盤上の月 6 - 10


(6)
1月上旬、東京・赤坂の老舗料亭で塔矢門下の新年会が行われた。
大きな和室を一部屋貸し切り、上座に行洋を順に その右脇に緒方、左脇にアキラが座り、
緒方・アキラの横一列には その他の門下生が席に着いていた。
アキラはプロになった年から この新年会に出席していた。
宴会に酒が入り門下生達はリラックスし正座を崩して席を離れ、それぞれが好きなように
くつろいでいた。
緒方や数人の門下生は行洋のところで酒を酌み交わし雑談していた。
「お〜いアキラ、盛り上がってるか〜い?」と他の門下生達と酒を飲んでいた芦原が
軽い千鳥足でアキラの方に行き話しかけた。
落ち着いた性格の多い塔矢門下生の中で一際明るく楽観的な芦原はアキラと気が合い
仲が良かった。
「もう酔っちゃったんですか 芦原さんは。」と料亭の料理に箸を動かしながらアキラは答えた。
「な〜に言ってんだよ! これからだよ盛り上がるのはっ!!」と顔を少し赤らめながら
上機嫌で芦原は話し続ける。
これは かなり酔っているなあ・・・とアキラは笑いながら少し困った表情をした。
「なんだ芦原、もう酔ったのか? だらしないな。」と緒方が手に熱燗の徳利を持ち
2人のところへ来た。
「ホラ、まだいけるだろ?」と芦原の手にしている お猪口に熱燗の酒を注いだ。
「うわぁ、すみません! 戴きますっ!!」と芦原は恐縮して それを受け、
変わりに緒方に酒を注いだ。
緒方は芦原が注いだ酒を飲みながらアキラに訪ねた。
「アキラくんは酒 いけるほうだったかな。ああ そうだ、まだ未成年だったか。」
「飲めなくはないんですが、やっぱり まだボクは15歳ですから。」とアキラは断ろうした。
そのやり取りを ちょうど目にしていた行洋が、
「アキラ、お前は一人前のプロ棋士なのだから少し戴きなさい。今日ぐらいは いいだろう。」と
口を緩めて言った。
いつも厳しい表情を見せる行洋も今日ばかりは肩の力を抜いて宴会を楽しんでいた。


(7)
引退してからの行洋は力を抜いた自然体で過ごしているようで、そして以前よりいっそう碁に
全身全霊を傾けている感さえあり、威厳がまた増したとアキラは感じた。
「お父さんが そう言うならば戴きます。あと緒方さん すみませんがボクは
熱燗ちょっと苦手なんです。」
「そうか、じゃあ何なら飲めるんだい?」
「冷酒なら好きです。たまに お父さんの晩酌に付き合うことがありますから。
じゃあ神亀酒造の“ひこ孫『純米』三年原酒”があれば それを戴きたいなあ。」と
アキラはニッコリ微笑んだ。
それを聞いた緒方と芦原は思わず互いに目を合わせ、芦原はピューと口笛を吹き、
緒方は「こりゃ、大物になるな。」と苦笑した。
仲居が運んできた冷酒をアキラは ごく自然に飲んでいるのを見て芦原もどれどれと味見をした。
「うっ コレかなりキッツイぞ アキラ! おまえなあ、味覚ぐらい子供らしくしろよっ!!」と芦原は目を白黒し水を飲んだ。
「そんなにキツイですか? ボクは ちょうどいいけど・・・。」とアキラは不思議そうに言った。
「なんか口直しに食わなきゃキツイなあ。」と顔をしかめながら芦原は部屋を出入りしている仲居に向かって、
「あのーすみません、なんか甘い物とかありますかあ?」と聞いた。
「甘いものでしたら、葛きり・あんみつ・和風パフェがございます。」
「じゃあ、和風パフェ下さぁ〜い!」と芦原が満面な笑みを浮かべて言った。
それを聞いたアキラと緒方はドッと笑い出した。
「おまえパフェはないだろ、パフェはっ!」と緒方は腹を抱えてククッと笑いが止まらない。
「えー、そんなにおかしいですか? オレ結構店で頼むんですけど。」
「おまえ 女とうまくいかない事が多いってよくボヤくが、もしかして そういう幼稚なところが原因じゃないのか?」
「えー、そうですかねぇ。」と ひどく困惑した表情をする芦原を見てアキラは また噴出した。


