恋するアゲハマ嬢 6 - 10
(6)
「最近のアキラ先生は、なんていうのか…匂い立つような色気があるね。
対局中ついつい見とれてしまうんだよ。あ、市河さんも十分色っぽいよ」
扇子で額の汗を扇ぎながら、広瀬は慌てて年頃の市河に気を遣った。
「ヤダ、何言ってるのよ広瀬さんってば」
お世辞をありがたく頂戴しつつ、市河は広瀬に同意していた。
近頃のアキラは美しい。前から美しかったが、なお、よりいっそう美しい。
「あのくらいの歳の子は、何にもしなくても綺麗なんだってさ。
世阿弥も本にそんな事を書いてたよ」
「ゼアミ?」
広瀬の言葉に市河は眉を寄せる。
「ハッハッハ、若い人は能なんて興味ないよね。昔々の能役者なんだけど、
十代の頃は努力しなくても華がある、大切なのは歳を取ってからもその華を
持続することで、それには努力と鍛錬を惜しむべからず、みたいな事を
書いてあるんだ。アキラ先生は今まさに花盛りって感じだね」
そう言うと、広瀬は「誰かに恋でもしてるんじゃないのかな?」と冗談めかして
市河に耳打ちした。
──恋。
市河はその二文字を反芻する。アキラが恋?誰に?
恋をしているならしているで嗅覚の鋭い市河も気付いてよさそうなものだが、
アキラに女の影など全くといって感じられなかったのだ。
自信満々にそう断言できる基礎データは、女の絶対的な勘しかない。
──アキラ君の側にいる女って、もしかして私しかいないんじゃない?
市河は体内アキラゲージの針がMAXになるのを感じた。
──もしかしてアキラ君、私のことを……。
(7)
アキラの事は世界で一番好きだったが、もしや好かれているのではと
意識しだしてから市河の世界はさらに極楽浄土と化した。
なんといっても、天使に好かれる人間はそうはいない。
市河は当初の狙い通り、孤高の美神に見初められたのだ。
インプリンティングだと笑わば笑え、もし仮にそうだとしても、
最終的に決断するのはアキラ本人だ。誰にも文句など言わせるものか。
市河は幸せを先取りしすぎて壊れかかった。
元々訪れるどんな客にも愛想良く、そつのない応対ができるのが
市河の取り柄でもあり、碁会所の看板娘たる所以だったのだが、
最近は何故か備品の破壊、レジの計算間違いが激しく、
その後始末の面倒さにさすがの市河も自己嫌悪に陥った。
男にうつつを抜かして失敗する女は数多存在するが、
まさか自分までその仲間入りをするとは思いも寄らなかった。
いつも通り碁会所を閉めた後、レジ締めを一人でこなす市河に、
アキラは心配そうに声を掛けてくれた。
「市河さん、ボクも手伝おうか?」
「ううん、いいのよ。その気持ちだけで充分」
夜、二人きりの時間を色気のない碁会所で過ごすのも、
市河にとっては貴重なランデブータイムなのだ。
このままアイツさえ現れなければ。
「待たせたな、アキラ君」
「緒方さん。いつもすみません」
──来た。呼んでもいないのに来た。
市河は心の中でチッと舌打ちし、慇懃無礼に挨拶した。
「緒方先生、いつもご苦労様です。でも先生、とおってもお忙しいようですから
これからは私がアキラ君を送って行きましょうか」
「生憎今夜は予定が入ってなくてね。久しぶりにアキラ君とメシでも
食おうかと思い、誘っただけなんだが…」
どこか言い訳がましい緒方の言葉に、朗らかなアキラの声が重なる。
「市河さんも一緒に行こうよ!」
アキラの誘いに市河は泣きそうになった。天使は、誰にでも平等に優しい。
(8)
「アキラ君、市河さんは今とおっても忙しいんだ。邪魔しちゃ悪いだろう」
市河と同じように“とっても”に妙なアクセントをつけながら、
緒方はアキラをやんわりと諭した。
実は緒方にしてみれば、これから起こりうる悲劇を回避するべく
