盤上の月 1 - 5


(1)
囲碁の起源は定かではないが、約4千年前の中国で政事や祭事の吉凶を占っていたのが始まりと
いうのが有望な説である。
碁盤の桝目は縦横それぞれ19本あり、19×19=361の目数は一年の日数に近く、
四角の隅は四季に当たる。
碁石の黒(陰)は夜、白(陽)は昼を表し、碁石は黒石181個、白石180個あり両方で
361個になる。
碁石を全部使うと碁盤の目が埋まるようになっている。よって盤上は宇宙を現す。
『碁は人生の縮図』とよく言われるように、碁の打ち方によって打ち手の性格がよく表われ 
それはすなわち棋風になる。
棋風は棋士のタイプにより様々で、ある者は天元(碁盤の中心の星)の周りに壮大な模様を創る形を
とり、また ある者は綿密な計算の元で展開し地道に陣地を広げ形をとるなど棋士の数だけ多種多様な
棋風は存在する。
陰陽の系譜に魅了された棋士達は、碁に生涯をささげ、盤上に それぞれの命を創造し模索する。
そして その碁に魅せられた者の中にアキラとヒカルもいる―――。

長い年月に渡り研究されてきた囲碁だが、いまだ最善の一手は解明されていなく、プロ棋士達は、
神の一手の追求に日々鍛錬を重ねている。
アキラとヒカルも それは同じで、連日のようにアキラの父・行洋が受け持つ碁会所「囲碁サロン」で
研究を重ねていた。

「この黒は意味が無いな。この一手より右上隅のここに打って つなげておくべきじゃないか!?」と
パチパチと碁石を並べながらヒカルが言うと、すかさずアキラは その布石を見て
「いや、ここは打つべきだろう。終盤では この当たりで防衛が激しくなるから少しでも固めておくには
越した事は無いっ!」と碁石をパチパチと打ち、新たな布石を展開して強めな口調で反論する。


(2)
「うーん、でも今は そんな地を固める打ち方じゃ反撃できないんじゃないか!? 
やっぱ、ここは右上隅につなげた方が絶対いいってっ!」
「いや ボクなら ここは打たず、中央にもこうして攻めれば下辺の白の連絡はつぶれる! 
こっちの方が有利だ!!」
だんだんと熱が入り喧嘩口調になり、碁会所の他の客達は2人の様子を心配そうに見ている。
ちょうど そこへ受付嬢の晴美がチーズケーキとコーヒーをお盆に乗せ2人のところへ来た。
「ハイハイ、相変わらず新年早々から騒がしいわねえ。お茶でもして休憩したらどう?」と
ヒカルから先にチーズケーキ・コーヒーを置く。
碁会所の客はアキラファンが多く、ヒカルには居心地がよくないのを察して晴美はヒカルに
普段からお茶などをアキラより優先し気遣っている。
そんな気遣いをアキラは感謝して晴美を見ると、いいのよと言わんばかりのウインクを返して
アキラに微笑んだ。
怒り気味のヒカルがチーズケーキを見た途端、
「えっ、食べていいの? サンキュー市河さん!」と目を輝かせて笑顔で言い、素早くケーキに手が伸びた。
「市河さん ありがとう。」とアキラが言っているそばで、ヒカルは無邪気にケーキを頬張って
上機嫌である。
そんなヒカルを見てアキラは、やれやれ 食べ物で機嫌良くなるなんて子供だなあと思い
クスッと笑いがこぼれ心が温かくなるのを感じた。
「ウマイなあ これ。もしかして市河さんの手作り?」
「あら進藤君 よく分かったわね。私 たまにお菓子作ったりするのよ。」と晴美は嬉しそうに
ヒカルと話している。
その様子をボンヤリ見てアキラは、この2人って前からこんなに親しかったかなあと思った。
誰とでも すぐ打ち解けられるのはヒカルの良いところである。


(3)
アキラは大抵の人とは話は普通に出来るが、どこかで無意識に一線を引いてしまうところがある。
だからヒカルの そんなところが少し羨ましかった。
「このチーズケーキ、あかりが作るのと味が似てるなあ。」とヒカルが言った時、
アキラは ひどく驚いたがヒカルの顔を見ずに目を伏せて、
「・・・あかりって進藤の彼女?」と低く押し潰した声で聞いた。
「えっ、違うよ! アイツは昔からの腐れ縁で家が近いから よくお菓子を作って持ってきて
くれるんだ。それだけだよっ。」と真っ赤になって焦り慌てながら答えた。
アキラと晴美は口にこそ出さなかったが、気もない男に わざわざお菓子を持ってくる女の子は
いないだろうとツッコミを入れたかったがあえて止めた。
いかにもヒカルは恋愛沙汰には疎そうなので無駄と思ったからである。
そうか・・・進藤には幼馴染でも親密な付き合いのある女の子がいるのか・・・と 
アキラは思ったと同時に胸の奥にズキッと鋭い痛みが襲った。
「よしっ、ケーキを食べた事だし そろそろまた打つか、なあ塔矢?」と
ヒカルは元気よく言った。
「・・・ああ、そうだね。」と胸の疼きを隠すように必死に無表情を装いアキラは答えた。
日に日にヒカルに対しての自分の気持ちが募っていくのを感じてアキラは自分自身を恐れた。
もう自分の心を誤魔化す事は不可能だった。
・・・この気持ちを どこまで抑える事が出来るだろうか・・・・・。
自分が男を好きになったという事実自体が大きなショックでもあるし、
また恋愛の経験がなくヒカルに対しての気持ちにひどく戸惑ってしまい、
それがアキラを よりいっそう苦しめる。
こんな想いを進藤に抱くなんて・・・進藤に悪いし、そんな自分をさぞ気持ち悪がるだろう・・・。
アキラは そんな自分に自信がなく、強い不安が徐々に心の大半を占めてくるのを感じた。
そしてヒカルを想う気持ちと不安が入り混じり、瞳を複雑な色に染めていった。
アキラの心の葛藤をよそにヒカルは機嫌よく碁盤に碁石を並べていった。
無邪気なヒカルを見てアキラは小さい溜息をつき、少しヒカルを憎らしく思った。


