恋するアゲハマ嬢 2
(2)
市河の父親は普通のサラリーマンだが囲碁の腕はなかなかのもので、
市河が物心つく前から塔矢行洋──つまりアキラの父に師事していた。
行洋は囲碁界きってのスーパースターで、一時は最高5つのタイトルを保持し
“神の一手にもっとも近い男”と崇められていたが、
一番弟子の緒方精次にタイトルの一つである『十段』を奪われた後、突然現役を引退。
現在は中国のプロチームと契約を交わしたらしいが、
詳しい話はまだ市河の耳にも入っていない。
市河にとっての行洋は、自分が勤めている碁会所の経営者である以前に、
父の知り合いのちょっと怖そうなおじさんでしかなかった。
何故なら父に連れられて行った駅前の碁会所ではいつもその人が厳しい顔で指導碁を打っていたので、
子供心にも「この人がお父さんじゃなくて良かった」と胸を撫で下ろしていたのだ。
やがて高校生になった市河は、親に隠れてバイトをするようになる。
反対しても聞かない娘の強情さに手を焼いた父親が、
「得体の知れないところよりは」と持ちかけたバイトが例の碁会所の受付だった。
時給は高かったものの、経営者があの怖い顔の棋士となると話は別だ。
なかなか首を縦に振らない娘に父親は業を煮やし、ある週末の夜にこう言った。
「断るのなら断るで、きちんと先方にご挨拶するのが筋だ。いつまでも返事を延ばしていては
塔矢先生に申し訳がたたん。明日はお前も一緒に来なさい」
市河は渋々承諾した。本当は碁会所なんて二度と行きたくない場所だったが、
これが最後だと思えば自然と気持ちも軽くなった。
そうして父に付いて行った碁会所で、市河は運命の少年、アキラと出会うのである。
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