盤上の月 21 - 25


(21)
「おまえが ちゃんと寝るのを見ないと不安で このまま帰れねえよ。
で、塔矢の部屋はどこだ?」
「・・ここだよ。」
部屋に入った途端、アキラは急に気が緩み体の力が抜け、ヒカルが支えている手からずり落ちた。
「ちょっと待ってろ! 布団敷くから。」
ヒカルは急いで押入れを開け手早く布団を敷いた。
「ホラ、塔矢とりあえず横になれよ。」
ヒカルはアキラのコートとセーターを脱がして上半身を紺のワイシャツだけにし、ズボンのベルト
を緩め、布団に横たわせた。

ヒカルは台所ではステンレスのボールを、また洗面所からタオルを捜し出した。ボールに氷と水
を入れタオルを浸して固く絞り、アキラの額の上に置いた。
「すまない進藤・・・。」
「もうしゃべるな 寝てろよ。」
ヒカルは心配そうにアキラの顔を見た。
「・・ありがとう。」
アキラはヒカルに微笑んで目をつぶった。自分の部屋に戻って安心したのか すぐ小さな寝息を
立て始めた。
それを見届けてヒカルは胸を撫で下ろしたと同時に部屋が ひどく冷え込んでいるのを感じ、
とりあえずエアコンをつけた。そしてアキラが寝ている脇で胡坐をかき、膝に右肘を立てて顎を
ついた。
静かな寝息を立てるアキラの寝顔をヒカルは しばらく眺めていた。


(22)
──塔矢ってホント、キレイで整った顔してるよな。
性格はプライドが やけに高くてウルサイけど。
・・・キレイな形の唇だなあ。
ハッと気付くと、自分の顎に当てていた右手が いつの間にかアキラの唇に触れていた。
「・・!?」
ヒカルは そんな自分の行動にひどく戸惑った。自分の中に今までと違う異質な自分がいるような
気がした。
──最近のオレはホントどうかしているっ!
ヒカルは激しく自分を責めたてた。でも指に触れたアキラの弾力ある柔らい唇の感触は、ヒカルの
中にある本能的な男の部分を刺激するには充分だった。
ヒカルのそれは反応して大きくなってしまい、顔を赤らめながら慌てて それを両手で押さえた。
徐々にヒカルの中でアキラに対しての想いが確実にある形を成しつつあった。
ヒカル自身も時々 自分の心に見え隠れする感情に対して、それがいったい何なのか うすうす
気が付き始めていたが、それを認めたくない自分がいた。
思わずアキラから視線を逸らしフッと窓の方に移すと、外は雪が降っていた。
ヒカルは大晦日の日の事を思い出した。


(23)
──そうだ。去年の暮れも やっぱりこんな感じで雪が降っていた。
オレはあの日から塔矢に対して別な気持ちが出てきたんだ。あの時 塔矢がオレにキスした時から、
何かが変わり始めた。
オレは もしかして塔矢のこと・・・好きなんだろうか・・・。
初めてヒカルは自分の中に芽生えた感情に正面から向き合った。

アキラとヒカルしかいない邸宅は沈黙が深まり、やがて部屋にいる2人の周辺に静寂という名の
闇が訪れた。
音もない深閑とした空間にいると頭の隅々が冴え渡り、自分の心の中の気持ちがハッキリと見える
ようだなあ・・・と、ヒカルは思った。
「・・・オレってホモの気があったのかなあ・・・?」
ヒカルは複雑な表情をし、アキラの顔をじっと眺めた。まさか自分が男を好きになるとは思っても
みなかった。
ヒカルの初恋は5歳の時で、相手は幼稚園の若い女性の先生だった。その頃 あかりはひどく毎日
不機嫌だったのをヒカルはよく覚えている。
──考えてみればオレが囲碁を始めてプロ棋士になるなんて、あの頃は夢にも思わなかったしなあ。
何事も自分の思い通りには成らないということなのかなあ。
・・・佐為のことも そうだった。
ヒカルは目をつぶり、深く息を吐いた。
「・・・塔矢、おまえはオレのこと どう思っているんだ? あの時、なんでオレにキスなんか
したんだ?」
ヒカルは思わずアキラに向かって問いかけたが、アキラは深い眠りに落ちているらしくスースーと
小さな寝息を立ていて返事は返って来なかった。
「・・・おまえは いつも強引にオレを別の世界に引きずり込むんだな・・・。」
ヒカルはアキラの寝顔を見つめながらボソッと呟いた。そんな自分にさせたアキラを好きなのか、
それとも憎らしいのかヒカルは答えが出せなかった。
──ったく、ナントカ言えよ! バカヤロー!!
と、心の中でアキラに強く怒鳴った。

