最悪の日、最幸の日
キッドが眠りから目覚めた時、窓の外は雨が降っていた。
その天候に、キッドは軽く首を傾げた。
新一が管理しているこの星の丘は、毎日が穏やかな太陽と初夏の風に包まれていた。……今まで意識して雨を降らせた事など無いのだ。
窓を開け放つと、ばちばちと強い雨が吹き込んできた。外の気温は、信じられないほど低い。
しかも、吹き込んできた雨はみぞれ混じりだったのだ。
キッドは、とても嫌な予感を感じて、急いで家を飛び出した。
一瞬で新一の家にやって来て、呼び鈴を押す。しかし、返答はない。
いつもは、直ぐさま開かれる扉が、今日に限って一向に開く気配がない。……新一の気配も感じない。
心配になったキッドは、家主の了解を得ぬままに、扉を開いた。それから、真っ直ぐに寝室へと向かう。
新一の屋敷は、とてもこぢんまりしている。
一人で住んでいる訳だから、大した広さは必要ない。広いリビングに小さなにダイニングキッチン。それから、一番奥にある書斎兼寝室。
寝ながら読書が大好きな新一にとって、書斎と寝室共有は絶対だった。読書量も桁外れに多いその部屋は、そこ以外の敷地全部をひっくるめてもまだ広い。
その広い書斎兼寝室の真ん中に、ベッドが置かれている。
新一は、いつもそこで眠っている。
うたた寝でもしない限り、新一はちゃんとベッドで眠るのだから、キッドが真っ直ぐそこに向かったのは、正しかった。
静かに駆け寄ると、ベッドの中で丸くなった新一の横顔が見えた。
「……新一」
少し、安心したように、ほっと息を吐き、そっと彼の髪に触れた。
そして、すぐに気付く。……彼の体温が、異常に高い事を。
ぎゅっと丸くなって、ダウンケットの中に半分顔を埋めた新一の身体が、小刻みに震えている。
只事ではない。キッドは、軽く新一の身体を揺さぶった。
「新一、新一、大丈夫!?」
枕元に跪くキッドの姿を果たして新一は捉えているのか。
ただ、しきりに「寒い、寒い」とうなされている。
新一達のような星人(ほしびと)は、基本的に病気などしない。星自体が病むと、体調を崩したりもするが、普通のヒューマノイドのような病にかかる事はなかった。ウィルスなどに冒される事は決してないのだ。
だが、星人達は不死ではないし、絶対に病気にならない訳でもない。
現に、星人が死んで残された星は、文字通り死の星となって、宇宙にいくつも存在している。キッドのように、星が亡くなっても星人は生き続けられるが、その逆はあり得ない。
──もし、新一が死んでしまったら。……そう思うと、キッドの心は一気に冷えた。
いつも、キッドの指を楽しませてくれる彼の前髪は、汗でべっとりと額に張り付いている。
「着替え……それと、シーツも取り替え」
キッドはやるべき事を頭の中で整理すると、一気に動き出した。
屋敷中を駆け回って、着替えと替えのシーツを捜し出し、毛布や予備の掛布も引っぱり出した。
それを全て抱かえて、寝室に取って返し、震えたままの丸くなっている新一の身体を起こす。
「……新一」
読んで見るが、相変わらず、意識は朦朧としているようで、返答がない。
仕方なく、キッドは汗でじっとりしているパジャマを素早く着替えさせると、用意していた毛布で身体をぐるりと包んで抱き上げた。
そのまま、傍に置かれている長椅子に静かに降ろすと、次にベッドのシーツを引き剥がし、新しいのに替えた。同じくベッドカバー等も全て取り替えると、再び新一をベッドの中に戻した。
その後、もう一枚ダウンケットを重ねてやる。
キッドは取り敢えず、病人の環境を整え終えて、ほっと息をついた。
あと……問題は、薬の服用である。
下手に薬を用いて、もし副作用で星に影響が出ては困る。こういった時は、慎重さが必要で、キッドは暫く考え込んだ。
「地表面の変化なら良いが……地殻変動が起きては困る」
更に外核、内核に異常が起きたら、致命的だ。
しかし、キッドの深い悩みは、メディカルキットを開いた後、解決した。その中にある錠剤入りボトルの一つ一つに手書きで『○○薬、新ちゃん用 1日○回服用 1回につき×錠』と書かれたシールが貼られていたからだ。どうやら、それを付けたのは、新一の母親らしい。
