盤上の月 36 - 40


(36)
ちなみにヒカルは、この時点ではまだ水曜日の低段者手合い日に来ていた。
アキラはヒカルの碁の才能を誰よりも理解しているので、近日中に自分と同じ手合い日に来ると
信じて疑わない。
一日くらい手合いを休んで体を労わってもいいと思うのだけど・・・・・・。
体調の良し悪しは、対局に色濃く影響する。が、あくまでも棋士として仕事を優先しようとする
アキラに感心しながらも、晴美は つい心配顔になってしまう。
「でも、市河さんには本当に迷惑ばかりかけ、お世話になりっぱなしだなあ・・・」
すまなさそうにアキラは言う。
「遠慮なんかしないのアキラくん。私に出来ることがあるなら何でもするわよ」
晴美はアキラの看病で邸宅に足を運んでから心に引っかかっていた事があり、それを切り出す機会
を密かに伺っていた。そして聞くのは今しかないと思い、おずおずと口を開く。
「ねえアキラくん、その・・・・最近何か悩んでいることとかない・・・・・・?」
その途端、アキラの顔が一瞬強張るを晴美は見逃さなかった。
「・・・別に何もないよ。心配性だなあ、市河さんは」と、アキラは晴美の問いかけに冷静さを
保ちながら はぐらかす。
「そう・・・・・? なら別にいいのだけど・・・・」
晴美は怪訝な表情を露骨に表したが、あえてそれ以上は詮索しなかった。例え何かあったとしても、
それを自ら進んで人には話さなく、胸の内に封じ込めてしまう・・・そのような片意地を張り通す
ところがアキラにあるのを晴美はよく知っていた。やっぱり聞くだけ無駄だったかと、眉間にシワ
を寄せながらお茶を飲んでいると、いつかの情景が晴美の瞼に昨日の事のように思い出された。


(37)
それはアキラが まだ小学6年の時の頃、明子が碁会所に来て、しばらく晴美と二人で世間話を
していた。その時 明子は、一人で黙々と棋譜ならべをするアキラの背中を見て、複雑な表情を
して晴美に胸中を語った事があった。
「アキラさんは、何でも物事を自分で解決してしまうところがあるんです。
しっかりした子ですけど、親としてはもう少し心の内を打ち明けて欲しいものですわね。
でも、それを求めるのは親のエゴなのかも知れませんけど―――」
確かにその通りだと晴美は頷いた記憶がある。

―――アキラくんは、何でもかんでも自分の中に閉じ込めてしまうところがあるのよね。
もっと いろんなことを頼って欲しいのだけれど・・・・・・・・。
碁の才能・知性・家庭環境・容姿と多々な面で恵まれているアキラは、一見完璧に見えるだけに
晴美には余計その点が一際目に付く。片手を自分の頬に当て、あれこれ思索を巡らしながら、つい
小さな溜息がこぼれる。晴美の視線は思い出から再び目前のアキラに戻る。

アキラは自分の作った鍋焼きうどんを黙々と おいしそうに食べている。
顔色も良くなり、徐々に健康を取り戻しているのが分かる。これ以上先はむやみに踏み込むべき
ではないと晴美は感じ、アキラが元気でいればそれで充分だと改めて自分に言い聞かす。
「ご馳走様でした」
アキラは土鍋に箸を揃え置き、笑顔で晴美に言う。
「どういたしまして」
食べ残しなく綺麗に空になっている土鍋を見て、晴美は満足気に お茶をもう一口すすった。


(38)
翌日、アキラは やや早めに棋院に行って対局席に座り、目を瞑り神経を集中していた。
プロになったばかりの時は多くの好奇の視線を身に感じたが、今はそれはなく別の意味の視線を
今度は感じるようになった。
幼少の頃から行洋の息子という事で数多くの注目・視線を浴び、その環境に慣れているアキラは
それらに動揺も関心も一切無い。
棋士達がアキラに向ける視線──それは豊かな才能に対する羨望の眼差しであったり、また それに
対する凄まじいほどの激しい嫉妬。そして強烈な劣等感だったりと様々であったりする。
誰の目から見てもアキラの出現で碁界は大きく揺れ動き、新しい変化が起ころうとしているのは
明白だった。棋士達は、それを新たな時代の波が来たと闘志を燃やす者や、脅威な存在が現れたと
危惧を抱く者と、そこには実に多彩な人間模様が垣間見られる。
アキラの碁に対するひたむきで痛々しいほどの情熱。それは、棋力の向上に直結しない物事は容赦
なく切り捨てるという冷酷な感性の上で初めて成り立つ。
アキラにとって人生の関心の大部分は碁にあり、白熱した対局以外は棋譜・棋士の顔や名前は、
ほとんど記憶に残らない。その態度は時として他人に高慢・冷血と捉えられ、近寄りがたい印象を
周囲に与える事もある。
碁に向き合うアキラの姿勢は、何処までも果てなく真剣であり、残酷なまでも純粋である。
また、プロ棋士の生活・環境は、アキラの中にある碁の辛辣なる追求をより高める結果となる。
徐々に少年から大人へと急速に移り変わる心の動きは、精神面でなく容姿にも強く滲み出て変化を
きたす。普段は以前と変わらず物腰柔らかいが、立ち振る舞いは凛然とした趣きを漂わすように
なった。そして碁の事に直に触れる場面になると、その瞬時にアキラを取り巻く空気はピリッと
引き締まり、雰囲気は大きく変貌する。


