白と黒の宴3 14 - 17
(14)
ヒカルと唇を重ねたまま、アキラは目を見開いてヒカルを見つめた。
「?、何驚いてンだよ。」
ヒカルは優しく笑むと、アキラの前髪を少し指で摘んで弄り、辺りを見回して周囲に
人が居ない事を確かめるともう一度アキラに軽く口づけた。
北斗杯予選の後で廊下で強引なキスをした事で、しばらくヒカルとそういう事を
するのをアキラは自粛していた。
あのキスの前に社と、後で緒方に抱かれている。
そんな自分がヒカルにああいう事をするのはやはり許されないような気がした。
もちろんヒカルは次に会った時も特に何事もなかったように明るく話し掛けてくれたが。
「塔矢、…あのさ、」
ヒカルが妙にあらたまったような、真剣な表情でそう呼び掛けて来た。
そのとき足音がして廊下の向こうを棋院の職員が通りかかり、ヒカルは慌てて
アキラから体を離し、手にしていた飲みかけの缶ジュースを呷った。
「とにかく、ここを出よう。」
空き缶をダストボックスに放り込むとヒカルはアキラの腕を引っ張て階段を下りた。
ヒカルと共に足早に駆け下りながら、そのせいだけでなくアキラは胸の鼓動が
高まるのを感じた。さっきのヒカルの表情はいつになく大人びたものだったからだ。
そうして二人は建物を出ると、何処へと言う訳でもなく歩き出した。
(15)
「…さっき言いかけたの、何?、進藤…。」
少し先を歩くヒカルの背中にアキラは問いかけた。
それでも暫くヒカルは黙ったままだのだが、立ち止まると小声でアキラに話す。
「明日の夜、…オレの家に来ないか?」
「明日の夜…?」
「その、棋譜とか見るの、一緒にやらないか?碁会所だとお前のとこもオレの良く行く
道玄坂のとこも外野がいろいろうるさいからさ。」
「…それは…」
構わないけど、と言いかけてアキラはハッとなった。ヒカルの顔が赤かったからだ。
「どうしたんだ?進藤。…熱でもあるのか?」
真剣に心配して尋ねたつもりだったが、ヒカルは増々顔を赤らめて怒鳴った。
「だーかーらーっっ!!!」
アキラが驚いてキョトンとし、ヒカルがボソボソと小さな声で呟いた。
「だから…、…す…なんだよ。」
「え?」
ヒカルは耳まで赤くして再び怒鳴った。
「親が留守なんだよっ!」
「親が?…あっ…」
初めてそこでアキラも顔を赤くし、慌てて周囲を見回した。ある程度棋院から離れていたし、
広い通りに出る前で人通りはなかった。
(16)
ヒカルはまたさっきのように大人びた目で真直ぐアキラを見つめて来ていた。
アキラはまさかヒカルからそういう話をしてくるとはまるで予想していなかった。
「…オレ、変なんだ…。」
「変って…?」
「お前の様子が何かおかしいなって気になっていたけど、それだけじゃなくて、
…上手く言えないけど、塔矢の事ばかり考えるようになっているんだ。」
アキラは全身から力が抜けそうだった。あまりに嬉しくて、今自分が耳にしている事が
夢のようで信じられなかった。
ヒカルが顔を寄せて、一言、小さな声で囁いた。
「…試してみたいんだ…。」
ヒカルのその言葉が意味するところを理解し、全身がカッと熱くなる。
鼓動が鋭くアキラの中で響き、胸が痛かった。
今までのお互いを言葉ではまだ言い表せない想いを触れあわせる程度だったものから
一歩踏み出そうとしてくれている。ヒカルの方からそれを決意してくれたのだ。
それはヒカルの優しさだと言える。
北斗杯予選の後のアキラの愚行を、自分からそう言い出す事でアキラの気持ち的な負担を
減らそうとしてくれているようにも思えた。
「いいよ」と答えたかった。ヒカルに好きなだけ試させたかった。
自分がどんなにヒカルの事を思っているのか感じて欲しかった。
だが、アキラの唇はそう綴る事は出来なかった。
(17)
「…ダメ…なんだ、明日は…都合が…」
今の自分の体を、ヒカルに見せる事は出来ない。
「…あ、そ、…うなんだ…。」
一瞬ヒカルは、重大な決意が空振りに終わった落胆を隠せないような
がっかりした顔になった。そしてすぐに頭を掻きながら照れくさそうに笑った。
「…へへ、何焦ってンだろうな、オレ。」
「ごめん…」
「塔矢が謝る事ないよ。うん、ちょっと突然だったし。」
胸が詰まって泣きそうになる。ヒカルが不安げにこちらを見つめる。
ヒカルのそういう顔を見ていると、本当の事を全てぶちまけたくなる。
でも、それだけはしたくない。
自分でも自分の表情が固く閉ざされて行くのが分かる。
「進藤、…今ボクたちは、やはり北斗杯の事だけに集中するべきじゃないだろうか。」
そう言って、心底自分で自分が嫌になった。
ここまできて頭の片隅に、ヒカルの中にある自分のイメージを壊したくないという
保身の意識が働いているのだ。
「わかった。そうだな。…今日はオレ、あっちの碁会所に行くよ。頭冷やす。
じゃあな。」
そう言って駆け出すヒカルの後ろ姿を見送って、アキラは大きくため息をつき、
髪をかき上げた。何かを決意するように固く目を閉じて唇を噛んだ。
緒方の事は終わった。
だが合宿の前に、どうしてももう一つ区切らせておくべき事があったからだ。
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