(4)
晴美は皿を片付けながらアキラから穏やかならぬ雰囲気を一瞬感じたが、
「気のせいかしら?」と あまり気に留めなかった
雑用が片付くと晴美は受付台からアキラとヒカルの姿をしばらく眺めていた。
アキラがプロになったヒカルを碁会所に連れてきた時、アキラと同じに またそれ以上に
喜んだのは晴美だった。
幼い頃から大人達に囲まれて育ち、また碁の才能に秀でたアキラは精神的成熟が早く、
同じ年頃の子供とは遊ばず よく1人で碁を並べていていたらしい。
大人しくて礼儀正しく碁の才能に満ち溢れ、また世界の囲碁界のトップに立つ父を持つアキラは
碁会所の客達から いたく可愛がられていたと古参の客から聞いた事があった。
その話を聞いて どことなく晴美には幼い頃のアキラが寂し気に感じた。
15歳にしてアキラが やっと対等に付き合える同年代の友達が出来た事が晴美には
自分の事のように嬉しく感じていた。
アキラがヒカルと碁の研究で つい声を荒げて発言してしまうのも本音がストレートに
出ている証なので、つい晴美の目には好ましく見えてしまう。
ヒカルと一緒にいる時が一番イキイキとしていて、年相応の15歳の少年の姿が垣間見れるようにもなった。
実際 ヒカルの棋力がどれだけすごいかは晴美には分からないが、天才と言われているアキラが唯一
意識している棋士なので単純に「すごく強い」という感覚しか持っていない。
でもヒカルが棋士として強いかは晴美には あまり関心がなく、ただアキラと対等に付き合える友達が
出来た事のほうが嬉しいというのが正直な気持ちだった。
アキラとヒカルを見守る晴美の目は、どこまでも限りなく優しい。
その時 常連の客の1人である北島が店に入ってきた。
「よう 市ちゃん、今日 若先生いらっしゃるかい?」
「いらっしゃい、北島さん。ええ来てるわよホラ、あっちで進藤君と一緒に打ってるわ。」と
晴美は2人を指で差した。


(5)
その指の先には、また研究碁で熱を帯びてヒートアップしている2人の姿が北島の目に入り、
「あちゃー、また始まったかなコリャ? でも進藤君も進藤君だよな。
若先生に盾突こうとするなんて百年早いよ。」と言った。
北島は この碁会所で一番のアキラびいきなので、ヒカルに対しての見方が一段と厳しい。
晴美は渋い表情を見せながら北島の荷物を預かった。
2人の討論が徐々に熱を上げるにつれて受付台のほうへ対局中のお客達が「ヤバそうだぞ。」と
口々に言いながら次々移動してきた。
結局、声を荒々しく上げて喧嘩を始めたアキラとヒカルを見て
「それにしても本当に見事と言わんばかりの組み合わせよね あの2人。
育った環境も性格も まったく正反対なのに、あそこまでお互いの碁に刺激されあうなんてねぇ。
あの2人の接点って、ホントに『碁』しかないのよね。」と晴美は しみじみ言った。
それを聞いた他の客達も皆ウンウンと頷く。
そのうち客の1人が「あっ、性格似ているところあるよ。ホラ 碁バカのところ。」と言った。
周りの客達も晴美も思わず一斉に噴出した。

見事なまでに対照的な2人のアキラとヒカルを黒白の碁石に例えるなら、
『夜(陰)』を表す黒石は 盤上の攻撃・守備を幅広く展開して沈着冷静な碁を打ち、
相手を矢で射抜くような鋭い瞳を持つアキラを、
また『昼(陽)』を表す白石は 自由奔放でありながら地に付く腰のすわった奥深い碁を打ち、
明るく無邪気で澄んだ瞳を持つヒカルを表しているようでもある。
それはまるで陰陽の石が人の姿を借りて、現世に降臨しているかのようにも映る―――。



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