(39)
その様子・それは―――鋭利な刃のような青白い光が瞳に走り、眼光は一段と強まる。
そして、猛る獅子の牙を秘めながらも、常に沈着冷静で王者のような威厳ある風格を放ち、
力強い品格を匂わす。15歳にしてアキラは、それらをごく自然にその身に深く宿しつつある。
早熟・異彩で強力なカリスマ性を持つ天才棋士は、多くの人々の目を惹きつけてやまない。
囲碁関連の出版物で、塔矢アキラの名が出ない号は、もはや考えられない常識となりつつある。


「・・・・・・・・・・ありません・・・・・・・」
中年男性の八段棋士は、一時間ほど長考するが、結局盤上に新たな活路を見いだせなく投了し、
アキラの中押し勝ちとなった。自分の子供ほどの年齢の棋士に数十年厳しい勝負の世界に身を置い
てきた中年棋士は「・・・ありがとうございました」と、深々と頭を下げ、か細い声を必死に喉から
絞り出す。
「ありがとうございました」
アキラも一礼して碁石を片付ける。この棋士もアキラの記憶には残らないで、その存在は闇の彼方
に葬られる。
中年棋士は長年の経験から、どんな碁も無駄ではなく次の対局に向上出来るように繋げればいいと
頭では理解してはいるものの、悔しさを通り越して深い絶望に打ちひがれている。
あまりにもかけ離れた自分との器の違いに、長年に渡り培われたプライドは脆く崩れ落ち去る。
プロの対局は盤上での闘いの結果が全てであり、蓄積された経験・努力も敗北の字の前には地にと
ひれ伏す。そんな惨めな自分を恥じたのか中年棋士は、そそくさとアキラの前から姿を消す。
アキラの対局相手が去った後、多くの棋士達がひしめく棋院六階の大部屋に、一瞬冷たい空気が
流れた。
アキラは悠然と構え、ゆっくりと腰を上げ場を離れる。他の棋士達の碁石の打つ音がアキラの耳に
心地良く聞こえた。


(40)
アキラは帰りの電車の中で ふとヒカルの事を思い出していた。記憶には無いが、熱を出した時
親身になって看病をしてくれたと晴美から聞いていた。一言礼を伝えたく電話を何度もかけたが
生憎間が悪く、いつもヒカルは留守だった。電話をかけた都度、アキラはヒカルの家族に電話を
くれるようにと伝言を頼むが、何故かヒカルからは音沙汰が無い。
これまでは打ち合わせなどの用事で度々ヒカルの家族に伝言する事が何回かあったが、その時は、
必ずヒカルから電話があった。だから余計に今回の事の流れは、アキラは何か腑に落ちないところ
がある。きっと進藤も いろいろと忙しいんだろうな・・・などと思ってはみるが、それでも電話
ぐらいは出来るだろうという考えが強く頭を占め、内心あまり面白くない。
邸宅に帰ると、棋院の大部屋対局の熱のこもった空気とは異なるガランとした静かな空間があった。
あと数日で行洋達は韓国から帰国する予定なので、しばらくアキラ独りで邸宅を過ごす。
今までも留守を預かる事が多かったのに、何故か今日は独りでいるのがアキラには嫌に感じた。
今日から晴美は邸宅に来ない事になっているので、アキラは1人で夕食を作り、黙々と食事をする。
塔矢家では食事をする時テレビはつけないのが習慣なので、1人で食事をする風景は かなり静か
なものがあるが、アキラには その環境が当たり前なので苦にはならない。
まだ体調が本調子ではないので、早めに風呂に入り、床に就いた。



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