外は やがて夜になり、雪は音もなく静かに降り続けた。


(24)
ヒカルは少しの間だけ寝ていたと思っていたが、腕時計を見ると すでに18時を過ぎていた。
「あれオレ、2時間近くも居眠りしてたのかあっ?」
ヒカルは胡坐を解いて立ち上り窓の方へと歩いた。外は すっかり陽が暮れて真っ暗になっており、
そして雪は まだ降り続いていた。
手入れの行き届いた庭に うっすらと雪が積もり辺りを白く染めていく。
「・・・うぅぅん・・。」
後ろから声が聞こえて振り返ると、アキラは息を荒々しくし額に汗を滲ませていた。
「塔矢、苦しいのか?」
ヒカルは慌ててアキラの側に寄り、額に手のひらを当てた。
「スゲぇ熱だっ!」
急いで立ち上がりヒカルは水の入ったボールを持ちアキラの部屋を出た。台所で水を捨て、ボール
の中に新しい氷と水を入れ、タオルを浸して固く絞りアキラの額の上に置いた。
「塔矢ゴメンな。ホントは氷枕とかのほうがいいんだろうけど、人ン家は 何がどこにあるのか
よく分からなくて・・・。」と、ヒカルは すまなさそうに呟いた。

熱にうなされてアキラは深い眠りから浅い眠りになりつつあった。
アキラは夢の中でも碁を打っている時がある。そんなときは自分が夢を見ているのだと自覚がある。
でも最近見る夢は以前とは違い、特定の人物が現れる事が多くなった。その人物に触れようと
すると霧のように消えてしまう事が ほとんどだった。
熱にうなされアキラはフッと目を開けた。
そこには自分を心配そうに見るヒカルが おぼろげにアキラの瞳に飛び込んできた。


(25)
アキラは毎晩 浅い眠りの夢に現れる人物──ヒカルに向かって思わず手を伸ばした。
すると いつもと違ってヒカルに触れる事が出来た。
それどころか自分が差し出した手を握り返してきた。

―――捕まえた。もう離さない・・・!

普段は自制心で欲望を必死に抑え込んでいるアキラだが、夢の中は理性を乗り越えて抑えている
欲望が溢れ出し、自分が真に渇望するものの姿・形が鮮明に浮き上がる事が多かった。
熱にうなされてアキラは夢と現実の区別が出来なくなっていた。熱はアキラから理性を奪った。
──これは夢だから何をしてもいいんだ。
アキラは自分の欲望に躊躇なく進んで身を沈めた。

「・・・塔矢 どうした?」
アキラは握り締めているヒカルの手を自分の方へ思いっきりグッと引っ張った。
「うわあぁあっ!?」
ヒカルはアキラの体の上に重なった。
驚いてアキラの顔を見ると そこには獲物を生け捕るかのごとく鋭い眼光を放ち燃えるような
二つの瞳がヒカルに注がれていた。
あまりにも凄まじく激しい炎のようなアキラの瞳を見てヒカルは絶句した。
でも その瞳は初めて見るものではなく、何処かで見たような気がした。
──この目をオレは幾度か見たことがある!
そうだ、まだ小学生の頃 塔矢が佐為に再度対局を挑んだ時、また中学1年の囲碁大会の時、
そしてプロでのオレと塔矢の初対局の時の目だっ!
でも対局以外に こんな塔矢を見るのは初めてだ。
ヒカルは思わず恐怖を感じたが、アキラの燃えたぎる瞳に惹きつけられ目が離せなかった。



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