白と黒の宴3 10 - 13
(10)
だがアキラの対戦相手は来なかった。
急に体調を崩したりしたか何かか、結局アキラの不戦勝となった。
気が抜けると同時にひどく疲れたような気がして階段脇の自販機の場所で一息ついた。
冷たいお茶の缶を買ったが、飲むためでなく額に当てるためだった。
そうして壁にもたれかかっていると気分が落ち着いて来た。
院生ではなかったが、建物が持つ空気というか、棋士としての高みを目指す者たちの
息遣いを感じるこの空間が肌に馴染む。
少しずつアキラは自分を取り戻しつつあった。
それと同時に、怖れおののく程に手強い相手との対局に自分は飢えているのだと思った。
少しでも気を緩めれば一気に追い詰められ自尊心をも粉々に打ち砕かれるような、
そんな相手と、打ちたい。
ふと、父行洋から聞いた高永夏を始めとする異国の棋士達の事が頭に浮かんだ。
日本より囲碁が盛んな国の若手のトップに立つ者達。
とりあえず自分が考えなければならない事は北斗杯の事だ。
「良かった、塔矢。まだ居たんだ。」
ふいに耳に入って来たその声の主にアキラは振り向き、ホッとしたように笑んだ。
「進藤…、…居たのか。」
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アキラのその言葉にヒカルはぶ然とした顔になった。
「はあっ!?何だよそれ、失礼な奴。見てたよ、お前は不戦勝だろ。
オレはちゃんと打って勝って来たんだぜ。」
そう言いながらヒカルはポケットから小銭を探し出し、アキラの向かい側の自販機に
流し込んでボタンを押す。アキラに背を向けたままヒカルは言葉を続けた。
「でもさー、つまんないよなあ、北斗杯東京で開催なんてさ。オレ、お前から
北斗杯は大阪でやるって聞いて、それで社にいろいろ聞いたのに。」
「えっ…?」
身に覚えのない話にアキラは一瞬キョトンとした。
「言ったじゃんか、大阪の何とかってホテルで開催されるって。」
「…それは違う。開催場所の候補として大阪と東京どちらかだという話がある、
という程度にしか君にしていないはずだ。」
「いいや、言ったよ、ハッキリ。」
買った缶ジュースに口を付けたヒカルとアキラとで睨み合う。
「ボクは言ってない!君が勝手にそう思い込ん…」
思わず力んで声を出しかけて、アキラは押し留まった。
ヒカルも受けて立つように睨み返していたが、アキラがフッとため息をついた。
「…言ったかもしれない。少なくとも君にそう誤解を与えたのなら謝る。」
ブハッとヒカルが飲みかけた缶ジュースを吹き出して咽せた。
「どうしたんだ!?塔矢!、お前らしくない!!」
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「…別に…。」
手の中でもうあまり冷たくなくなった缶を持て余すように転がしながら、思いきったように
アキラはヒカルに訊ねた。
「社…くんとは、あれから電話は…?」
2週間程前、手合いの日にヒカルから社から電話があったという話を聞いた時
アキラはドキリとした。
社が進藤にかなりな興味を持っている事は確かなようだったし、一方で
ヒカルにそうして接近する事でこちらを精神的に揺さぶっているのも感じ取れる。
社が東京のどこかのホテルに泊まりヒカルと会うつもりだと聞いて思わず
自宅に呼ぶ事を提案してしまった。
彼等二人とも目が届く範囲に置いておかなければと思った。
「うん、あの後直ぐに返事しておいたよ。待ち合わせの場所とか。あいつ結構
東京詳しいっぽかった。」
「電話したのは、それくらい?社くんからは他に…」
「うん?その一度だけで後は別に。塔矢、なんか都合でも悪くなったのか?」
「…いや、いいんだ。」
アキラのもとには社から何の連絡もない。
「…合宿の話をした時、彼は何か言わなかったか?」
「別に。“ふうん、わかった。”って、そんだけ。」
社の真意が見えない事がアキラは不安だったが、それ以上ヒカルに
しつこく問うわけにはいかなかった。
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「でもさー、合宿ってなんかイイよな。オレ中学の時とかそういう機会なかったから。」
そんな風に無邪気に笑顔で話すヒカルに、思わずアキラは苛立った。
「進藤、言っておくけど、…北斗杯の対局はきついものになるよ。合宿前に出来る限り
相手の棋譜を見ておいた方がいい。」
「言われなくても分かっているよ。韓国の洪秀英とか、強くなってんだろうなあ。」
ヒカルはそう答えたが、やはりアキラにはその時点でのヒカルは何となくどこか変に余裕を
持っているように見えた。
「何だよ、まだ何か言いたそうだな。」
ヒカルもアキラとの付き合いが長いだけあって、アキラのそういう視線には
敏感らしかった。
「…いや、」
言葉で説明出来るものではない。
「社と会ったら電話をもらえるかな。駅まで迎えにいくから。」
「大丈夫だよ。お前ン家言った事あるから。もー。お前心配し過ぎだよ、塔矢。」
アキラはため息をつくと鞄から手帳とペンを取り出し、そこに地図を書き込んだ。
「一ケ所工事で通れなくなっているところがあるんだ。夜だと分かりにくいだろうし、
ボクの家まではこの地図の通りに来て欲しい。…何かあったらすぐ電話をくれ。」
本当はヒカルが社と夜道を二人で歩く事自体がアキラには不安だった。
工事しているというのは口実で、なるべく人通りのある道を通って来させたかったのだ。
「…もしかして、オレが社と浮気するとでも思っているのか?」
悪戯っぽく上目遣いなヒカルの表情がアキラの目の前に寄せられてきて、軽く二人の
唇が触れ合わされた。
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