恋するアゲハマ嬢 21 - 25


(21)
「緒方君はウィスキーのつもりで彼女と同じ物をオーダーしてきたんだけど、
 実はこれ、焼酎なんだよ」
店主の言葉を受け、緒方は自分のグラスを少し上に上げ、揺らしてみせた。
「色といい照りといい、ウィスキーにしか見えないだろう?
 その頃オレはまだ焼酎なんてもの飲めなくってね。…まず匂いが苦手だった。
 遠征先でたまに 地元の銘酒を勧められる事があるんだが、
 酒はともかく焼酎だけは毎回謹んで辞退してきたわけさ」
「そんな緒方君に焼酎を飲ませてもいいものかどうか迷う以前に私は困惑したよ。
 何故ならあの焼酎は店の商品ではなくて、彼女の持ち込み品だったんだからね」
これはちゃんと仕入れたものだけど、と言い添えて、店主は棚から焼酎の
ボトルを取り出し、皆の前に置いた。小柄なボディに貼られたコルク色の
ラベルには、『百年の孤独』とある。
「持ち込み品って?」
「自分で持ってきたお酒だよ。それをこの店で開けて飲むことも出来るんだ。
 飲み切れなかったら、ウチでちゃんとキープしておく」
「じゃあさ、オレがペットボトルを持ち込んでココで飲んでもいいってこと?」
「何バカなこと言ってるんだ、キミは」
天然なヒカルの言動に多少疲れ始めたのか、アキラは溜息混じりに目を伏せ、
側に有ったジュースを飲んだ。
「アッ、アキラ君!それ私のジュース!」
市河の素っ頓狂な声にアキラがビクリと肩を振るわせた。手前を見ると、
確かに自分のジュースがちゃんと残っている。アキラは誤って、隣にあった市河の
ジュースを飲んでしまったのだ。
「ゴメンなさい、よく確かめもせずに飲んでしまって…どっちもボクが
 口をつけちゃった、…どうしよう?」


(22)
「き、気にしないで!私はこっちをもらうから、アキラ君はそのまま
 飲んじゃって頂戴」
久しぶりに見たアキラの悩殺ポーズ、ザ・上目遣いに思考回路がショート寸前の
市河は、動揺を隠しながらアキラの前にあるグラスをそそくさと引き寄せた。
そして昂ぶった熱を冷まそうと一口飲む。
「フフ」
そんな市河を見てアキラが唇に手をあて、意味ありげに笑った。
「何?どうしたの?」
「市河さんと間接キスしちゃったなぁと思って」
「!!」
─バボン!
市河の体内で何かが大爆発を起した。
鼓動が跳ね上がり、身体中の血が沸騰するのが分かる。
全身の毛穴から蒸気が音を立てて噴出しているような、そんな錯覚に襲われた。
「市河さん人気者だから、みんな羨ましがるかも」
アキラの言う“みんな”とは何処の誰辺りを指しているだろう。
まさか碁会所に集うオヤジ連中の事だろうか?
──あの人たちはアキラ君に夢中だもの。そういう意味で羨ましがられるのは
  私の方ね…。
囲碁サロンの常連客はほぼ全員が“若先生親衛隊”と呼ばれるアキラのファンだ。
幼い頃から見守ってきたアキラをわが子以上に可愛がるのは仕方がないとしても、
行き過ぎた弁護は逆にアキラの評判を落としかねない。
市河は影の親衛隊長として、彼らの言動にも目を光らせる必要があった。
しかし、意固地なオヤジ共を諌めるのは若い市河にとってかなり骨が折れる仕事だ。
市河はたまりにたまったストレスの発散方法として、
アキラに出した後のコーヒーカップでコーヒーを飲むというささやかな幸せを見つけた。
優越感に浸りながら飲むコーヒーは味も格別。
同じコーヒーなのに何故こうも味が違うのか。味覚は思い込みに左右される。
アキラの味がすると思えば、ただの水も甘露に変わるのだ。


(23)
そんなわけで間接キスには慣れていた筈の市河だったが、
アキラが目の前にいるとなると、当然だが勝手が違ってくる。
──だ、大丈夫!大人の女は、間接キス如きでうろたえたりしないのよ!
幼稚園児のカップルでさえ将来を誓い合い、キスする時代だ。
これくらいのことでのぼせ上がるなんてみっともない、と頭ではちゃんと納得している。
けれど、体はまるで糸の切れたマリオネットのように、脳からの命令を無視し続けた。
こんな時こそ、余裕たっぷりにアキラをあしらってみたい。
たまにはうぶなアキラを赤面させ、
「アキラ君ってば赤くなっちゃって…イケナイ子ね」くらいは言ってやりたいのに、
とうとう言語野まで焦げ付いたのか、気の利いた台詞どころか感動詞一つ浮かんでこない。
結局、壊れかけの市河に出来た事といったら、再びグラスを倒さないように
両手でしっかりと固定しておく、ただそれだけだった。
市河は舞い上がった気持ちを落ち着かせようと、震える手でグラスを握り締めた。
掌の内側を流れる水滴は、グラスのかいた汗だろうか、
それとも動揺した自分の汗だろうか?
ちらりと横を見ると、当のアキラは市河の変化を気に留めることなく、
緒方たちの会話に参加している。
「──いきなりそんなこと言われたんですか?」
「ああ、オレの顔を見るなり、『あなた、どろどろでしょ!』ってな。初対面の女に
 “どろどろ”呼ばわりされたのは生まれて初めてだ。…ま、この先もないだろうがな」
「そう言われた瞬間の緒方君の顔、皆にも見せてあげたかったよ。いきなりのことで
 目が点になっちゃってね、あれはもう、女性を口説けるような雰囲気じゃあなかったね」
「へー、じゃあ緒方先生、その人とは何にもなかったんだ」
「進藤、大人にはいろんな酒の楽しみ方があるんだ。男と女がグラスを傾け語り合う、
 たまにはそんな夜もあったっていいだろう」
緒方はボトルを引き寄せ、メイプルシロップのような液体をグラスの中へと注ぎ足した。
カランという音と共に、グラスの中で小さな氷山が一回転する。


