白と黒の宴3 22 - 25
(22)
今日のアキラは今までと様子が違う、と社は感じていた。
東京の碁会所でアキラと打った時、負けはしたが社は本気を出し切っていなかった。
それは相手のアキラがどこか集中力を欠き、本調子ではなさそうだったからだ。
普段補食する側の肉食獣といえ、覇気を失い攻撃的な構えを解いてしまえば
補食される側にまわる。
そうして社は、その機を逃さずアキラを捕らえた。
いや、捕らえたつもりだっただけかもしれない。
『君は塔矢アキラという人間が分かっていない。…抱いただけでは彼を手に入れる事は
出来ない。』
緒方の言葉が社の頭の中に蘇る。
何か得体の知れない嫌な予感が広がるのを振払うように社は頭を振る。
「望むところや。…受けてたったる。」
社はアキラを先導するように前を歩こうとした。するとアキラが言葉を続けた。
「場所は…普段、君が行っているところじゃない碁会所にしておいた方がいい。」
その言葉が意味するところを察知して社は振り返り、アキラを睨んだ。
「…塔矢アキラが本気を出せば、社清春などひとたまりもないって事か。」
アキラは黙って涼し気に社を見返している。
見下されているような気がして社の中に怒りが込み上げ、アキラの胸元を掴んで引き寄せる。
通行人が驚いて振り返り、足を止める。
それでもアキラは眉一つ動かさず冷静に社を見上げていた。
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「お前は勝敗とSEXは関係ない言うたが…勝ってやる。勝って…めちゃくちゃになるまで
お前を抱いてやる。」
社は小声でそう呟くとアキラを突き放し、歩き始めた。
電車を乗り継ぎ、社が向かった先は商店街から少し離れた古いビルの地下にある
碁会所だった。
薄暗い階段を降りると準備中の札がドアに下がったスナックと並んでその入り口はあった。
席亭は意外とまだ若い男で、社を見ると愛想良く笑顔を見せた。
「いらっしゃい。」
「…どうも。ちょっと友だちと打ちたいだけやから。」
ボソリと社は言うと受付のテーブルに記帳し、二人分の料金を置く。
若い席亭はアキラを見ると同じように笑顔で頭を下げる。
塔矢アキラだと分かっているのかもしれないがそれを顔に出す様子はなかった。
そんなに広くない室内に無愛想な事務机と椅子が並んでいて
奥でサラリーマン風の中年男性らの一組だけが打っていた。
時間からして、外回りから会社に戻らず直接打に来たと言ったところだろう。
ちらりとこちらを見たが、特に反応する様子はない。
「2〜3回来ただけのとこや。静かでええやろ。」
「…そうだね。」
カウンターの後ろには読み込んだ囲碁関係の雑誌や新聞が山積みになっていて、
席亭もプロの社やアキラを知らない訳ではないだろうが、あえて意識しない振りを
してくれているようだった。
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最初にお茶を運んだ以外は席亭の男は近寄ってこそ来なかったが、自分の碁会所の
一角で静かに凄まじい戦いが始まるのを予感し、見守ろうとしているようだった。
しばらくしてドアが開き、新たにやって来た中年男性の2人連れが社らの方を
見て「最近は若いモンも碁を打つんかい」と尋ねるが、
「そうやって流行ってくれるとありがたいんですけどね。」と軽く答えるに留めた。
その席亭からは背を向けたアキラと、その向いに座る社の顔が見えていた。
互いが向き合い、何か言葉を交わした時、社がガタッと大きな音を立てて立ち上がった。
そしてまた言葉を交わし、社が席に座った。
カウンター近くに座った中年男性らがぼそぼそ話し合い、やれやれといったように
首を振る。
だが席亭には彼等の会話が僅かに聞こえていた。
「石を置け、やと…!?」
「2子だ。今の君の実力から言ってそれが妥当なとこだ、社。」
「…随分強気なようやけど、それで負けた時の言い訳にする気やないやろな…」
「…打ってみれば、はっきりする…。」
アキラが白石を持ち、盤上に静かに置く。
席亭は社の表情から燃え上がる闘争心を見て取ったが、それ以上に
背中を向けているアキラから、なんとも言えない威圧感を感じていた。
奥で打っているサラリーマンらも、手前の中年男性らも趣味程度で打っているだけの
者たちには嗅ぎ分けられない程それは静かで、底知れない気迫だった。
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時折建物の近くを電車が通過する振動音が響く他は音がなかった。
奥で打っていたサラリーマンらが立ち上がり、帰り支度を始めた。
そうして出口に向かう途中で社らの脇を通りかかり、何気なく2人の盤面を
見た一人が首を傾げた。
そしてカウンターの席亭に話し掛けた。
「あの若い子達、始めて結構時間経ったと思おたけどほとんど手が進んどらんな。」
「まだ初めて間もないんやないか?席亭、手ほどきしたったらどや。」
席亭は軽く笑って流したが、彼等の会話を聞いて興味を持ったのかカウンター傍の
客が「どれ」と覗きに行った。と言っても、社の風貌を怖れてか直ぐに戻って来た。
もちろん社は盤面に集中しきっていて彼に視線を向ける事はなかったが。
「…なんや、ごっつう難しい打ち方しとるわ。オレにはよう分からん…」
少なくともその男はサラリーマン等よりは碁が分かるようだった。
「せやけど、あのおかっぱのお兄ちゃん、…ようあんな恐い顔の相手と打てるなあ。」
社は追い詰められていた。
食い入るように盤面を見つめ、どうにかして反撃の糸口を見つけたかった。
侮っていたつもりはなかった。
東の怪物、塔矢アキラ。師匠に呪文のように繰り返されたその名。
アマチュア時代にほとんど公式戦に出て来ないその相手のイメージばかりが先行し、
初めてその棋譜を見たのは対座間の若獅子戦のものだった。
その時社は生涯を賭けて戦う価値のある相手だと確信したのだ。
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