恋するアゲハマ嬢 1 - 5


(1)
「…ええ、わかったわ、アキラ君。彼が来たら奥の部屋に案内すればいいのね。
 大丈夫、それじゃ気をつけてきてね」
明るく弾んだ声とは裏腹に、市河晴美は沈んだ表情を浮かべ受話器を置いた。
大好きなアキラと久しぶりに話せたことは嬉しいが、その内容がどうにもこうにもいただけない。
それは、今日友達と碁を打つ約束をしているが自分は学校の用事で少し遅くなるので、
もし彼が来たら自分が来るまで待っていてもらって欲しい、という他愛のないものなのだが、
問題なのはその相手、アキラの“友達”進藤ヒカルである。
おそらくきっと絶対、アキラの最初で最後の友人となるであろうこの少年は、
アキラと同じ囲碁のプロ棋士で、その棋力は天才と称されるアキラに勝るとも劣らないものらしい。
実は市河は周囲が騒ぐほどヒカルの実力を正しく把握できていない。
ただ、アキラの凄さは熟知しているので、アキラと対等ならば同じように凄いのだろうと思う程度だ。
小さい頃から大人に囲まれ碁を打っていたアキラは、
歳の割には妙に落ち着いたところの多分にある少年だった。
おまけに父親似の端整な顔立ちと母親譲りの上品な物腰がいかにも良家のご子息といった風情で、
初めて会った時などあまりの可愛らしさに、市河は感動の涙を流したものだ。
当時アキラは小学校低学年、市河は花も恥らう女子高生だった。
言葉は悪いが、市河はその頃からアキラに目を付けていたのである。


(2)
市河の父親は普通のサラリーマンだが囲碁の腕はなかなかのもので、
市河が物心つく前から塔矢行洋──つまりアキラの父に師事していた。
行洋は囲碁界きってのスーパースターで、一時は最高5つのタイトルを保持し
“神の一手にもっとも近い男”と崇められていたが、
一番弟子の緒方精次にタイトルの一つである『十段』を奪われた後、突然現役を引退。
現在は中国のプロチームと契約を交わしたらしいが、
詳しい話はまだ市河の耳にも入っていない。
市河にとっての行洋は、自分が勤めている碁会所の経営者である以前に、
父の知り合いのちょっと怖そうなおじさんでしかなかった。
何故なら父に連れられて行った駅前の碁会所ではいつもその人が厳しい顔で指導碁を打っていたので、
子供心にも「この人がお父さんじゃなくて良かった」と胸を撫で下ろしていたのだ。
やがて高校生になった市河は、親に隠れてバイトをするようになる。
反対しても聞かない娘の強情さに手を焼いた父親が、
「得体の知れないところよりは」と持ちかけたバイトが例の碁会所の受付だった。
時給は高かったものの、経営者があの怖い顔の棋士となると話は別だ。
なかなか首を縦に振らない娘に父親は業を煮やし、ある週末の夜にこう言った。
「断るのなら断るで、きちんと先方にご挨拶するのが筋だ。いつまでも返事を延ばしていては
 塔矢先生に申し訳がたたん。明日はお前も一緒に来なさい」
市河は渋々承諾した。本当は碁会所なんて二度と行きたくない場所だったが、
これが最後だと思えば自然と気持ちも軽くなった。
そうして父に付いて行った碁会所で、市河は運命の少年、アキラと出会うのである。


(3)
「アキラ、挨拶しなさい」
父親に促され、その少年は愛くるしい笑顔を浮べながら市河にチョコンと頭を下げた。
「おねえさんこんにちは。ボク、塔矢アキラです」
「──ハッ、初めまして!市河晴美です!」
なんなのだ、この可愛らしい生き物は。
市河はうう、と胸を押さえた。心臓の音が早鐘のようにばくばくばくばくと鳴り響く。
肩の上で切り揃えた漆黒の髪にはキラキラとキューティクルが輪を描き、
磁器のような白い肌には美しい稜線を描く眉と汚れを知らない澄んだ瞳、
そしてすっきりと通った鼻とチェリーのように艶やかで小さな唇が
寸分の狂いもなく配置されていて、誰かに地上に降りた天使だと紹介されても
疑わないほどの美しい少年だった。
この少年は神に愛されている。市河はそう確信した。
ニコニコと微笑むアキラを、市河は穴が開くほど観察した。
あんな怖そうな父親から、どうやってこんなプリティーボーイが製造されるのだろう。
いや、母親が女神のように美しければそれも不可能ではない。
下世話な想像に浸っていると、アキラが市河に声をかけてきた。
「おねえさん、ボクと…」
小さな指が碁盤を示していた。
「あ、ああ。いいわよ。じゃあ石取りゲームしよっか」
アキラはにっこり笑って碁笥を掴んだ。
「ううん、たがいせんがいいな」


(4)
対局が終わった後、市河は号泣した。
結果は市河の中押し負け。いかんせん力の差がありすぎた。
父の手ほどきで、市河もそれなりに碁は打てる。
故に、子供相手なら勝てるという自信があった。
だが結果は──。
子供だと思って油断したとか、そんなレベルではない。
圧倒的大差の中押し負けなのだ。間違いなくこの少年は、市河の父親より棋力が上だ。
ぽろぽろと涙を流す市河を前にし、動揺したアキラはか細い声で市河に謝った。
「ごめんなさい、おねえさん…ボク…ごめんなさい」
「違う、違うの」
市河は溢れる涙もそのままに、懸命に首を横に振った。
泣いたのは、負けたのが悔しかったからではない。
嬉しかったからだ。
この少年は美しいだけではなく、囲碁もめっぽう強い。
天は二物を与えたのだ。もしかしたら三物、四物だったりするのかもしれない。
今ここで碁会所に別れを告げたら、この先滅多に拝めることなどできないであろう女神の造形物。
この奇跡のような出会いを無駄にしてなるものか。
市河は決心した。
「お父さん!私、ここでバイトする!」
行洋と話し込んでいる父親に向かって、娘は邪心たっぷりにそう宣言した。


(5)
あの日から数年が経過した。
バイト先をそのまま就職先に変え、友人たちからショタ道に人生をかけた女と
笑われても、市河はめげなかった。この崇高な玉の輿計画を理解してくれる人間など、
この世に存在しないのだと割り切って見せた。
市河は時間をかけてアキラの信頼を獲得し、その懐に入り込むことに成功した。
全ては狙い通り、順調だった。
何せ相手はまだ中学生。焦って行動を起せばこちらが捕まる年齢だ。
それに、囲碁街道まっしぐらのアキラにはガールフレンドの存在が皆無だった。
類稀なる優麗な容姿にクラッと来ない女子はいないだろうに、
当のアキラが色恋沙汰に無関心なせいで、悪い虫も寄りつく隙を見つけられないのだ。
プロになって生活の中心が碁になった今、クラスメイトとの交流もままならないのに、
ましてや女子生徒とどうこうなっているとは考えにくい。
そして、この状況はアキラが学生である間ずっと続くものと思われる。
晩生なアキラは婚期が近づいても独身のままだろう。
その時父に頼んで、花嫁候補として打診してもらうのだ。
都合のいい解釈だが、信じるものは必ず救われる。神様はきっといる。
市河はただ、機が熟すのを静かに待っていればいい。
そう信じていた矢先、市河は不思議な事に気付いた。



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