盤上の月 16 - 20
(16)
アキラの目は一段と険しさを増し、こめかみが先ほどより早く引きつりヒカルに呆れ果てて
大きな溜息をついた。
その横でヒカルは さすがに自分の態度がアキラに対して悪かったと反省し、
慌てて机の本を手に取り読む素振りをした。
「人の話を聞くのが苦手なら、ノートに書いて写しながらの方が頭に入るしキミも
そのほうが集中出来るだろう。」
「あっ、そっか! さすが塔矢頭イイなっ!」と無邪気にヒカルは笑った。
──・・・キミが頭悪すぎるんだ・・・──と、塔矢は口には出さなかったが心の中で思った。
「じゃあ、ここをまとめてみて。終わったらボクがチェックするから。」と、
多少 口の端をヒクヒクさせながらアキラは言った。
「OK わかったっ!」と、二カッと歯を見せながらヒカルは陽気に返事をした。
・・・何でボクは こんなヤツを好きになったんだろうかとアキラは自分に対して腹が立ち
胸がムカムカしながらもヒカルがノートをとる姿を しばらく眺めた。
また熱が出てきたのか頭がボーとし、目が少し霞んできた。
──・・・ふうん、進藤って結構指が長いんだな。がっしりしていてボクより太い指だ。
あの指で碁を打つのか。そしてホント大きな目だなあ。唇・・・柔らかそうだな──
アキラはハッと我に返り顔を赤らめ、今 自分が思ったことを恥ずかしく感じた。
しかし、そうは思っても目はヒカルの唇からクギ付けになって動かない。
──ボクは一度あの唇にキスをした事がある──
そう思った途端、キスをした時のヒカルの唇の柔らかさが鮮やかにアキラの記憶に甦り、
体が熱くなり胸の鼓動が一気に高まった。
そして切なさがアキラを心を貫いて手のひらには じんわり汗をかき、今にもヒカルに触れたくて
仕方がない衝動に強く駆られた。
ヒカルは今 アキラのすぐ手の届く距離にいる。
──進藤に触れたい、抱きしめてキスをしたい──アキラの紛れもない本心だった。
(17)
その時ヒカルは いきなりアキラの方へ振り向き、「・・・塔矢、さっきからオレを
じっと見ているみたいだけど、オレの顔になんか ついているのか?」と、アキラを見た。
「えっ、なっ なに進藤!?」とアキラは ひどく慌てて狼狽した。
「なんか言いたい事があるんなら言えよ。」と、ヒカルは大きな目で じっとアキラの瞳を
覗き込むような目つきで見た。
「・・・いや、その・・。」
アキラはヒカルを見ていた視線で自分の気持ちがヒカルに気付かれてしまったのではないかと
思い、強い不安が胸に広がった。
アキラは熱で頭がボーとしていて気付かなかったが、ヒカルの瞳は戸惑いの色が濃く浮かび上がり
複雑な影をチラチラと垣間見せていた。
そして とっさにアキラの口に出た言葉は、
「しっ、進藤の字はミミズが這うみたいに汚い字だなあと思って。」──だった。
口に出した途端「しまったっ!」とアキラは後悔したのも束の間、
ヒカルは目の前で みるみる顔を赤く高揚させて、
「ウッセぇえーなぁあっ! 余計なお世話だっつーのっ!!」と、
図書館の実習室に響き渡るくらいの大声を張り上げた。
「おまえが言うとマジでムカつくんだよっ!」
アキラはヒカルの言葉にカチンときて、ムッとした。
「あのミミズ張りの字はキレイだと おせいじを言って欲しいのか?」
「自分の字はキタナイって自覚はあるんだよ、コレでもっ!」
「自覚があるんなら上手くなるように練習しろよ!」
「 ──!? おっ、おまえにそこまで言われる筋合いはねぇよっ!!」
ここまでくるとアキラも もう後には引けなかった。
その時、アキラとヒカルの前に、薄笑いを浮かべた図書館職員の中年男性が立っていた。
「図書館は静かに使用しないと御利用出来ません。速やかにお帰りください。」と言った。
アキラとヒカルは思わず顔を見合わせてアキラは顔面蒼白になり、
ヒカルは「ヤベー。」と舌を出し顔をしかめ、職員に向かって苦笑いした。
(18)
結局、二人は図書館を追い出された。
アキラとヒカルは歩道で横に並んで歩き、また碁会所に戻るため地下鉄駅に向かっていた。
「・・・ったく、おまえが悪いんだぞ! いちいち つまらない事言うから。」
「何言ってるんだ! キミこそ居眠りばかりしていたくせにっ!!」
アキラは図書館を追い出された自分が今だに信じられないでいて愕然としている。
ヒカルは小学生の時かなりの腕白で、よく先生に怒られて廊下にも立たされる事が多かったので
