恋するアゲハマ嬢 16 - 20


(16)
「うわ、すっげぇいい匂い!」
「たくさんあるから、どんどん食べてくれよ。緒方君も少しどうだい?」
大鍋の正体は地中海風パエリアだった。しかし店主の弁によると、
サフランライスではないのでシーフードピラフということになるらしい。
「オレは遠慮しておこう。奥に座ってる小僧の取り分が減って、
 あとで恨まれたりしたら面倒だからな」
「─緒方先生、もしかしてコゾウってオレのこと?」
「間違いなくキミのことだよ」
スープを飲み終えたアキラが惑うことなくヒカルに真実を告げる。
「失礼だな!いくら腹が減ってても象みたいにばくばく食わねーってば!」
「…その象じゃないと思うよ、進藤」
憐れむような表情を浮かべ、ヒカルを直視するアキラ。
そんな顔ですら美しすぎて、市河は手を止めてついつい見惚れてしまう。
「…ボクの顔に何か付いてますか?」
店主が取り分けたシーフードピラフに舌鼓を打っているはずのアキラが、
ふと顔を上げ市河に尋ねた。
市河と言えば、スープを上品に飲み終え、海老の殻を器用に剥き、
ムール貝の貝柱を鮮やかに取り外し、魚の白身を優雅に口に運ぶアキラの洗練された
仕草に気を取られ、食が全く進んでいない状態だった。


(17)
「市河さん、さっきから手が止まってるから、どうしたのかと思って」
「ご、ごめんなさい。ずっと見られてて食べ辛かったわよね」
「そうじゃないんです。もしかしてあまりお腹空いてないのに無理に
 付き合わせてしまったのかなと心配になって…」
「そんな事あるはずがないじゃない!」
誤解を打ち消す為、市河は勢い余って握り拳でテーブルを強く叩いてしまった。
反動でブラックティーのグラスが傾き、市河の服を濡らした。
「キャッ!」
「大丈夫ですか?」
「市河さん、酔っ払いみたいだな」
アキラとヒカル、両方から差し出されたおしぼりを受け取り、
市河はズボンの表面に浮いた滴を軽く叩いた。素早く吸い取られた液体が
おしぼりを茶色く染める。その色はやがてじわじわと全体へ勢力を広めていった。
「大変だ!おしぼりが足りないようなら、トイレの洗面台の上に置いてあるやつを
 使っていいよ。シミにならないうちに早く!」
店主の声に市河はそうさせてもらいます、と頭を下げ、女性用トイレへと席を立った。
言われたとおりおしぼりで残りの水滴をふき取り、最後にトイレの鏡で全身を
チェックする。幸い処置が早かったため、見苦しいようなシミは免れた。
…元々シミになっても構わないような服ではあるのだが。
──ダメ。はしゃぎすぎちゃって失敗したわ。こんなことじゃ未来の塔矢家の
  厨房は任せてもらえない…。しっかりしろ、晴美!!
パンパンと両手で頬を叩く。
市河は気合を入れ直すと、愛するアキラの元へいざゆかん!と元気よく出陣した。


(18)
さて、席に戻ろうと市河がテーブルへ向かうとアキラの姿はなく、
空っぽのパエリア鍋だけが淋しく置き去りにされていた。
二人は何処にいるのだろうとカウンターの方へ目をやると、案の定、緒方の両隣に
アキラとヒカルがジュースのグラスを片手に腰掛けていた。
「何やってるの?」
背後から顔を覗かせた市河を見るなりアキラは美眉を寄せ、
「あ、市河さん。洋服の方は大丈夫?」
と濡れた服の心配をした。
「全然平気よ。シミ一つ残ってないの」
市河はアキラの隣に腰掛けながら笑顔で答えた。
それにしてもアキラのそういう細やかな心配りはさすがだと思う。
中学時代の同級生と比べてもその差は歴然としている。
あの当時、アキラのような王子様的男子生徒が一人でも学内に存在していたなら
自分の人生、60度位は変わっていたかもしれない。
でもそうなるとアキラと出会えなくなる。そんな未来なんてまっぴら御免だ。
アキラのいない世界になんて一秒たりともいられやしない。
市河は年下のアキラに熱を上げているせいか、
実は一部の人間に中学生も守備範囲内なのではと誤解されている。
事実アキラは中学生なので年齢的にはショタと騒がれても仕方がないのだが、
アキラにはショタの対象である同世代の少年が持つ雑駁さが全くない。
可愛らしい印象のヒカルでさえもやはりどこか運動場の土の匂いというか、
男の子の埃っぽさを感じるのに、アキラの纏っている空気は静謐そのものだ。
半ズボンからのぞいたぴちぴちした膝小僧がいいとか、そんな要素は問題じゃない。
自分は塔矢アキラそのものに惚れているのだ。
その情熱こそがまさしくショタならば、好きなだけそう呼べば良い。
市河にしてみれば、ショタだろうがストーカーだろうが
アキラが絡めば光栄な称号にすぎなかった。


