盤上の月 41 - 45
(41)
真夜中、アキラの閉じていた瞼が いきなりパチッと開き、宙を見る。
霞む目を擦りながら布団から手を出して、枕元の目覚まし時計を見ると、針は まだ2時を過ぎ
たばかりだった。辺りはまだ暗い。体は疲れているはずなのに頭が冴えているらしく、一向に眠り
は訪れない。
しばらくするとアキラの胸中に いろんな事が絶えず思い浮かんでは消えていく。
こうなると もうなかなか寝付けない。
仕方なくアキラは頭に盤面を思い浮かべ、いろんな一手の模索を始めた。
だがその時、その流れを遮るように いきなりヒカルの姿が鮮明に浮かび上がる。途端、アキラの
心は ひどく動揺し、頭の中で展開していた棋譜は、瞬時に消え去った。
ヒカルの事を想えば想うほど、どうしようもない切なさが、胸をキリキリと締め付ける。
──碁は努力したら、それだけ自分の力となって棋力が身に付くのを感じる。だが、この分野だけは
それが通用しない。努力したからといって決して報われる訳でもない。なのに どうして自分は
そんな感情に振り回されているのだろうか・・・・・・。
碁は独りでは成り立たない。碁盤の前に二人の人間が揃い、その者達の魂と魂とのぶつかり合いで
創り上げていく陰陽の系譜・・・・・・ それが碁だとアキラは思っている。
神の領域に踏み入る遥かなる高み。究極の一手の極み。
地道な一手・一手の追求が やがて「神の一手」に近付く。その世界に生涯携わる事が何よりも
至福だとアキラは思っていた。
自分の魂の全てを碁に捧げる事に何も疑いを持たなかった。
ヒカルと出会うまでは―――。
ヒカルと出会ってから その考えは一変し、アキラの中に碁以外の関心が湧いた。
魂の奥から揺さぶりをかけるように、ふつふつと湧き上がる想いがアキラの心を占めつくす。
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「神の一手」を極めたいというアキラの感情を例えるなら、それは炎に値するような激情。
その炎の色は、アキラ自身の瞳奥に潜み蠢く鮮烈な青。それらは お互いを引き寄せ呼び合い、
重なるように共鳴する。
今までは自分を客観的に見据える理性が激情を静め、冷静さを保つ水のような役割を担っていた。
しかし、アキラの中に新しく芽生えた感情の前に理性は刃が絶たなく、灼熱と燃え盛る炎の前に
蒸発し、姿を留める事が出来ない。
理性や常識という枠組みで激情を冷やすには、もうすでに不可能になっていた。
アキラのヒカルに対する想いや、「神の一手」を究めたいと願いは、激しく燃え盛る炎のような
感情でもある。これまでアキラは いつも一つの炎を身に秘めていた。その炎を心に保つ事が
精一杯だった。なのに、また新たにもう一つの炎を心に生み出し、身に宿そうとする。
アキラには一つの炎を制する事は出来ても、二つは難し過ぎた。
それは体に収まりきらなく、外へと溢れ出す。
ヒカルへの想いと「神の一手」の二つの炎に似た激情は、一つに混じり合い熱を増して、より過激
に荒々しく燃え盛る狂炎と化し、アキラを覆いつくす。狂気を含んだ炎は、ゴオオオと音を立てて、
アキラの全てを焼き尽くそうとする。
アキラは悶え苦しみ、布団の中で のた打ち回る。
何故、自分はこんな目に遭うのだろうと思うが、それは誰のせいでもなく、狂気の炎は自分自身が
生み出したという事実を前に、その自問は空虚となる。
息は絶え絶えとなって詰まり、思考は途絶え、常にヒカルの姿が脳裏に漂う。動悸は激しくなり、
自分の想いは報われる事は決して無いという虚無感に苛まれ、心は闇に同化しようとする。
あまりの苦しみに耐えられなくなり胸を両手で押さえ、堪らず布団から畳の上に這い出る。
すると、アキラの目に何か白く光る物が飛び込んできた。
その柔らかく白い光は、何処か荒れ狂う心を静めてくれるような気がして、それは何かとアキラは
必死に目を凝らす。アキラの彷徨う視線は、障子の隙間から差し込む月の光に さらされる碁盤に
止まった。
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暗闇の中、月の柔らかな淡い光に照らされ、盤上を青白く反射している碁盤
その光景は、神々しく幻想的でもあり、厳粛的──。
アキラの心は、そのように捉えた。
アキラは重い体を起こして、引き寄せられるかのように碁盤の元まで ふらつきながら歩く。
そして震える手で障子を開けると、ガラス窓の向こうには、群青色の夜空に白く淡い光を纏う満月
が見える。
障子を全開して月の光を部屋に招き、碁盤の前に正座する。
すると、自分を激しく包んでいた激情の炎が少しずつ遠ざかって、火が小さくなっていくのを
感じた。絶え絶えになっていた息は、だんだんと落ち着き、呼吸は一定のリズムに戻る。
