盤上の月 52


(52)
あっという間にヒカルの姿は遠くなり、アキラの視野から見えなくなった。
結局、ヒカルが何に対して怒っているのか、アキラは分かっていない。ヒカルがいなくなった
ベンチの周りには、一際 噴水の水音が大きくアキラの耳に響く。
「これで・・・・・・・良かったんだよ・・・・」
アキラは消え入るような小さな声で言う。自分に言い聞かせるように。
でも その言葉は、水粒の激しく落ちる水音に かき消された。


アキラは邸宅に戻り、鍵を玄関の鍵穴に差し込んだが、すでに鍵が開いていた。
「あっ、そうか・・・」
今日は両親が韓国から帰国する日だった事をアキラは忘れていた。玄関の戸を開け、居間に足を
運ぶと、そこには土産物を整理する明子の姿が目に入った。
「お母さん、お帰りなさい」
「あらアキラさん、留守番ご苦労様。何処に行ってらしたの?
あなたに御土産を買ってきているのよ」
「ありがとう。碁会所に行ってたんだ」
「まあ、お休みくらいゆっくりすればいいのに。お菓子もあるから、お茶でも入れましょうか?」
「うん。でも先に お父さんのところに挨拶してくるよ」
「分かったわ」
行洋は、時間さえあれば碁石に触れ、碁を打っている。明子は結婚当初、行洋という一人の棋士の
碁に対する真剣で根の詰めた姿勢に驚いた。だが、それだけ心身に打ち込まないとタイトルを狙う
のは難しいというのを他の棋士の妻に聞いた事があり、それを受け入れた。引退をした後も行洋の
その習性は変わらない。
それどころか、引退をした後のほうが碁により深く追求しているようにも見えた。
明子はアキラの後ろ姿を見て、つくづく父親そっくりの気性を受け継いだものだと、軽い溜息を
ついた。



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