈は現れなかった。
30分待っても、1時間過ぎても、電話連絡も無く、メールを送っても返信が無い。
心配する野崎の横で古瀬が、里奈の携帯に何度目かの電話をかけると、ようやく繋がった電話に出たのは、里奈ではなく男性だった。
そして、彼は言った。

「高瀬 里奈さんは、事故に遭われて病院へ運ばれました」

事故を知った野崎は、古瀬と共に病院へ向かった。
タクシーの中で、野崎は懸命に冷静になろうとしていた。
里奈には身寄りが無い。
天涯孤独だ・・・・・その彼女が、事故に遇ってしまった。
ようやく冷静さを取り戻した野崎は、養護施設に電話をかけて、里奈が事故に遇って病院へ運ばれた事を伝えた。
既に施設を出た里奈だったが、施設の所長がこちらへ来てくれることになった。
或いは、野崎に気を使ってくれたのだろうか?
『それでも良い』
野崎は思った。
身寄りの無い里奈を励ましてくれる人が、1人でも多ければ・・・・・野崎が、大きな吐息を吐いた。
里奈は、電話に出ることが出来ないほどの怪我をしたのだろうか?
電話に出た男性の話では、里奈は救急病院に運ばれた後、直ぐに大学病院へ転院したようだ。
たいした怪我でなければ良いのだが・・・・・心配している野崎を乗せたタクシーは、大学病院に到着した。
タクシーを降りた野崎と古瀬は、通用口から病院に入り、里奈の担当医師に会った。
医師は野崎の顔を見ると驚いた表情をしていたが、野崎が里奈と知り合った経緯を説明すると、納得してくれたようだ。
医師は野崎達を、里奈の病室へ案内してくれた。
「こちらです」
どうぞ・・・・・と、医師が二人を病室に招き入れた。
そこで野崎が見たのは、ベッドの上で眠っている里奈の姿だった。
事故に遭ったと聞いたので、どんな状態だろうかと心配をしていたが、見たところ大きな外傷は無さそうだ。
古瀬女史と顔を見合わせた野崎は、『これならば大丈夫』・・・・・二人は、そう思ったのだが、医師は浮かない表情だ。
「・・・・・彼女は、どうなのでしょうか?」
医師の表情を見て、不安になった野崎が尋ねた。
「高瀬さんは、頭を激しく打っています。予断を許さない状態です」
医師が厳しい表情で二人に告げた。
ベッドの傍らに、里奈が持っていたのだろう・・・・・大きな花束が置かれていた。
自分に渡すつもりだったのだろうか?
無残に折れてしまった花束を見た野崎は、見えない腕に、胸を締め上げられるような、息苦しい感覚を感じていた。

翌朝、国会議事堂に向かった野崎は、マスコミに囲まれる事となった。
彼らを見た野崎は、里奈の事で痛くもない腹を探られる事になるのだろうと思っていた。
しかし、彼らの目的は違った。
また、野崎の所属する政党の中堅議員が、失言をしたらしい。
彼らは野崎に、どのように対応するのかと、執拗に食い下がった。
この国のクオリティーペーパーを自負する夕日新聞の記者は、『あなたの指導能力が無いから、このような問題が起きるのではないか』とまで言った。
野崎は彼らの質問に、誠実に答えながら、議事堂に入った。

「また、失言か・・・・・」
野崎が深いため息を吐いた。
「また、対応に追われそうですね」
古瀬女史が応じた、その時、彼女のスマホが着信を告げた。
スマホの画面を見た古瀬は、怪訝な表情をした。
名前が表示されていない、電話番号だけだ。
「はい、古瀬ですが?」
通話を始めた古瀬の顔が、たちまちのうちに、青ざめていった。
「はい・・・・・わかりました・・伝えます・・・」
古瀬が電話を切ると、
「何があった?」
野崎が85歳とは思えない、鋭い視線を向けてきた。
古瀬はスマートフォンを持った右手を見つめている。
「古瀬君、何があったんだ?」
野崎が静かに、低い声で尋ねた。
ようやく古瀬は、視線をスマートフォンから野崎に向けた。
睫毛が微かに震えている。
「古瀬君?」
野崎に促されて、古瀬女史はようやく口を開き、震える声で言った。

「高瀬さんが・・・・・脳死状態になったそうです」

古瀬の言った一言を、野崎は暫く理解することが出来なかった。




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