棋士にとって盤上は神聖な場=B
呼吸が元に戻ると同時に、全身がピシッと引き締まる。
アキラは盤上から碁笥を下ろして自分の膝元に寄せる。そして蓋を開け、白と黒の碁石を大事に
一つずつかみ盤上に打った。
碁盤の四角い形は地を象(かたど)り、盤上の線(路)は地上の時の移ろいを表す。
碁石は天空を象り、白と黒の色は陰陽(昼と夜)を表す。盤上に白と黒の碁石を置くと、そこには
広大な宇宙が展開する。
じっと盤上を眺めるアキラに陽を表す白の碁石は、明るくて屈託の無いヒカルを連想させた。月光
を浴びる白石は、闇の中でほのかに浮かび上がり、その穢れの無い白さがアキラの目に眩しく映る。
アキラは続けて碁を打ち続けた。次第に炎は下火になり、心奥底で静かに眠りについた。
でも、またいつか再び燃え盛る時が来るかも知れない・・・アキラは密かに恐れた。自分が生み
出した炎に真正面から向き合う時が、必然的にこの先訪れるであろうとも感じた。
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そして、碁を打ちながら「妄優清楽」という囲碁を指す古い言葉が、アキラの頭をかすむ。
その言葉は、憂いを忘れ清楽するものは囲碁であるという意味がある。まさに今の自分に それに
当てはまるとアキラは思った。
──碁を打つときにだけ、どんな悩みや苦しみも一時忘れられる。そして碁盤に立ち向かわないと
正気を保つ事が出来ない自分が生きる場所は、この盤上にしかないのかも知れない・・・・・・。
ふと碁を打つ手が止まり、アキラは手に持っていた碁石を碁笥に戻す。
その途端、アキラは自分を自嘲するような渇いた含み笑いを、クックッと口元から洩らす。
そして しばらくの間、アキラは目を閉じる。
部屋にはコツコツと時計の音が低く響く。アキラの心に関係なく刻は、朝を迎えるために
止まらないで絶えず進み続ける。
どれほどの時間が流れたのか。
アキラは再び目を開けた。アキラの目には淡い光が浮かび、表情は次第に冷静さを取り戻しつつ
ある。また急に寒さを感じブルッと体が震え、白い息を吐きながら慌てて厚手のカーディガンを
着る。
その瞳には、自分をあざ笑う色合いは消え、代わりに憂いと悲哀の色彩に染まる。
改めてアキラは、碁盤に視線を定めた。
だが盤面を見ていると、目頭がすぐ熱くなり、碁盤の形がユラユラと歪み出す。正視出来なく
なり、堪らず目を伏せ、膝に置く拳に力が入る。アキラは大きく深呼吸をする。
何回か それを繰り返し肩の力を抜く。再び盤上を見つめ、両手で愛しげに そっと軽く撫でる。
そして月光に反射している盤上に、アキラは自分の額を軽く押し当てた。
満月の柔らかく清らかな青白い光は、碁盤とアキラを包み込むように、優しく静かに照らし続けた。
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人の心に どんな思惑が渦巻いても、無情に刻は動く。月は夜と共に地平線の下に沈み、代わりに
太陽が明け方の空に現れ、雲を淡い紺紫色にする。
陽が上がった事で、アキラの部屋に朝の日差しが訪れ、翳りは消えて光が辺りに溢れ広がる。
アキラは盤上に うつ伏せになった状態で眠り込んでしまった。
朝日の力強い光がアキラの顔に差し込み、その眩しさでアキラは目が覚める。碁盤から ゆっくり
体を起こし、ガラス窓を開けると、朝の張りつめた冷気が顔に当たり心地良い。
また新たに一日が始まる。
アキラは軽く目を瞑り、小さく息を吐いた。
次の日曜日、アキラはヒカルと約束していたどうりに碁会所に来ていた。
結局、ヒカルからは電話が来なく、この日が研究会だという最終確認も取れなかった。
だからなのか、指定の時刻になってもヒカルは一向に姿を見せない。晴美も遅いわねと
気がかりな様子をみせる。
やはり、きちんと確認しなければならなかったのかとアキラは落胆する。
ちょうど その時、「あら、いらっしゃい進藤くん。アキラくんがお待ちかねよ」と言う
晴美の声が聞こえた。
入り口の方へ顔を向けると そこにはヒカルが立っている。
晴美はヒカルと話している最中、チラッとアキラの方に視線を向けた。アキラはヒカルが来た事に
ホッとしている様子が見え、つい微笑む。
ヒカルは晴美に荷物を預けると、やや間を置きながら ようやくアキラのいる席の方へ足を向ける。
「進藤、遅かったじゃないか? ボクはキミの家に何度も電話をしたんだけど、
いつもキミはいなくて。この前は体調を崩してキミに迷惑をかけてしまって本当にすまなかった」
ヒカルはアキラの問いには答えないで、気難しい表情をしている。何処となく顔は青ざめて活気が
なく、また少しやつれているようにも感じた。
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