(8)
「そんなにオカシイか アキラ?」と真剣な顔で聞く芦原に必死に笑いをこらえて
「そんなことないですよ ボクも甘い物嫌いじゃないし。
じゃあボクは あんみつを頼もうかな?」と芦原を さりげなくフォローした。
「おい芦原、おまえアキラくんに気を使われるようじゃ まだまだだな。」と緒方は笑いながら
熱燗の酒を自分で注いで飲み、またアキラも再び冷酒を飲んだ。
その横では芦原は口直しで料理に箸を動かしていた。
今まで柔らかかった緒方の目線がフッと厳しくなり、それはアキラに向けられた。
「・・アキラくんも もう15歳か・・・。早いものだなあ、俺も年を取るはずだ。
キミを見ていると碁というのは努力は もちろんだが、才能というのがいかに大事かと
思い知らされるな。」
「緒方さん・・・?」
「キミが本因坊リーグに順調に勝ち上がっていくと、近くに俺と対局があるのを知っているだろ?
一柳先生を破ったキミだが、そうそう世の中は うまくいかないものだ。
才能と努力だけでは勝てない事を身をもって知る事だな。」
緒方は目を細め、一段と強い視線をアキラに浴びせた。
「・・・望むところです。」
アキラは眼光を一瞬強めて、緒方の視線に堂々と真正面で受けた。
2人の間に冷たく緊迫した空気が流れ、未来の対局に向けて緒方とアキラの間で、
盤上外での戦いが密かに始まった。
「それでこそ 待ち続けた甲斐があるもんだ。」とアキラの態度を見て緒方は笑みを浮かべ、、
グッと酒を胃に流し込んだ。
「ホラホラ、そこの2人! 今日ぐらいは碁の事は忘れてパーとやらなくちゃっ。」と
芦原が異変に気付いて2人の間に入り、不穏な雰囲気を和らげた。
ちょうど そこへ仲居が和風パフェとあんみつを運んできた。


(9)
「おっ、来たぞっ!」と嬉しそうにパフェを手に取る芦原を見て、アキラは一瞬芦原の姿が
ヒカルと重なり顔が ほころんだ。
進藤も きっとこういう甘い物は好きなんだろうなと、あんみつを食べながら思った。
その様子を見ながら緒方は、
―――この前まで ほんの子供だったのに、あっという間にオレの地位を脅かす存在になったか。
まったく碁というものは年齢は一切関係ないものだな。
結果が全てで勝利しないと それまでの努力は水泡と化す。まったく残酷な世界だ。
だが その限りない無常さに堪らなく惹かれ、そのような生死の極限状況に立たされないと
生きている実感が湧かないオレにとっては しっくり来る世界だ―――と心の中で呟いた。

人は人生の指針に対して おおまかに約二通り存在する。
一つは波風の立たない平凡な生活の中に ささやかな幸せを見い出す生き方。
もう一つは平穏な生活では満足出来なく、戦いの中に身を投じ喜びを感じる生き方。
間違いなく緒方は後者の生き方を選ぶ人間である。
緒方は勝負の世界に身を置いて いろんなものを見てきた。
そして この世で一番恐ろしいのは『人間』だと思っている。
本番前は 穏やかな人間が対局中で鬼や修羅と化し、勝利のために全てを奉げて
命を削る様の一部始終を この目で何度も目撃し体験してきた。
死に物狂いの人間ほど、世の中に怖いものは無い。
若年の時 そんな猛者達と戦い始めた時は、緒方も精神的にかなり追い詰められた経験がある。
何とか勝利を もぎ取ろうとする人間の底のしれない執念の凄まじさに恐れをなし
躊躇した時もあった。
そのような世界に長年身を置くと人間の本質とは何だろうかと考える事が多くなる。
棋士は皆『修羅』だと緒方は思っている。
それは緒方自身で見い出した独特の哲学だった。


(10)
人間の中にある闘争心を極限まで引き出し、対局中に それを一気に盤上に叩きつける。
盤上では人の情も一切関係なく、生死を賭けた戦いを仕掛けて蹴散らし合う。
負けた者は地に這いつくばり、連敗者は奈落の底へ何処までも落ちていき、勝利をつかむまで
光が射す事は無い。
そんな世界へ身を置く者を『修羅』と呼ぶ以外に何があろうか。
緒方は 何気に宴会に出席している棋士達を一望した。
今は笑いを浮かべているが、戦いが始まると普段の顔の上に『修羅』の面を被る。
碁盤を前にして碁石を武器に戦いに身を投じる『修羅』が本来の姿であり、
今は仮の姿であるとも思った。
―――フッ、今宵は『修羅』どもの宴か。塔矢先生は『修羅』と言うより『鬼神』と呼ぶのが
ふさわしいだろうな・・・そして・・・。
緒方の視線はアキラに移った。
あれは この中で一番油断の出来ない『修羅』だ。
いや修羅なんて まだ可愛いほうだな、怪物だな あれは。
多分 一番化ける可能性のあるヤツだ。いったい何処まで変貌するのか―――。

外見は品のある綺麗な顔立ちで柔らかい印象を持つアキラだが、その容貌とは裏腹に
誰よりも勝利に対して凄まじい執念を持ち、碁の追求に一切の妥協をせず向き合う辛辣さを
内に秘めている。
そして自ら進んで百選練磨の強豪の中に突き進んで行くという炎のような激しい性を
持ち合わせているのを緒方は よく知っている。
アキラほど外見と中身が一致しなく、かけ離れた人間は そうはいない。
今 緒方の目前に映るアキラは あんみつを食べるあどけない表情の15歳の少年だった。
「・・・人間、外見で物事を判断してはいけないという典型的見本だな。」と
アキラを眺めて緒方は言った。
「何か言いましたか 緒方さん?」とアキラが訪ねると、
「いや、何でもない。ただの独り言さ。」とアキラに向かって微笑み、背広の内ポケットから
タバコを出した。



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