キッドは、その中から解熱剤入りの瓶を取り出すと、キッチンでコップ1杯の水を汲んで、寝室に戻った。
「新一、薬……飲める?」
枕元で声を掛けるが、やはり返事はなかった。
しかし、無理矢理にでも飲まさねばと思い、心を鬼にして彼を揺さぶった。
「新一、少しの間でいいから起きて」
耳元で何度も呼ぶと、堅く閉ざされていた瞼が僅かに震えた。
「……キッ……ド……?」
眼を開ききる事なく、新一の口唇が震える。
「新一、大丈夫か?」
「分から……ないけど……すごく……さ……さむい」
新一のそれだけ言うと、また意識を四散させた。毛布の端を掴んで、かたかたと震える肩が痛ましい。
「新一、熱があるんだ。……だから、解熱剤を飲んで」
震える新一の身体を静かに起こす。
小瓶には、『1回2錠』と記されている。キッドは、瓶から決められた分量の薬を取り出して、コップを持って新一の口元に寄せた。
「今だけだから、起きて新一。口開いて……飲める?」
ぴたぴたと頬を軽く撫でるように叩いて、新一を覚醒させようとするが、なかなか瞳は開かない。仕方なく、キッドは新一の顎に手をやり、軽く仰向かせてから、震える口元に指を伸ばした。
そのまま、彼の口の中に指を入れて僅かに開かせると、手の中にあった白い錠剤を放り込む。
喉の奧に放り込んで、些か強引に口を塞ぐ。それは、まるで小動物に対して行うような飲ませ方ではあったが、キッドは真剣だった。
キッドは、まるで吐き出させないかのように新一の口を塞いだまま、コップの水を口に含んだ所でようやくその手をずらすと、なるべく驚かせないよう静かに水を含ませた。
指先をそっと喉に触れて、その水を嚥下した事を確認すると、ゆっくりと口唇を離す。
「よし。これで、治まってくれれば良いが……」
外は、未だ止まぬみぞれ混じりの雨が、窓を強く叩いている。
キッドは、取り敢えずやる事はやった安心感と不安の混じった顔で、新一を見つめた。
彼の顔色は相変わらず悪いままで、そんな彼を見ているといたたまれなくなる。
「それにしても、何でこんな事に……」
キッドは毎日新一と会っていたが、昨日もその前の日も、彼はいつも通りだった。
キッドの話す話題にも楽しそうに応えて、お茶もお菓子も、美味しそうに食べていた。終始ご機嫌な、いつもの新一だった。
そうだ、振り返ってみても、特に変わった事などなかった筈だ。
只、今までと少し違うのは……最近、手みやげに対するお礼のぎゅうぎゅうに、キスが増えたくらいで。
「……まさか」
その、キスが嫌だった、とか?
「けど、別にすごく嫌がってた素振りはないし……」
キッドは、考えたくなくて大きく頭を振って、その想像を思考から追い出した。
しかし。
もしかしたら、もしかしたら。
新一が自覚していないだけで、彼は本当は、精神的にものすごい負担に感じていたのではなかろうか。
精神的ストレスが起因しているのなら、この症状も納得出来なくもないのだ。
「そんな……」
キッドは、少し情けない顔で新一を見つめた。
「そんなに、嫌な事だった?……倒れるほど?」
その呟きに答えは返ってこない。
本当に、本当に、軽いキスしかしていないのだ。ちょこん、と口唇が触れ合う程度の、申し訳程度のキスしかしてない。
……それでも、彼はダメなのだろうか。
もしそうなら……それは少し、否、かなり困る事ではないだろうか。主にキッドが。
枕元に跪いて、新一の顔を見つめた。額に張り付いた前髪をかき上げ、タオルで汗を拭ってやる。
「汗はかいた方が良いけど、頭は冷やした方が良いかな……」
氷嚢が確かあるはずだと、キッドが立ち上がろうとした時だ。
「……み……みず…」
喘ぐように新一が言葉を発した。
キッドは、慌てて枕元に顔を寄せた。
「何?今何て……」
「……み、水……のど……」
掠れた声でそれだけ言って、身体を震わせている。
「水、喉が乾いたんですね?」
新一の言葉を受け取ると、キッドは枕元に置いたままになっているコップを手にした。
そして、息の荒い新一の頭の後ろに手を差し入れて、僅かに起こし、口元にコップの縁を当ててやる。
「飲めますか……?」