口に出した言葉だったのだが、何も知らない市河にその真意が汲み取れるはずもなく、
かえって闘争本能に火を点ける結果となってしまった。
「忙しくなんかありません!せっかくアキラ君が誘ってくれてるんだし、
私も一緒に行っちゃおうかなー」
そう言うと市河は、ロクに数えてもいない現金を麻袋に無造作に押し込み、
保管用の金庫へと投げ入れた。
もしも売上の計算が合わなかったときは、自腹を切ればいいだけの話だ。
そんな事よりも今は、アキラと緒方を二人きりにしてはいけないと
乙女の勘が訴えている。何か胸騒ぎがするのだ。
「じゃあボクは、戸締りを確認してきます」
アキラは愛くるしい顔立ちに麗しさをトッピングした極上のスマイルで、
碁会所内の施錠確認を始めた。それを見て市河はクーッと幸せを噛み締める。
想い人の何気ない笑顔も、一日の労働を終えた市河にとっては最高のご褒美なのだ。
それに今日のアキラは機嫌が良い。珍しくはしゃいでいるようにも見える。
──アキラ君ったら、私とご飯食べるのがそんなに嬉しいのかしら。
フフ、と不気味に笑う市河の横で、緒方は我関せずといった風情で
ラークをふかしていた。
(9)
エレベーターで一階に降りた直後、緒方が辺りを見回した。
「──アイツ、何処に行きやがった」
「アイツって誰ですか?」
市河は不思議に思う。自分達以外にもまだ他に同伴者がいるのだろうか?
「いや…今日、たまたま仕事先が一緒だったんだ…」
緒方の的外れな返答が、市河をさらに悩ませる。
その時、何者かがこちらに向かって走り寄ってきた。
「とーやッ!」
その人一倍大きな声の主は、近づくなりいきなりアキラを羽交い絞めにした。
「進藤!」
アキラは怒る様子もなく──というかむしろ嬉しそうに笑い、
突然回されたヒカルの腕にもはや自分の手を重ねている。
あれ?と市河は首を傾げた。
目の前で繰り広げられたのは微笑ましい少年同士の交流なのに、
見ているとなにかこう、胸の奥がもやもやっとしてしまう。
「…ま、こういうわけなんだ」
「は?」
さっきから緒方は自分に何が言いたいのだろう。
何が一体どういうわけなのか市河にはさっぱり理解できないのだが、
これからアキラと一緒に過ごす時間を少しでも多く確保する事の方が
大事なので、今は深く追求しないでおく。
(10)
「緒方先生!オレ焼肉食いたいよ。先生のオゴリ?」
夜でも昼間とさほど変わらぬテンションで、ヒカルが緒方にねだる。
「進藤…ラーメンじゃない日もあるんだね…」
意外な発見をしたとでも言うように、アキラがしみじみと呟く。
なぜならアキラは、ラーメンとハンバーガー以外の物を食べる
ヒカルを一度も見たことが無いからだ。
「ひっでーな。いくらオレでも毎日ラーメンばっか食ってるわけじゃないやい!
あ、でもあれは食ってみたい。フカヒレラーメン!」
「参考までに聞くが、そのラーメンの値段はいくらだ?」
「6000円」
払えない事もない金額だが、ラーメン一杯にそこまでかける気にはなれない。
緒方はやれやれと肩をすくめ、アキラに救いを求めた。
「進藤の食い道楽に付き合えるほどオレは酔狂じゃないんでね。
そんなに味見がしたければ、アキラ君にでも奢ってもらうんだな」
「やだね」
ヒカルが即答する。
「オレが塔矢に奢るんならまだしも、塔矢に奢ってもらうなんて、
そんなカイショーのない事できるかよ!」
「進藤…甲斐性って言葉、知ってたんだね…」
「…稼ぎの悪い亭主って意味だろ?」
「やだ、あなたたち面白すぎ」
悪気のないアキラと、他意のないヒカルのとぼけたやりとりに堪えきれず、
市河は思い切り吹き出した。
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