マッサージ妄想 6 - 10


(6)
慌ててギュッと目を閉じた社だったが、視覚が遮断されるとかすれたような甘い声と乱れた吐息、
アキラが枕に顔を擦り付ける音だけが聞こえ、今が単なるマッサージ中だということを忘れそうになる。
「んっう、あっ、・・・・・・はぁっ、・・・やっ、痛い・・・あんっ・・・あっ、・・・・・・んんー・・・・・・っ」
(塔矢、オレを殺す気かー!)
その時社の脳裏には何故か薄墨色の袈裟をまとった修行僧が百人ほど列をなし、寄せては返す大波の
ような深々とした声で意味不明のお経を唱えていた。よく聞くとそれは「心頭ー滅却すーれーばー
火ーもーまーたーすーずーしー」と唱えているようだったが、その合間合間に悩ましく響くアキラの声の前では
心頭滅却どころか煩悩がムクムクと猛スピードで膨れ上がるばかりである。
(耐えろ、耐えるんやオレ!これは自分との闘いやー!)
社の頭の中で、己という敵との試合開始のゴングが鳴った。

両足の裏のツボ押しマッサージを全て完了する頃には、心の鼻血は既に血の海を作り社はその中で
真っ白な灰となっていた。
「凄い、だいぶ足が軽くなった気がするよ。ありがとう社」
「そら・・・・・・良かった・・・・・・はは・・・・・・」
「あれっ?なんだか疲れてない?大変だったらもういいよ、随分楽になったし」
「あ?あーもう何をゆーとんのや!ここまでやったら最後までやらな、こっちの気が済まんわ。お客さんは
なーんも考えんとリラックスしとってくれたらええんや」
「そう?じゃあお任せするよ」
嬉しそうに微笑まれると弱い。
再び枕を抱え直したアキラの足元から少し右脇へと移動する。


(7)
(あ〜、ええ眺めや・・・・・・)
自然と口元が緩むのを抑えることができない。
大きく裾が割れたままの浴衣からすんなりと伸びたアキラの脚は疵一つなく、磨き抜かれた玉のように
つややかな白さで社の目を楽しませる。
(綺麗やなあ・・・・・・こんな綺麗な脚がこの世に存在してええのやろか・・・・・・なんや触り心地も気持ちええなあ・・・・・・)
二人が風呂から上がってかなりの時間が経っている。
体温の下がってきたアキラの脚はマッサージのために熱の籠った社の手よりも幾分ひんやりとして、
肌理の細かいその表面は思わず頬擦りしたくなるほど滑らかだった。
先ほどの喘ぎ声によって呼び覚まされた煩悩はまだ社の中でブスブスと音を立て燻っていたが、
日頃は何かと尊大で手強い印象のアキラが今こうしてしどけない姿で無防備に横たわり、安心しきったように
自分に脚を預けているという状況はそれはそれで美味しいような気がして、この綺麗な脚の持ち主に
獣のごとくむしゃぶりついて襲い掛かりたい衝動と、この穏やかで信頼に満ちた一時を少しでも長く
守りたい気持ちとがせめぎ合っていた。
ただ頭の中をどれだけの妄想が駆け巡ろうと、アキラの側から誘われない限り行為を強要するつもりは社にはなかった。
アキラが自分と出会う以前から複数の男と関係を持っていることは知っている。だがそんなアキラを
取り巻く男たちの中で彼の信頼を最も受けているのは自分だという自負があった。
アキラを抱き、乱れさせることが出来る男はたくさんいても、こんな風にアキラから信頼され、安らがせてやれる男はそうはいない。
その矜持が社の理性を辛うじて繋ぎとめていた。

「社、本当に上手だね・・・・・・。こういうの、ちゃんと習ったことがあるのかい?」
少し眠気を含んできたような声でアキラが言った。
「ん?ああ、ガキの頃にな。親父がよく家に呼んどった整体師のおっさんがいて、そん人に少し教わった」
「ふうん・・・・・・」
チラッとアキラがこちらを見たようだった。