慎重に寄せて傾けてやるのだが、しかし、新一の口唇は震えるばかりで一向に飲もうとしない。
身体中の震えは一向に止まらず、キッドは段々不安の度が増してくる。
キッドは、一瞬躊躇した。
……キスは嫌かも知れない。
しかし、キッドはその思考を吹っ切るように、一気に水をあおった。
そして、躊躇うことなく、新一の口唇に触れて、水を送り込む。
新一は、その水を喜んで受け入れ飲み干した。余程喉が乾いていたのか、キッドの腕を強く掴んで、必死に飲んだ。
水が全て無くなっても、新一は唾液までも飲み尽くすかのように深く貪ったのだ。
「し、新一っ……もう、ないから」
ようやく口唇を離してキッドがそう言うと、新一は不満そうに口唇を震わせる。
「待ってて、水汲んで来るから……」
そう言って、新一から離れようとした。しかし、新一の両手が、それを阻んだ。
「新一……?」
キッドの腕を強く掴んで、離さない。二の腕の辺りを捕まれている所為で、キッドは起きあがる事すら出来なかった。
「新一……水を持ってくるから、離して」
「……い、やだ」
潤んだ蒼い瞳僅かに開き、キッドの眼を捉えた。
「さむ、い……寒いんだ……から」
熱で朦朧としながら、目元も頬も朱に染め上げて、新一は震えた声で言った。
「離れんな……そばに居てくれ……」
ぎゅっと、袖が皺になるほど強く握りしめて、そのまま自分の胸の中に引き寄せようとする新一に、キッドは愛しさと強い庇護欲に駆られる。
「……こんなに身体は熱いのに」
それでも新一は寒くて寒くて堪らないのだと。
「そばに……さむい……」
うわ言のように、何度もそう繰り返して、キッドを放さない。
「新一……私は傍に居ますよ」
キッドは、頬に顔を寄せて囁いた。
「寒いのなら……寒くなくなるまで傍にいて、ずっと抱いていてあげるから」
半分ベッドに引き込まれたような体勢で居た身体を、どうにか解放させると、意を決してベッドに潜り込む。
シングルサイズのベッドは、とても男二人が眠れるようなサイズではなかったが、入ってきた暖かな身体に、新一は無意識に縋り付いた。
キッドもそんな彼を包むように、その熱い身体を抱きしめた。
「……新一、寒くない?」
「もっと……」
震えながらそう言う。キッドはもっと身体を寄せて、強く抱きしめた。
「これでどう?」
「……ずっと」
震える口唇は、それ以上言葉を発しなかった。しかし、キッドは、優しく微笑んで、黒髪に口づけた。
「ずっと、このままで居てあげますから……安心して休んで下さいね」
雨が上がった。
うっすらと、陽の光が窓に射し込み、新一は僅かに変化した室内の光度に目を覚ました。
「……ん」
身体を動かそうとしたのだが、どうも上手く動けない。
一瞬、何がどうなったのか判らず混乱したが、すぐに自分が一人で眠っていない事に気付いた。
一人で寝るのにも窮屈になってしまっていたベッドに、別の誰かが眠ってる。
「……キッド」
彼は、新一を包み込むように抱いて、穏やかな寝息を立てていた。
新一は、すぐに何があったのかを理解した。
新一は突然酷い頭痛に見舞われたのだ。その後に襲った強い悪寒。新一は矢も楯もたまらず、ベッドに向かったのだ。
……それからの事は、良くは覚えてはいない。
朦朧としたまま、完全に意識を手放す事も出来ず、割れるような頭の痛みと、凍えるような身体の寒さに耐えながら、臥せっていたのだ。
だがあの時、キッドの気配は、はっきり感じていた。
傍に居てくれる。それだけで嬉しかったような気がする。
新一は、無意識に己の口唇を指でなぞった。
……キス、されたような気がする。
何となく、触れた感触が残っているような気がした。それは、曖昧な記憶でしか、新一には残らなかった。
それが……何となく悲しい。
触れていた口唇が離れて、そのままキッドが行ってしまうような気がして、新一はとても不安になった。それは、恐怖と言っても差し支えの無いほどに。
だから、彼を掴んで引き留めたのだ。
何処にも行かないで、傍に居て欲しい。
寒くて寒くて、頭もずっと痛いままで……。けれど、キッドが傍に居てくれれば、すぐに良くなるような気がしたのだ。