(19)
「今さ、緒方先生のナンパ話聞いてたんだ」
ヒカルがいたずらっ子のような目を輝かせる。
「おしゃべりな店主が頼みもしない事をべらべら話し始めるんで、こっちはいい迷惑だがな」
そう言いながらも緒方の口調は柔らかい。
むしろ店主とヒカルのやりとりを酒の肴にして楽しんでいるフシがある。
「そう言うなよ。君が誰かを連れてくるなんて滅多にないことだからね。
 この際日頃のウラミツラミを──君達に教えてあげたい事はまだまだ山ほどあるんだよ」
店主はヒカルとアキラの前に黄色いジュースを置きながら、意味ありげに目配せをした。
「ナンパ話って何のこと?」
ホワイトシャークのナンパ術には興味のある市河が、そっとアキラの袖を引く。
「緒方さんが今飲んでるお酒にまつわる話なんですが、」
そこまで話しかけたところで、アキラは小首をかしげてちらりと緒方を見た。
話の先を自分が続けても良いものかどうか迷っているようだ。
「アキラ君が躊躇うようなやましい話でもなかったと思うが…」
グラスの中で揺れる琥珀色の液体を一口流し込んだ緒方が、
市河を気にしながら苦笑気味に弁解する。
アキラは慌てて首を振った。
「ごめんなさい、ええっと、その──緒方さんがこの店に来た時、
 一人の女性がカウンターでこのお酒を飲んでいたんでしたよね」
「そ。それで今夜はイケルと思った緒方先生は隣に座って声を掛けたんだよな」
「緒方君に限らず、女性が一人で飲んでたら私でも声を掛けますよ。
 これは男として最低限の礼儀です。あなたのような美人ならなおさらだ」
さりげなく緒方のフォローをしつつ、店主は市河の前にも黄色いジュースを置いた。
「これは何のジュースですか?」
「ニューサマーオレンジです。檸檬のように黄色い色をした小さな夏みかんですよ」


(20)
ヒカルは空になったグラスとニューサマーオレンジのジュースを交代し、
くんくん、犬のように匂いをかいでからぺろりと舌で味見をした。
「お、これ美味い!」
「ふぅん」
実は興味津々だったアキラもヒカルに倣って初めての味に挑戦した。
「とても爽やかな味ですね。それに飲みやすい」
一口飲み終え、満足そうに感想を述べるアキラの唇が薄赤く濡れ、
照明の光に反射して艶めいて見える。
そんなアキラの様子に胸をときめかせつつ、市河も檸檬色のジュースを飲んでみた。
甘すぎず、酸っぱすぎず。夏と言う名に相応しい青い味だった。
いつの間にか増え始めた客に、店内が少し騒々しくなる。
地味な場所での営業が功を奏してか、この店には案外ファンが多い。
緒方のようにひとクセもふたクセもある固定客から、
自分だけの穴場スポットを求めて辿り着いた若者まで、
それぞれが地上の煩雑さから逃れようと店を訪れ、
緩やかに過ぎてゆく仄暗いまどろみの空間に身を任せつつ、酒に酔う。
そんな彼らに支えられ、おかげさまで『神経酔弱』は連日連夜、
不況とは無縁の賑わいを見せていた。
さて、店主の話に戻る。
件の女性が店にやってきたのは緒方が十段位を獲得してからのこと。
お祝い騒ぎに疲れた緒方が人目を避けるように店を訪れた際、
720mlのボトルを堂々と目の前に置き、鶏肉のタタキをつまみに
豪快にグラスを傾けていたという。
若くて美しい外見以上に、その男顔負けの飲みっぷりに圧倒された緒方は、
引き寄せられるように二つ隣の椅子に腰掛けた。



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