二度目の父親の言い付けも、きちんと守った。何も問題はなかった。逆らいもしなかったし、全部父親に従ったわけでもなかった。
全ては自分の力で、自分の意志で、私は一国の王を殺したのだ。
また残る肉塊や、血を忌々しく擦りとる。
ここは、テルペンの城の浴室。古ぼけた金属がのぞく壁は、部分的にはさびついていた。
下のタイルが、赤くなる。これが全部、他人の血と思うと、吐きたくなる程の衝動を抑えずにはいられない。
まだ、未熟なのだと判っている。だけれど、こんな事で一人前なんかになりたくはない。
ただの普通の人間として…膨大な魔力を持っていても、刺々しい漆黒の翼を持っていても、それでも…いや、それだから、人間としては接してくれない。誰も。
やっとの事で、血を流すと肌を乾かし、露出度の高い服を着る。唯一の洋服なため、これしか着ることができない。
報告をしに、父マクベスのところへ向かう。
「お父様、言われた通り…王を殺して、私達テルペンの存在を明かしてきました」
まだ、生臭い臭いがする。のどの奥から、湧き出てくる…気持ち悪い塊が。
跪いているのも、やっとの程。メルランの身体はぐらりと傾いた。
意識が遠のいて、視界は真っ暗になった。
彼女の名前を呼ぶのは、若い男の声。
「イズミル…?大丈夫か?」
ついさっきまで、メルランがいた場所をずっと見つめ、突っ立っていた。
王が死んで、周りはまたいっそう激しく騒ぎ立てる。
小さな子供連れの親まで、城の中に入ってくる始末だ。
人が増えてきたし、一部始終は見させてもらった。ゼスは、イズミルを呼んだ。
しかし…イズミルは動かない。額には汗も滲み出ているというのに…一向に動こうとしない。
「イズミル!しっかりしろ。戻るぞ」
数人こちらを向く程の声だったが、周りの騒がしさには劣る。
そこでやっと、イズミルがゼスを見た。恐れているような…驚いているような、複雑な表情で。
「……イズミル?」
「ゼス…あの、メルランって奴…」
珍しく、震えた声でイズミルが呟いた。ゼスは、それを優しく包み、囁く。
「気にするな。俺たちには関係ない」
しかし、イズミルははっ、と顔を上げて、ゼスにすがりついた。
「関係なくない!…なくないから…私は…」
「…師匠…」
ゼスが呟いた言葉に、イズミルは身を硬くした。
「判ってるさ。大丈夫…明日には、今までの試合のいい結果を残したヤツが、自動的に選ばれる。相手は魔族だ。俺たちは、あっちから頼み込まれるほどの実力を持ってる…そうだろ?」
ゼスは、イズミルに笑ってみせた。
「さ、戻ろう」
彼女の名前を呼ぶのは、優しく厳しい女の声。
「メルラン…無理したのね」
硬いベットに腰掛けて、寝ているメルランの額を優しく撫でた。
それは、魔族など関係なく…ただの生き物
としての母親の姿だった。
メルランは、まだ意識がハッキリとしない、薄暗い視界の中で、声だけを聞いていた。
「きっと、聖華城の人たちはこの城へ乗り込んでくるわ。そしたら…あなたは、一人で逃げなさい。『人間』として、暮らしなさい」
それだけ言い残すと、静かに部屋を立ち去った。
残された静寂さの中、一人で目をつむっていた。
暗闇の中で、一つの顔が浮かんだ。見覚えのある、整った顔。
……………ゼスだ。
そう認識できたとき、メルランは勢い良く目を見開いた。
「どうして…あの人の顔が…」
悪夢にうなされた子供のように、メルランは一人怯えた。
ゼスの予想通り、明朝にはゼス宛に手紙が来ていた。
「お手紙を預かっております、どうぞ」
カウンターの女性が、にこりと笑って二通の封筒を取り出す。それを笑顔で受け取ると、部屋に戻るエレベーターの中で、封を切る。
一枚の、薄い紙が出てくる。
『ゼス・ユーザンス様
この度、魔族に王が殺害され、御子息の意志により仇討ちを致すため、隊を作る。そのために、あなたの力をお借りしたい』
きっと、もう一通の封筒も、イズミル宛で同じ内容だろう。
薄い笑みを浮かべると、エレベーターが鳴った。
七階ではない。乗って来たのは背の高い、女性だ。
エレベーターで二人っきり。
ゼスは、女性の視線を感じた。
「何か?」
「いえ。…あなた、城の大会に出た人でしょう?」
「どうして、判るんです?」
髪の間から、女性の目をゼスは見た。
メルランと、同じ色…
「いえ。そういう『臭い』がしただけですわ。聖華城、魔族討伐に行くんですってね」
「…どうして、それを」
「ふふ、いいえ… 小耳に挟んだだけですわ… 気をつけなさい、特にあなたは」
それだけ言い残すと、女性はエレベーターを降りた。
間違い無く、人ではないと感じた。
瞳の輝きや、口調…それに、禍々しい程の魔力を感じた。
「…俺は、あんなのと戦うのか」
勝てるかどうか…微妙なところだ。
メルラン一人ならば、どうにか勝てただろう。