それが、例え気休めでしかなくてもそれでも、新一にとって、とても必要な事だったのだ。
キッドが……大好きな人が、傍に居てくれる事。
「……う…ん。……新一?」
新一の気配に気付いたのか、少し長めの睫毛が震えて、キッドが目を覚ます。
「キッド……」
はにかむ新一に、キッドは目を瞬かせ、安心したように微笑んだ。
「……気分は如何ですか?」
「うん……大分いい」
身体は、もうすっきりしている。身体の怠さは否めないが、もう、あの酷い頭痛も悪寒も、嘘のように消えていた。
「良かった……」
心底ほっとしたように、息をつくキッドに、新一は彼に随分心配させてしまった事を悔やんだ。
それもこれも、全ては新一の無理が祟った事に原因がある。
「それにしても、どうして、あんな酷い状態になったんです?」
心配そうに訊いてくるキッドに、新一は僅かに戸惑いを見せた。
そもそもは、新一の不甲斐なさが招いた事が原因だった。
もっとちゃんと、この星を育てていかなければ。と、ここ数日の新一は精神的に無理をした。
引き金になったのは、先日この星にやって来た快斗に怪我を負わせた事。
成長過程でやむを得ないとはいえ、彼を危険な目に遭わせてしまった。
新一が、もっとちゃんと管理していれば、未然に防げた事かも知れなかったのに。
新一も、時折快斗の星に赴く事があるが、一度だって、そんな危険な目に遭った事はない。……これが、新一と快斗の差なのだ。
そう思うと、何とも情けなく……これからは、もっとしっかりこの星の成長促進させようと、知らず知らずのうちに今まで以上に気を張った。
しかし、その結果がこの体たらくである。
この程度で体調を崩すなんて、考えてもみなかったし、正直、今も落ち込んでいる。
自分の世界に隠ってしまった新一に、……ふいにキッドが口を開いた。
「ねぇ、新一。あの……新一がこんな風になった原因は、もしかして……」
何時になく歯切れの悪いキッドに、新一は不思議そうな顔で彼を見つめた。
「もしかして……その、嫌だった?」
「嫌?……何がだ?」
「その……キス」
言いにくそうに告げるのだが、新一は何を言われたのか、全く理解出来なかった。柳眉を寄せる新一に、キッドは言葉を続ける。
「新一が……あの日キスをしてくれた日から、体調を崩し出したんだじゃないかと、思って……」
「……え?」
新一は、吃驚した。
確かにあの日から、快斗に怪我を負わせてしまったあの日から、無意識の内に無理を続けていた。
同時に、あの日初めて快斗から、『キス』というコミュニケーションを教えられた。
……しかし、よもやそれをキスと結びつけてしまうとは。
「ち、違う。そんなんじゃない。……その」
キスは、嫌じゃないのだ。傍に居ることも、触れる事も全部、新一の幸せに直結している事であって、不快になった事など有りはしない。
「違う?……本当に?」
不安そうに覗き込んでくるキッドに、新一はこくこく頷いて見せた。
すると、途端に嬉しそうな笑顔が戻った。
「良かった」
にっこり微笑んで、新一の頭を撫でてくれる。新一は、そんなキッドの仕種に、まるで自分が幼子のようになってしまった気がして不快になるのだが、そうされる事による安心感や幸福感がそれを大きく上回るので、大人しくされるがままにさせた。
「さて、……新一、喉乾いただろう?……水持ってきてあげよう」
包み込んでいた腕を解放して、ベッドを抜け出そうとするキッド。
突然遠のいたその温もりに、新一は反射的に腕を伸ばした。
離れる彼の袖を掴んで、新一は少し赤くなった。
「水、要らない。……それより、オレ……まだ少し寒くて……」
もう少しだけ、こうしていて欲しい。 そう新一は呟く。
そんな新一に、キッドはほんの僅かな間、驚いたように目を丸くしたが、すぐに優しく微笑んで頷いた。
「寒さが取れるまで、ずっとこうして居てあげます」
キッドはきっと気付いている。新一の身体が、もうすっかり良くなった事を。
……だけど、彼はそんな新一の我が儘を、さも嬉しそうに叶えてくれる。
窓の外は、いつもの風景。
柔らかな太陽の日差しと、爽やかな風が戻っている。
当然この幸せは、ずっと続きます。