盤上の月 31 - 35
(31)
渋々ヒカルは寝巻き用のジャージに着替え、ベッドに潜り身を横たえると、すぐ強い眠気が襲って
きた。まだ性的に幼いヒカルには、体内から込み上げる熱より眠りの誘惑の方が上回る。
「・・・・・・・疲れた・・・・・」
ヒカルの意識は そこで途切れた。
雪は徐々に降る勢いを弱め、しばらくして止んだ。あまり積もらなく翌日には陽の光に溶け、
すぐ姿を消した。
アキラが目を覚ましたのは、ちょうど雪の消えた昼近くだった。
しばらく布団の中でウトウトしていたが、急に喉の渇きを覚え、だるい体を起こし厚手の白い
カーディガンを羽織って台所へ行く。蛇口をひねりコップに水を入れて一気に飲み干すが、
それでも まだ乾きが癒えず、もう2杯水を飲んでやっと一息つく。そして朦朧としていた意識が
元に戻っていく中、自分は どうやって家に帰ったのだろうかと思った。
「・・・・・確か進藤と図書館に行き、その帰りに具合が悪くなったまでは覚えているんだけど・・・」
思い出そうとする瞬間、頭にズキンと鈍痛が走り思わず顔を歪める。またアキラは自分が身に
付けている上着が昨日と違う事に気付いた。その時、パタパタと廊下を歩く足音が耳に入った。
その音は こちらに向かっている
──お父さん達は まだ韓国から帰国していない。じゃあ、いったい誰が家にいるんだ?
廊下の方に顔を向けると居間の戸がガラッと開き、エプロン姿の晴美が両手に洗濯物を入れたカゴ
を持って姿を現した。
「あら、アキラくん起きてたの。どう体の調子は?」
「──!? あれ市河さん、どうして ここにいるの?」
「昨日、碁会所に進藤くんが電話をくれたの。夜遅くまで私と一緒に看病手伝ってくれたのよ」
(32)
「進藤が家に来てたの!? よく覚えていない・・・・・」
──そう言われれば熱でうなされたとき、進藤の顔を幾度か見たような気がするけど・・・・。
アキラは ほとんど記憶がない事に愕然とした。
「仕方ないわよ。だってアキラくん40℃近くの熱があったのよ。
もう少し横になっていれば? あとで病院に行きましょ」
晴美はそう言うと、洗濯カゴを持ちながら軒先に座りサンダルを履いて庭に出た。
「あっ、ボクも手伝うよ」
「いいのよ、まだ微熱あるんだから また上がっちゃうわよ。今日は暖かいわね。
昨日降った雪、すぐ溶けちゃったみたい」
アキラを諭して晴美は庭の隅にある物干し竿に、手早くタオルなどを干し始める。
軒先にアキラは腰をかけた。晴天の冬の日差しは暖かく肌に照り、心地良いそよ風が頬を
撫でる。
「市河さん、随分お世話をかけたみたいで すみません」
洗濯物を干す晴美の背中に向かって申し訳なさそうにアキラは言った。
(33)
「なーに言ってるの! 当たり前のことをしただけよ」
背を向けながら元気のいい声が返ってくる。気遣いを感じさせない晴美の態度に感謝しながら
アキラの視線は自然と晴美の肉付きの良い腰に泳ぎ、思わず赤面した。
──ボクは、女の人に全然関心が無い訳じゃないんだな。じゃあ、なぜ進藤に対して強く意識して
しまうんだろうか・・・・・・。
アキラは視線を空に移した。陽は すでに高く上がり、冬独特の浅葱色の寒空が広がっている。
ボンヤリ考えていると庭の何処かでバサバサッと羽音のようなものが聞こえた。
音がする方に顔を向けると、前方奥の鮮やかな緋色の花をつける寒木瓜の木に、一羽のヒヨドリが
止まっていた。
「わあ、珍しい! こんな都心にヒヨドリが見られるなんて」
晴美も同じくヒヨドリに気付き、思わず感嘆の声をあげる。
「その鳥 珍しいの?」
「別に珍しくはないけれど立派な野鳥よ。
アキラくんの家の庭は広くて木も多いから鳥が集まりやすいのね」
「・・・・・・ふーん」
晴美は洗濯物を干し終えると再び邸宅に上がり、台所に向かった。そして お盆に緑茶と
ヨーグルトを乗せ軒先に座っているアキラの元に運ぶ。
「今から お雑炊作るけど少し時間かかるから、それまでの間お茶していて」
「市河さん ありがとう」
「どういたしまして」
落ち着いたアキラの様子に安堵し、晴美は台所に戻っていく。アキラは熱い緑茶を飲み、
ヨーグルトを食べながら、緋色の寒木瓜の枝に羽を休めるヒヨドリをしばらく眺めていた。
ヒヨドリは くちばしで体を繕い終えると、翼を広げ再び大空へと羽ばたく。
