盤上の月 11 - 15
(11)
「緒方さん、どうぞ。」と、すかさず芦原が自分のライターに火をつけ緒方に差し出した。
「おっ、すまんな。」と口にタバコを加え、芦原のライターから火を受けながら
「・・・芦原、おまえ鼻にクリームついてるぞ。」と一言ボソッと呟いた。
「あっ、ホントだ。」
アキラは慌てて鼻のクリームを拭う芦原を見て、声を上げて笑った。
新年会が盛り上がっている最中、アキラは部屋から抜け出して料亭の庭に出ていた。
「ちょっと飲みすぎたかな・・・。」と言いながら軽く息を吐いた。
吐いた息はアキラの周りを一瞬白く取り囲んで すぐ消えていった。
1月の東京の夜は まだ寒さが一段と厳しい。
だが酔って火照っているアキラの体には氷のように肌に刺す夜の冷気が心地良く感じた。
都心は明るくて夜空の星を見ることは難しいが、寒月が辺り一面を煌煌と青白く照らし、
庭園には白・赤・淡紅色の山茶花が咲き乱れていた。
庭園を眺めながらアキラは先ほどの緒方との会話を思い出した。
──本因坊リーグは緒方さんと対局する第5戦まで必ず勝ち進んでみせる。
本戦で緒方さんに勝って自分の力を示したい。
それに本因坊戦だけでなく、他に棋聖戦・名人戦など次々と手合いがあるから一時も
気が抜けない──。
これからの対局の事について いろいろと考えを巡らしている時、
ヒカルの顔が一瞬頭を掠めた。
日常の何気ない時、とっさにヒカルの顔を思い出す事が近頃ますます多くなり、
そのたびアキラの胸に 行き場のない切なさが込み上げてくる。
──ボクは進藤を生涯のライバルとしたいのだろうか、それとも違う存在としたいのだろうか──。
アキラは自分がヒカルに対して何を望んでいるのか分からなくなった。
分かる事といえば、ヒカルと共に生涯をかけて神の一手を追及したいという気持ちと、
ヒカルを好きだと想いはアキラの中では どちらも紛れもない真実だった。
今頃 進藤は何をしているのだろうかと月を眺めながらアキラは思った。
(12)
その頃ヒカルは、自分の部屋で定石集を見ながら一人碁盤に向かっていた。
「なんか今日は一段と冷えるなあ。」と言いながら、パチパチと碁石を碁盤に並べる。
「ふっー、ちょっと休憩するか。」
ヒカルは台所へ行ってコーヒーをいれて、コーヒーカップを手に自分の部屋に戻った。
ベッドに腰をかけコーヒーを飲みながら何気にカーテンを開けると、夜空には
青白く光る月がヒカルの目に飛び込んできた。
「へー、今日は月が綺麗だなあ。」
そう言いながら月をしばらく眺めていると、何故かヒカルの脳裏にアキラの姿が現れた。
雪が降る大晦日の夜遅く、アキラが家に訪ねて来て自分に軽くキスをした事が鮮やかに
ヒカルの心に蘇ってきた。
アキラが帰った後、ヒカルは一旦ベッドに横になったが、キスの事やアキラの何処か
寂しげな瞳が目に焼け付いて気になり眠れず、結局 朝まで1人で碁を打っていた。
──あれって やっぱオレの思い過ごしだよなあ。
だって碁会所に行ってもアイツ、以前と変わらなく平然としていたし。
でもなあ、ホントごくたまにだけど すごく優しい目で塔矢がオレを見ている時が
あるんだよなあ・・・。オレの考えすぎかなのかなあ。
まさかなあ、第一オレ男だし、塔矢は女にモテるから そんな事ないよなあ──。
ヒカルは右手で頭をポリポリ掻いてカーテンを閉めてコーヒーを飲んでいると、
徐々に胸を締め付けるような切ない感情が自分の心に広がっていくのを感じた。
そんな自分にヒカルは ひどく驚き、その感情が何処から来るものか理解できなく混乱した。
──ええい、他の事は考えるな! 碁に集中しなきゃダメだっ!!──
頭を左右に強く振り両手で頬をパンパンと叩き、顔を引き締めて再び碁盤の前に座った。
しかし幾度となくアキラの透明感のある寂しげな瞳が頭に浮かんでは消え、
その度に碁石を持つ手が何度も宙に止まった。
ヒカルは碁石を碁笥に戻しては深い溜息をつき、碁に集中できない自分に呆然とした。
そして胸中を漂う切なさは いつまでも消える事はなかった。
(13)
新学期が始まってからの初めての日曜日、アキラとヒカルは碁会所で待ち合わせて
いつも通り碁の研究をしていた。
2人とも すでにプロ棋士なので多くの手合いが入りスケージュールがかなり詰まっている。
なので、お互い手合い無しが一致する日を碁会所での研究に当てている。
今日は先週行われた名人リーグ戦の他のプロ棋士の一局を碁盤に碁石を並べて検討していた。
「この第3局の白の38、40の打ち込みは凄いよな。ちょっと考えつかない手だぜコレ。
だけど、この白の38に対して黒39カケツギも悪くないよな。」
「そうだね。あと黒51のハネに白は深入り過ぎたね。今回は打たれなかったけど
左下から打ち込まれると黒に上から受けられる恐れがあるから、ここに打ったほうが
良かったと思う。」
アキラは碁笥から白石を一つ手に挟み、碁面にパチッと打った。
「ああ、そうか!」と、ヒカルは両腕を組み難しい表情をして唸ったが、ハッと何か別の事を
思い出してアキラに言った。
「塔矢 おまえに聞きたい事あるんだけど。」
「何だ 進藤?」
「泊まりの仕事で、おまえは もう講座を受け持った事とかあるのか?」
「まだ話は来ないけど、近くにそうなる事はあるかもね。」
プロ棋士は手合い以外に碁の一般普及にも努め囲碁人口増加に貢献する義務があり、年に数回
行われる囲碁ゼミナールなどで講座を担当し、囲碁愛好家に囲碁の指導・説明をする事がある。
プロ棋士に一番求められるのは対局で勝利するのは当然だが、それ以外に囲碁ファンに対して
分かりやすい具体的な指導、話術など様々な能力を同時に求められるので、ただ棋力が強いだけでは駄目なのである。
「碁を広げなきゃいけないのは分かるけどさ、そういうのより時間使うより打ってるほうが
いいなあ。」
ヒカルは机に右肘をついて手の甲に顎をのせ溜息まじりで言った。
その様子を見てアキラはクスッと笑い「まったく同感だね。」と言い、碁盤の碁石を片付け始めた。
(14)
「あれさあ、囲碁に関することを突っ込まれたりするだろ?