(24)
──緒方先生がどろどろ?何が?陰険な性格が?株?人間関係?それとも女性関係がどろどろなの?
市河は胸に浮んだ疑問をすべてぶつけてみたかったが、緒方を慕っているアキラの前で、
緒方の品位を落とすような発言はするべきではないと判断し、沈黙を守った。
そんな“どろどろ”の謎は次の店主の言葉によっていきなり解決した。
「でも、彼女の指摘どおりだと思うよ。緒方君は外食も多くて、おまけに不規則だろ?
 血液がどろどろになってても私は驚かないねぇ」
「…なぁんだ、血液のことだったの…」
つまり。緒方が狙いを定めた女性は23歳の管理栄養士で、緒方の顔を見るなり開口一番、
『あなたの血液は汚れている』と宣言し、全15項目の血液どろどろ度チェックを始めた挙句、
内13項目に当てはまった緒方に、血液をさらさらにすることの大切さを懇懇と説明しだしたらしい。
「緒方さんをつかまえて説教ですか?その女性、相当酔っていたんですね…」
任侠世界の住人にしか見えない緒方に説教を始めるなど、若い女性が素面で出来る事ではない。
もっともらしいアキラの呟きに、緒方の頬が少し弛む。
「見た目は普通そうだったが、あの時点でかなり出来上がっていたんだろうな。しかし彼女の話に付き合った
 おかげでこうして博識ぶれる──血液を流れやすくするには食物繊維と抗酸化物質、それに不飽和脂肪酸」
「よく覚えてるね」
店主が皿を拭く手を止め、感嘆の声を上げた。
「ポリフェノールも活性酸素を掃除する役割があるそうだ。ポリフェノールといえば赤ワイン、
 アキラ君の大好物だな」
「えっ…ええ」
突然話を振られたアキラの顔に狼狽の色が走る。市河はそれを見逃さなかった。
「ワインだけじゃなくて、ビールもウィスキーもなんでも飲むぜ、コイツ」
「進藤!」
「えええええっ!ちょっと待ってアキラ君っ、あなたお酒なんか飲んでるのっ!?」
素っ頓狂な声を上げ、市河は立ち上がった。
あまりの剣幕に、アキラの上半身が20センチ程緒方の方へと傾く。
「い、いえ、その…」
そんな二人の滑稽なやりとりにも全く動じない緒方の向こうで、
ヒカルは心底楽しそうに舌を出して笑っている。


(25)
下唇を噛みながらアキラは後ろを振り返り、頼みもしない手榴弾を投げてきた
忌々しい相手をキッと睨みつけた。
だがヒカルも負けてはいない。
「なんだよ、ホントの事じゃん!この間もオレが寝た後、緒方先生と二人で
 延々飲んでたクセにさぁ」
突然だが、市河はマル秘手帳を持っている。
自分用ではなく、主にアキラのスケジュールを書き込むためのものだ。
情報源は塔矢明子。
市河は毎週欠かさず塔矢家に電話を入れ、アキラの都合に合わせて
指導碁を組み込むとの名目でアキラの予定を聞き出していた。
スケジュール以外にも、アキラに関する事柄なら
どんな些細なものでも即刻記入するようにした。
マル秘手帳──それは食べ物の好き嫌いから、アキラが笑ったオヤジ連中のダジャレまで、
ありとあらゆるジャンルを網羅したアキラファン垂涎のデータブック。
当然、身長も体重も視力も脈拍数もバッチリ押さえてある。
そんなアキラ通・市河にも、まだまだ知らない衝撃の事実があったとは。
「アキラ君、ホントにホントにお酒を飲んでるの?」
腕組みのまま目を丸くして尋ねてくる市河。アキラはもう一度ヒカルを睨み、
すぐさま困リ果てた表情を浮かべ市河に向き直った。
「……父と母には内緒にしてもらえますか?ボクと市河さんの秘密ということで…」
─秘密。なんという甘美な響きだろう。
市河は目を伏せた。
碁会所連中も惑わされるほどの艶然さと無邪気さで、アキラは市河をも翻弄する。
何気ない一言、些細な仕草に一喜一憂するのは毎度の事。
そんなアキラ狂いは親衛隊メンバーも似たようなものだろう。
柔らかい物腰と、育ちの良さから来る優雅な立居振舞、
加えて先輩棋士を凌駕する囲碁の実力。母親似の美貌。父親譲りの利発さ。
数え上げればキリがないそれらの賞賛に溺れることなく、
むしろ必要以上に謙虚であろうとするアキラを、周囲の大人達は
「偉い偉い」とさらに誉め称える。するとアキラは分不相応の賛辞にますます萎縮してしまう。
その態度が「若いのに出来たお人だ」と評価され、イマドキの若者に辟易している
大人達の間でよりいっそうアキラ熱が高まっていく。



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