盤上の月 46 - 50
(46)
盤上の月(46)
「どうしたんだ進藤、どこか具合でも悪いのか?」
話しかけるアキラをヒカルは、ただ ジッと黙っている。
「進藤?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・お前、覚えてないのか?」
小さな声でヒカルはボソッと言う。
「えっ? 進藤、聞こえない」
「・・・あの時のこと・・・・・・、お前は覚えていないのかって聞いたんだよっ!?」
語気を荒げてヒカルはアキラを問い詰めるかのように怒鳴った。
ヒカルの大声で、店内の客や晴美は何事かと一斉にアキラとヒカルの方に目を向け、視点はヒカル
に集中する。晴美は、北島がいない日で良かったと思う反面、ヒカルの態度に驚愕する。
「あの時のことって いったい何のことだ?」
アキラはヒカルが自分に対して何故怒りをぶつけてくるのか訳が分からなく、ムッとして表情が
険しくなる。
そんなアキラの様子を目にして、ヒカルは表情が真っ青になり、唇をぎゅっと噛みしめた。
体は小刻みに震え出し、両手は拳を強く握り締めた。
「──もういいっ!!」
一瞬酷く表情を歪ませ、ふて腐れてヒカルはドカッと慌しく席に着いた。ヒカルに つられるよう
にアキラも席に着く。
「・・・・・・・今日は対局をしようぜ・・・・・・」
「分かった。じゃあ、ボクが石を握ろう」
アキラ黒石、ヒカルは白石で対局を始めた。いつもなら二人で打ちながらケンカ口調になるが、
今日はパチパチという碁石の打つ音しか聞こえない。受付台にいる晴美も、店内の他の客達も
珍しい事があるものだと目を白黒し、息を潜めて事の成り行きを見守っている。
碁は打つ者の心の内面を確実に表し示す鏡でもある。今日のヒカルの石の流れは、やけに殺伐と
していて荒い印象をアキラは受けた。
しかし、それでも確実に急所を狙ってくるのは やはり流石とも感じる。
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序盤から中盤に差し掛かる時、ヒカルは目を見張るような一手を放った。
その途端、アキラの目は大きく見開き、盤上に釘付けになる。ヒカルの その一手は、悠久の刻を
感じさせる奥深さがあり、アキラの心を強烈に震撼させる。
そして、背筋がゾクゾクとし、鼓動が高まり闘争心が猛烈に湧き上がった。
──本当に進藤には いつも驚かせられる!
キミはボクの望む以上の碁を展開させてくる。やはり生涯を掛けて共に「神の一手」を目指して
いける人物はキミ以外に他はいない!
こんな碁を知ってしまったら、もう他の者なんて目じゃない。
あくまでも進藤はボクにとってライバルだっ!!
アキラはヒカルに出会えた事を ある者に深く感謝した。
ある者―――言うなれば、それは碁神に。
ヒカルの放つ一手は、アキラの それまでの碁を根底から覆し、新しい視野が一気に広がる。
碁の極意を究める事が、何よりもアキラの魂を満たし、光の海を漂うような恍惚感を味わせて
くれる。
──この快感を一度でも心身に深く体感してしまったら、この世の どんな快楽も目に入らない・・・。
結局、ボクも進藤も死ぬまで碁から離れることは出来ないんだ。ボクと進藤は、碁を通して何処
までも続いている。
進藤の碁に対する姿勢は、ボク自身そのものを投影しているとも言える。碁に対しての思い入れは、
進藤はボクの『写し鏡』であり、お互い相手の心が まるで自分のことのように手に取るように
理解できる。
・・・・・・でもそれは、碁に対してだけだ。
アキラの脳裏にフッと いつかの情景が・・・、雪の中 ヒカルにキスした時の事が甦る。
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──ボクは もしかして間違ったことをしているのではないのだろうか。
進藤に碁以外のことを求めるのは、それは共に「神の一手」を究めることの妨げになるんじゃない
だろうか・・・・・・。
ボクは ずっと独りだった。
小さい頃から対等に対局出来る人は、お父さんと その門下生の人達ぐらいだった。
独りで碁を打つことが多かった。そのような状況がボクは当たり前だと、また ずっと続くもの
だと思っていた。
そんな時、ボクの目の前に進藤が現れて、ボクの棋力を遥かに上回る力を見せ付けた。
古い定石だったが、その碁は まるで本因坊秀策の再来を思わせるものだった。
自分の目の前に展開される碁に、ボクは ただ心底驚き、そして自分の力の無さを実感した。
そして何より驚いたのは、彼は一度も対局したことが無いということだった。
ボクは そんなことがあるはずがないと激しく思った。どんなに辛くても必死に毎日鍛錬した
結果、今の自分がいるのに、彼は そのようなことは経験なく あれだけの碁を打った。
彼の存在は、碁は日々鍛錬というボクの考えを全て否定した。
その時からボクは他人に強い関心を持った。生まれて初めてのことだった。
一時期は彼の碁に失望した。だが気付くと進藤はボクの すぐ後ろまで追ってきた。
正直、嬉しかった。同じ道を目指す者が、力が同等な者が この世に存在するという事実に。
進藤という一人の棋士に出会えたことは、ボクにとって幸せだと思う。
このまま進藤と一緒に碁を打てば、必ずお互いの棋力を高めあう関係を築ける。
・・・・・・進藤に それ以上のことは望むまい、
ボクは それで・・・・・・充分だ・・・・・。
アキラはヒカルに対しての想いを、自分の心の奥に閉じ込めようとした。
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対局は終了した。
アキラの5目半勝ちだった。ヒカルはジッと盤上に視点を落としていて動かない。
いつもは憎まれ口の一つや二つを言うのが当たり前なのに、今日は ただ静かに黙っている。
明らかにヒカルの様子が普段と違う事にアキラは不思議に思った。
「進藤、いったい今日は どうしたんだ?