オレ1・2回イベントに参加した時あるんだけど、碁の歴史とか聞かれた時あって
答えられなくて笑って誤魔化した事あるんだよなあ。あれには参ったなあ・・・。」
一緒に碁石を片付けながらヒカルは言った。
「・・・進藤は、そういうのカラッキシ駄目そうだね。」
「ウッセーェなあ!」ヒカルは顔をブスっとし、口を尖らせた。
「今日はコレで終わりにして外へ出よう。」
「えっ、もう終わりにするのか!? どこ行くんだよ?」
「図書館だよ。少し碁の歴史を覚えても損はないだろ?」
ヒカルは苦虫を踏み潰したような表情をし、それを見てアキラは苦笑いした。
2人は地下鉄に乗って3駅目に降り、その駅から10分ほど歩き図書館に着いた。
図書館に入ってアキラは適当に囲碁関係の本を数冊手に取り、自習室の個人机にヒカルを座らせ
自分はヒカルの右隣の席に座り、本を開いて説明を始めた。
説明をしている時、アキラは何度か額に手を当て軽く息を吐き、少し辛そうな表情を見せた。
「塔矢、おまえ調子悪いんじゃないのか? 大丈夫か。」
「ちょっと疲れているだけだよ 大丈夫。」と、アキラはヒカルに心配かけまいと微笑んだが、
実は かなり体調が悪かった。
昼は碁の事で頭が一杯で、夜は夜で布団に横たわると碁盤が頭に浮かび、つい新しい手を考えたりしてしまうので
すぐ寝る事はないのだが、そこに新たにヒカルへの想いが募って
アキラの心を かき乱し、よりアキラから眠りを遠ざけた。
15歳という微妙な年齢もあり心と体の均衡が うまく保てず、慢性的な睡眠不足に加え、
食欲も低下し少し貧血気味になっていた。
それに昨日行われた対局が持ち時間5時間をアキラも対戦相手も ほとんどつぎ込んだので、
約10時間を費やす長時間の一局となった。対戦結果は3目半でアキラが白星を取った。
その一局がアキラの心身の消耗をさらに拍車をかけ、その疲れが まだ色濃く尾をを引いていた。
(15)
「・・・と見られていたんだ。文禄三年に本因坊算砂、またの名を日海といい、この人物が
出現した事より囲碁は遊戯から国技へと変わったんだ。ここまでは分かったか進藤?」と
アキラは本を見て説明をしながら隣に視線を移すと、ヒカルは頭をコクコクと上下させて
眠りこけていた。
アキラは最初唖然としていたが、だんだん腹が立ってきて声を荒げた。
「進藤! 寝るとは何だっ、フザけているのか!?」
アキラは結構短気である。
──せっかく人が教えているのに何を考えているのか? プロ棋士としてヤル気があるのか!? ──
人に教えてもらって居眠りをするという行為自体がアキラには理解出来ない事なので
余計に頭にくるのもあるし、微熱があるのに無理をしている自分がバカらしくなった。
ようやくヒカルはハッと目が覚め我に返り、バツが悪そうに「わりい わりい、ゴメン塔矢!」と
笑って誤魔化そうとした。
「・・・じゃあ、もう一度ここのところを説明するよ。ちゃんと聞けよ 進藤。」と
必死に怒りを抑えてアキラは 同じところの説明を始めた。
そして すぐヒカルを見ると、また うつら・うつらと居眠りをしている。
それを見た瞬間、アキラの目が険しくなり こめかみがピクピク動いた。
アキラは怒鳴る代わりにヒカルの右耳をギュウーと思い切り引っ張った。
「・・・!? いでででぇっ! 何するんだよ塔矢ぁ!!」
「キミって奴は何を考えているんだ!? まだ説明を始めて5分もたっていないぞっ!!」
「ゴメン、オレ授業が始まると3分で眠たくなるんだ。」と、ヒカルは左手で頭を掻いて
舌を出した。
「・・・・・・・・・・・・・キミの学校の授業を受ける様子が ありありと目に浮かぶよ・・・。」
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