(8)
少年時代の社がマッサージを覚えたいと思ったのは、社一家が関西に移り住んで間もない頃、生まれて
初めて整体治療を受けた父が「身体が軽くなった」と先生相手に喜んでいるのをドアの影から覗き見て、
自分もあんな風にお父さんを元気にしてあげたいと思ったのがきっかけだった。
その頃父は慣れない土地に転勤したばかりで新しい人間関係や仕事上の問題を抱え、相当疲労していたらしい。
元からあまりべたべた引っ付くタイプの親子関係ではなかったが、引っ越してからは余計父が不機嫌そうに
疲れた表情でいることが多くなって、親子の会話は減る一方だった。
新しい友達のことや学校のこと、最近見つけた面白そうなおっちゃんたちの溜まり場のこと。
父に報告したいことはたくさんあるのにそれが出来ない寂しさを感じていた社少年は、ある日意を
決して駅前にあるその先生の治療院を訪れた。
「オレを師匠の弟子にしてくださいっ!」
と少年漫画のノリでいきなり土下座された先生は初め困惑した様子だったが、事情を聞くと笑って、
セイタイは坊やにはまだ難しいから足の揉み方を教えてあげる、と言ってくれた。
だが先生から伝授してもらったマッサージでお父さんを元気にしてあげるという当初の目的は結局
果たされることはなかった。
その頃、本格的に碁を習いたいという社少年と父との間で衝突が起こり、なんとか碁会所に通うことは
許してもらったもののオレがマッサージしてあげるなどと言い出せる雰囲気ではなくなってしまったからだ。
父との仲が険悪になり始めた代わりに、あの面白そうなおっちゃんたちに先生直伝のマッサージを
試してやるとおおいに喜ばれた。
「清春、また頼むわ。最近また足腰がしんどおてかなわんのや」
「なんやこんなオッサンらの汚い足を嫌がりもせず丹精込めて揉んでくれるんやから、清春はホンマに
気の優しい子ォやのう」

それらは少し甘酸っぱい思い出だが、他の誰かに語って聞かせるほどのことではない。
だからアキラにも言う必要はないと思った。


(9)
「・・・・・・社、これお父さんにもやってあげたことはある?」
不意に聞かれて、社は驚き顔を上げた。
見るとアキラは枕に頭を預けたまま、微笑んでこちらを見つめている。なんだかとても静かで優しい表情だった。
「・・・・・・いや、あらへん」
「そう」
次第に眠気が勝ってきたらしいアキラの声はどこか舌っ足らずな甘い響きを持っている。
ゆっくりな瞬きを繰り返しながら、アキラは一言一言考えるように区切りながら言った。
「・・・・・・ボクはこんなに、上手に出来ないけど・・・・・・小さい頃お父さんに喜んでもらいたくて、あと
お父さんの側にいたくて・・・・・・よく肩を叩いたり、足を揉んだりしてあげてたんだ。・・・・・・子供の小さい手だし
実際にはそんなに気持ちのいいものじゃなかっただろうけど、それでもお父さんは喜んでくれて・・・・・・
だから・・・・・・」
穏やかで控えめなアキラの視線が社の顔にそっと向けられる。
「社もお父さんにこうしてあげたら、お父さんきっと喜ぶと思う・・・・・・」

言葉が出なかった。
こちらに向けられたアキラの眼差しは優しくて子供のように澄み切っていて、その眼差しの前では
自分たち親子の確執もつまらない意地も、かすかな古傷の痛みも、何もかもが許され浄化されるような気がした。
「喜んで・・・・・・くれるやろか。あん頑固親父が・・・・・・」
「気持ちは伝わると思うよ。・・・・・・だってボク今凄く気持ちいいし、・・・・・・社の優しい気持ちが伝わってくる・・・・・・」
――清春はホンマに、気の優しい子ォやのう。
瞬間、ジワッと涙が溢れそうになる。


(10)
やり直せるのだろうか。今からでも。
棋士として昇りつめてこれがオレの力や、どうや!と誇示して認めさせるだけでなく、
自分はいつでもどんな大喧嘩のさなかでも父に何かしてあげたくて、喜んで欲しくて認めて欲しくて、
それどころか自分は今までに一度だってアンタが嫌いだったことなんかないのだと、伝えられる時が
来るのだろうか。
本当のところはそんなに上手くいくかどうかわからない。
しかしアキラの言葉にはいつも不思議と、ああきっとそうなのだろうと人を納得させてしまうような力があった。
それはアキラ自身がどんな困難にも屈せず全力で道を切り拓いていく力強さを備えているせいかもしれないが、
他の人間が言ったら理想主義の奇麗事に聞こえるかもしれないような言葉でも、アキラが言うと
不思議な説得力を持って響いた。

「なあ、塔矢、」
しみじみとした思いで顔を上げると、アキラは瞼を閉じてスースーと規則正しい吐息を立てている。
(って、寝とるんかーい!)
心の中でツッコミを入れながら、目を閉じたアキラの美しい顔に見入った。
(そうやな・・・・・・アンタの言う通りかもしれん。意地張っとってもなんも始まらへんわ。あん親父の
ほうから折れるなんてことあり得へんのやから、オレのほうが大人になって足でも何でも揉んだらな
あかんのやろな。そや。今すぐやなくても、きっといつか・・・・・・)
眼下に目を遣れば、そこには相変わらず白いアキラの脚が艶めかしくさらけ出されて男を誘っている。
強い未練とそれを抱きかかえて舐めあげたいような衝動が湧き上がるのを抑えて、社はもう一度その
綺麗な脚を目に焼きつけると身を屈め、紺の浴衣の裾を取って宝物でもしまうように再びアキラの脚を包もうとした。

その瞬間、ガッと下から上へ、顎に鈍い衝撃を感じて社は一瞬何が起こったのかわからなかった。



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