アキラは飛んでいくヒヨドリの姿を目で追った。
(34)
──大空に飛んでいくあの鳥・・・なぜか進藤の姿と重なる・・・・・。ボクは幼い頃から厳しい勝負の世界
に生きるお父さんの背中を見て育った。また同時に他の棋士達の生き様も見てきた。
病に身を冒されながらも対局を優先して命を縮めた棋士や、自分の碁に疑問を抱き、新しい棋風を
築こうとして失敗し落ちぶれていく棋士。いろんな人達を この目で見てきた。
もともと生まれ持った性分もあるかも知れないけど、過酷な世界を見続けてきたボクは、碁にも
生きる事も全て辛辣に考え込んでしまう傾向がある。
それに比べて進藤は ただ ひたすら碁を打つことに何よりも喜びを感じ身を投じている。
明るく真っ直ぐ前だけを見て、何事にも恐れずに突き進む強さに・・・男とか女とか関係なく、
そんな進藤自身にボクは強く惹かれ、目が離せないのかも知れない・・・・・。
空に溶け込むように姿が遠くなっていくヒヨドリをアキラは自分の視界から消えるまで見送った。
陽の光がさんさん降り注ぐ庭に軽風がそよぐ。ザワザワと木々の葉擦れる音が辺りを包み、
地に淡い影を落とす木陰が揺れた。
晴美は出来立ての雑炊を居間のテーブルに置いた。そしてアキラを呼びに奥の廊下から顔を出すが、
軒先に座るアキラの寂寞とした横顔に何か近寄り難いものを感じ取り、喉から出かかった言葉を
飲み込んだ。
──・・・・アキラくん・・・・・・何か深刻な悩みがあるのかしら・・・・・?
体は そこに存在するが、心は何処かへ置き忘れている―――。
そんなアキラの様子に晴美は とても声を掛けられなく、しばらく廊下に佇む。
ふとアキラは人の気配を感じて廊下に視線を移すと、廊下の奥に晴美が立っている姿が目に入る。
「あっ、市河さん」
「・・・・・・・お雑炊できたわよ。食べれそう?」
「うん、食べるよ。早く体調を戻さないとね」
顔から翳りを消してアキラは、精一杯の笑顔を晴美に向けた。
(35)
アキラは火・水曜日の二日間を療養に当てた。医者からは過労が原因と診断を受け、碁は打たずに
渋々大人しく布団に横になる。2才で碁を覚えてからの15年間、碁盤の前に座り、碁石に触れな
いという日は無かった。たった二日間だが、アキラには気が遠くなるような長い期間に感じる。
療養中の間 晴美は碁会所閉店後、アキラの夕食作りに邸宅に訪れた。
さすがにこれ以上迷惑はかけられないとアキラは一度丁重に断ったが、結局は晴美の好意に甘えた。
自分の事をいつも気にかけてくれる晴美の存在をアキラは嬉しく感じている。アキラにとって
晴美は、気心知れた数少ない自分の理解者でもある。
本音を言えば自分で食事を作る気力は無かったので、晴美の申し入れはとても有り難かった。
水曜日の夜、晴美は邸宅居間のテーブルで骨董の湯飲み二つに ほうじ茶を注いでいる。
晴美の向かい側にはパジャマ姿のアキラが座り、湯気のたっている鍋焼きうどんに箸を動かして
いる。
一昨日、晴美は邸宅の台所に足を踏み入れて心底驚いた。食器棚には、いかにも高価そうな骨董
食器の数々がズラッと並んでいる。骨董食器は明子の趣味で、それらはごく当たり前のように食卓
に料理を盛る皿として使われるとアキラに聞かされた。
今、お茶を注いでいる湯飲みは、光沢ある白陶器の下地に紺の鮮やかな鯉の絵柄模様。そしてその
絵柄模様の周りに、金の装飾が施されてある。骨董に疎い晴美でも、いい品であるのは理解出来た。
──コ、コ、コレッ 値段いくらするのかしらぁあ!?
私の一ヶ月分のお給料より、た・・・高そうっ・・・・・・!!
内心、冷や冷やしながら晴美はお茶の入った湯飲みの一つをアキラの方に、もう一つを自分の手元
に置く。
「アキラくん、具合はどう?」
「もう大丈夫だよ。明日の木曜日の手合いにも行くつもりだし」
アキラは晴美が驚くほど高価な食器で平然と食事をし、骨董の湯飲みを普通に手にしながら話す。
その自然で優雅な様に晴美はついボーと見とれてしまい、手に持ったお茶を零し、アチチと慌てる。
木曜日は七段以上が集まる高段者手合い日で、かなり前からアキラは この日の常連になっている。
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