二人。もしくは、二人以上。
厳しい事には、変り無い…か。
七階につく。すぐに荷物をまとめて、城に向かわなければ。
屈強な男が、城の前に座り込んでいる。
兵士ではないだろう。きっと、討伐隊か。
これが、外見だけでなく実力もあるならいいのだが。
「どちらにしろ、足手纏いには変り無いな」
男たちは、何も言わない。
二人の強さを、判っているからだ。
「それにしても…何故、中に入らない?」
ゼスは、堅く閉ざされている門を見上げ、周りを見渡した。
「開かないんですよ、門が」
一人の老人が、杖をつきながらゼスに言った。
「御老人。あなたも討伐隊の…?」
「ええ、まあ… 戦い、拝見致しましたよ」
「そうですか」
そう言いながら、ゼスはメルランに耳打ちした。
「いい御考えですな」
老人は、目をつむり、笑った。
「…聞こえたのか」
「ええ。年寄りと甘く見てはいけませんぞ?」
「…まあ、聞こえたのならいい。門をあける」
「いえ。待ちなされ。今、開く」
老人が、ぴしゃりとゼスの動きを止める。
門も、老人が言った通りに開いた。しかし…
「メ…メルラン!」
門の中は、数万といる兵士の屍の上に、メルランが一人、座っていた。
漆黒のスーツに身を包んだ、小柄な身体。
「魔族を倒したければ来るが良い!死に損ないの王子はそこにいる」
メルランは、兵士の屍の中で震え上がっている王子を指差した。
「我らは逃げも隠れもせぬ!」
そう言うが否や、漆黒のスーツは黒龍の形を成す。
華奢な身体が見える、露出度の高い服。
動きやすさを重視した、その身体。
メルランは黒龍に飛び乗ると、そのまま空に飛んで行った。
「ま、待て!」
巨体の男が、それを見上げて、手に持っていた鎖付きの斧を振り上げた。
届く、と誰もが感じた時、斧は粉々になって弾かれた。
「そんな鉄の塊で、私を傷つけられると思うな!」
巨大な魔力が、紫色の鎧としてメルランを守っている。
「あの野郎…」
ぽつり、とイズミルがつぶやく。
「王子は使い物にならん。馬を借りるぞ」
老人が、門をくぐり、屍の上を走っていく。
その後を、ゼスとイズミルが続いた。
しばしの間が空き、他の隊員も続く。
威勢のいい黒馬にゼスが跨がり、竿立ちになる程の勢いで駆けて行く。
その後を、白馬に乗るイズミルも追い掛けた。
前方には、黒龍… 見失う訳にはいかない。
「…来た。 後は、魔力で判るだろう… 行くぞ、黒龍!」
一声かけると、黒龍は今までにはないスピードで飛んでいった。
「っち!龍には追いつけないか… だが」
ゼスは、後ろにいるイズミルに叫んだ。
「イズミル! この辺から魔力が強くなってるから、道は判るだろう!案内してくれるか!」
「了解」
馬の足で、どんなに急いだとしても半日はかかる道のり。
その間に、こちらも準備を整えれば、何の問題もない。
父も母も、強い。
その事は、十分判っていた。感じる魔力。
それだけで、押しつぶされそうな…
今回は、聖華城も勝てない。絶対に…
ギエ、と黒龍が一鳴きする。着いたようだ。
「黒龍、お前は見張りを。見えたら鳴くのよ」
優しく頭を撫でてやる。ごつく、鋭い皮膚でも、メルランの皮膚は切れる事がない。
普通の刃物じゃ、切れる事ない。
悪魔は、怪物じゃない。
こうして、同じ土地に住んで、同じ容姿ならば…
悪魔は、人間の進化系だ。
膚の弱い人間に比べて。馬しか飼えない人間に比べて。飛ぶ事ができない人間に比べて。魔力のない人間に比べて。
全てにおいて。悪魔の方が、優っている。
その誇りだけを背負って、これまで生きて来た。他の場所にも悪魔はいる。
ただ…少ないだけなんだ。
「メルラン」
これからの戦争に向けて、必死に冷静さを失わないようにしていると、後ろからのチェラブの声に、一瞬心臓が止まる程、飛び上がった。
「お、お母様…」
振り向くと、いつもの母ではなかった。魔力を抑えて、格好が人間のようだ。
母の背には翼がない。出していないだけかもしれないけれど、メルランは見た事がなかった。
「どうしたんですか。そんな格好で…」
「ふふ、似合うかしら?」
そう言って、ひらりと一回回ってみせる。
「お父様に見られて、大丈夫なんですか…」
「秘密よ。ちょっと偵察に行ってきただけよ」
「偵察なら、私が…」
それを遮って、チェラブはメルランに顔を近づけた。
「いい少年ね。頑固そうで、優しそうで」
それだけ言うと、いつもの母の姿に戻る。
「お母様…まさか…」
前を歩く、母の姿を見つめた。
チェラブは、目だけで振り向く。
「…それは、後でね?」
射ぬかれるような、視線に、言葉を無くす。
「はい…」
と、返事をするしかなかった。
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