別にどうってことはなく、ただマズかったなあぐらいの気持ちしかない。
・・・進藤と一緒にいると、ボクは どんどん下品になるのは気のせいだろうかと
アキラは つい思ってしまう。
そして また熱が上がっていくようで体がフラフラし足元がおぼつかなくなった。
──このまま家に帰った方がいいと思うけど、そうしたら今度 進藤に会えるのは
1週間後だ・・・そう考えると「帰る」という言葉を喉まで出かかっても
どうしても言い出せない。出来るだけ進藤と一緒にいる時間が欲しい──
今までは碁が中心と回っていたアキラだったが、最近ではヒカルの事が軸になりかけている。
その時、アキラはフッと目の前が暗くなって体がガクンと重くなり、その場で しゃがみこんだ。
「・・・塔矢? どうしたんだよっ!?」ヒカルは驚いてアキラの側に急いで駆け寄った。
「具合が悪いのか塔矢?」と、ヒカルが声を掛けても返事が出来なくて動けない様子だった。
しゃがんでアキラの両肩をつかんだ時、ヒカルの親指が ふとアキラの首筋に触れた。
瞬間 ヒカルはドキッとした。
首筋に触れた親指から熱を帯びているのが伝わり、かなりの高熱を出しているのが分かった。
──これは碁会所には戻らないで、タクシーを拾って塔矢の家に連れて帰った方がいいな──
ヒカルは とっさにそう判断し、「塔矢、ちょっと待ってろ。タクシー呼んでくるっ!」と、
すぐ近くにあった公衆電話ボックスに飛び込んだ。
(19)
ヒカルはボックスにあるタウンページを開いてタクシー会社を調べて そこに電話を
かけながら視線を歩道にうずくまっているアキラに向けた。
その姿を改めて見てヒカルの心は激しく揺れ、それはヒカルが自分でも
気付いていない ある感情にもたどり着き、さらに それに強く揺さぶりをかけた。
その瞬間、ヒカルの心に狼狽と胸を締め付ける想いが入り混じった感情が湧き上がり、
ヒカルの無垢な瞳を曇らせた。
空は雲が厚くなり陽が雲に隠れて辺りは薄暗くなり、やがて徐々に寒さが厳しくなった。
間もなくタクシーが来て、ヒカルはアキラを抱えて後ろの座席に乗り込んだ。
「お客さん、どちらへ行きますか?」と初老の運転手が行き先を訪ねた。
「おい、塔矢! 住所どこだっけ?」
「・・・。」
アキラは意識が朦朧としていて車に乗っているのも辛い様子だった。
とりあえずヒカルはアキラの体を座席に横たえ頭部を自分の膝の上にのせた。
アキラの艶のある黒髪がサラッとヒカルの膝一面に広がった。
すると、アキラは甘えるかのようにヒカルの体に自分の体を押し付け、
ヒカルの膝に顔を埋めた。
そんなアキラの態度に驚きつつ、ヒカルは 行き先は どうしようかと思ったが
自分の手帳にアキラの住所・電話番号が書いてあるのを思い出して、
バックから手帳を出し「すみません、ここへ行ってくださいっ!」と
運転手に住所を見せた。
自分の頭を包み込むように置く ぎこちないヒカルの手を『優しい手』だとアキラは思った。
(20)
タクシーは30分ほどかけてアキラの家に着き、タクシー代はヒカルが払った。
「たまたま対局料と おこずかいがあったから助かったなあ。」
ヒカルはアキラを支えて玄関に向かった。その時アキラの髪が自分の顔に触れた時、一瞬心臓が
止まりそうになった。
──塔矢を家に送って早く帰りてぇ・・・。
ヒカルは顔をしかめた。心臓がバクバクし破裂しそうに感じた。
空は一段と曇り、時刻は16時なのに すでに夕闇に近い暗さになっていた。
「すっげぇー家だなあ・・・。」
純和風の風格のある邸宅と庭にヒカルは目を見張った。
アキラはバッグから家の鍵を取り出して鍵を開け、玄関に入った。
「えっ、誰も家にいないのか?」
「両親は今 韓国に行っている・・。」
それを聞いてヒカルは一瞬胸がドキっとした。何故か自分が とてつもないところへ足を踏み入れ
ようとしている気がした。
「進藤 ありがとう。あとは大丈夫だから。」
「ホントに大丈夫か?」
「うん・・・。」
アキラは靴を脱ごうとしたが体がふらつき、バランスを崩して後ろに倒れかかった。
「うわあっ、大丈夫かよ!?」
ヒカルは慌ててアキラの背中を受け止めた。そして玄関の上がり口にアキラを座らせて靴を脱がし、
そして大きく息を吸い込みアキラを支えながら家に上がった。
人気のない大きな邸宅の中は薄暗くて不気味な感じがした。また、自分の胸の動悸がアキラに感づ
かれやしないかと気が気でなかった。
|