いつものキミらしくないし。何かあったのか?」
その時、ヒカルは今日初めてアキラの目を真正面から見据えた。ヒカルの目は、何処か強い怒りを
含んでいるようにアキラは感じた。
何故そのような目で自分がヒカルに見られるのか、アキラは まったく分からない。
「──塔矢、お前に話があるんだ」
「話?」
ヒカルは店内を気難しい表情で見回す。
「ここではできない・・・・。外へ行かないか・・・?」
「・・・それは別にかまわないが・・・・・・」
ヒカルが何を考えているかアキラには全然理解出来ない。分かる事といえば、今のヒカルは
何らかの事に強く動揺しているという事。それは今の盤上の一局で分かる。
何かに酷く心揺れているような、少し不安定で危なげな石の流れ。迷いの手の数々。
明朗活発な いつものヒカルの碁らしくない。
アキラとヒカルが碁会所を出た途端、店内がザワザワと騒然になる。常連の客達は、いったい何が
起こったのかと次々と話し始める。今までの二人のやり取りをよく知る常連客の一人である広瀬は
困惑した表情を晴美に向けた。
「市河さん 今日の進藤くん、なんか様子がおかしかったね。それに終局まで対局中にあの2人が
一言も口を聞かなかったことってなかったよね?」
「ええ、そうよねぇ・・・」
何が起こったのか晴美には分からない。晴美の胸に、何かこれから大変な事になるのでは
ないか・・・・・・という一種の胸騒ぎがした。
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アキラとヒカルは、碁会所を出て近くの大きな公園に行き、噴水前のベンチに座る。
空は晴れ渡り透き通るような青空が広がり、噴水の水の粒は光に反射してキラキラと白銀に輝く。
柔らかな日曜日の午後がゆっくり流れる中、二人の間には張りつめた空気が辺りを包む。
ヒカルは一向に話し出す気配を感じさせなく、ただ黙って眼前の噴水をジッと見ている。
時間だけが流れて らちが明かないので、アキラから話をきり出す。
「進藤、話とは何だ? 黙っていても何も分からないだろ」
「・・・・・・・・・」
ヒカルは無言でアキラの方を見た。
「──お前、本当に何も覚えていないのか?」
「またそれか。いったい何のことだ?」
ヒカルは また黙ってアキラの顔をじっと睨むように見る。最初 ヒカルの表情は怒りに満ちて
いた。が、次第に目には悲しみの色を帯び、徐々に悲痛な表情に変わっていく。
──対局では何食わぬ澄ました顔をして碁を打つ。でも この前は目をギラギラさせて欲情し、
オレに抱かれようとする・・・・・・。
いったいどっちが お前の本当の姿なんだっ!?
普段は穢れなど一切知らない清廉潔白な印象で、威厳ある雰囲気を纏うアキラ。
でも、熱を持ち濡れた蠱惑的な瞳でヒカルを見つめ、白い肌を惜しげなく全てヒカルに預けようと
するアキラ。どちらも塔矢アキラという人物の持ち合わせている一面である事に、ヒカルは
恐ろしくなる。
どんな人間にも表の顔と裏の顔の二面性があるのは、ヒカルにも理解できる。もう何も知らない
無垢で幼い子供ではない。厳しい勝負の世界に生きる事を定めた人間でもある。
だが、アキラは強烈な光と闇を持つ。それらが深く交じり合い混沌とする性質を ごく当然に最初
からそこにあるかのようにアキラの中に存在している。それは あまりにも自分とは違う異質な
ものだとヒカルは感じる。
ヒカルはアキラの顔から自分の足元に視線を移し、左右に頭を振る。そして目を瞑った。
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