白と黒の宴3 41 - 45
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自分はただ早く事が済めばいいと、ただそう思って天井を見ていた。
社が自分を強く抱きしめ、動かなくなった時、彼が泣いているように感じた。
そんな社がひどく気の毒に思えた。
今回の事は、自分も彼を利用していたところがあった。
自分を取り戻す為に。
それを言葉にしたり詫びるつもりはなかったが。
「…新幹線が動くの、何時やったかな…。朝の上りは、混むやろな…。」
社がボソボソと口を開いた。
「朝いちの新幹線の切符は、もうとってある。」
アキラが答えると、社はムッとした顔になった。
「ホンマにそつがないな、お前は…。」
アキラがクスッと笑った。その笑顔を見て、社は決意したように息をついた。
「約束する。…進藤には手を出さん。」
ハッとしたようにアキラが社を見つめた。今度は社がフッと笑った。
「元々そっちの方に興味があったわけやない。ホンマや。お前やったから…」
社はカップを見つめたままだった。真面目な表情に戻り、手でカップを包む。
「お前やったからや。…せやけど、お前にももう…二度と、何もせん。誓う…。」
アキラは黙って聞いていた。
建物の2階にある店の、窓の外を見ると街並みの遠くの空が白みがかっている。
「そろそろ始発が動くやろ。」
社が腰を上げた。
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新幹線のホームまで社は見送りに付いて来た。
既に構内はスーツ姿のサラリーマンが多く見える。
ただ、前の時のようにアキラの肩を抱いたりはせず、少し離れて歩いていた。
そしてアキラがデッキに乗り込もうとした時、社が小さな声で問い掛けて来た。
「…なんでや…」
アキラが社に振り返った。
「…なんで、大阪まで…わざわざ…、別にそこまでせんでも…」
社は両手をズボンのポケットに突っ込んだままだった。
そうでもしていないと、アキラを行かさまいと捕まえてしまいそうなように。
「少しは、…少しはオレのこと…」
返答に困ったようにアキラは社を見つめ、笑んだ。
「…ボクにも、分からないんだよ、社。ただ…」
ほぼ同時にけたたましく長い発車ベルが鳴り響いた。
アキラがデッキに移動し立つと、騒音の中で社に伝えた。
「…社、君ともう一度向き合わなければならないと思った。それは確かなんだ。」
社が引き寄せられるように一歩前に出た。
それを遮断するようにして、ドアが閉まった。
向き合うというのが碁だけなのか、それ以外のものを含めてなのか、アキラにも分からなかった。
ドアの窓越しにもう一度社を見た。
「北斗杯…、がんばろうな。」
社の口がそう動き、アキラは頷いた。
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指定の席に着くとアキラは後ろの人に軽く頭を下げてシートを深めに倒し目を閉じた。
ベッドの上で、自分の胸に社が顔を押しけ唸るように言っていた。
『…強く…なってやる…、誰よりも…お前よりも…』
緒方もまた、同じような事を言っていた事があった気がする。
アキラを抱き、髪を指で梳きながら呟いていていた。
『こうしていても、ついさっき打った棋譜を思い浮かべてしまう。
強くなりたい。…悲しい程に、オレ達はそれから逃れられない…。』
どんな事よりも、盤上の戦いが優先する。
どんな快楽よりも、白と黒の石によって相手に打ち勝った時の快楽の
美酒以上には酔えない。
それを一度知ってしまった者は引き返せない。それを確認するために社と会った。
ヒカルと共に歩むために。行けるところまで。どこまでも行き着く処まで。
盤上の上にあるべきは白と黒の石のみ。
永遠に戦いあい高め合うヒカルと自分の存在のみ。
それ以外のものは要らない。
そのままアキラは深い眠りに落ちた。
東京駅に降り立った時、アキラの表情にはもう何の迷いもなかった。
その数日後、アキラは東京の自宅で社と再会した。
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「社の前では、不要に親しい仲をみせないようにしよう。」
合宿の前日、意外にもヒカルの方からそういう内容の電話をアキラは受けた。
当然、社と終わったとは言え、だからといってアキラも余計な心情を彼に
与えるつもりはなかった。
「…別に普段通りでいいとは思うけど。」
「うん、まあ、そうなんだけど…」
そう言葉を濁すヒカルが、アキラにはらしくないと思えた。
「それより進藤、明日、駅まで迎えに行こうか。」
「だから、そういうのをやめようって言ってンだよ。塔矢って、無意識に
オレの事を何て言うか、…同等に見ていないとこがあるだろ。」
「それは誤解だ。進藤、…何かあったのか?」
「…何でもないよ。」
明らかに何かあったのだろう。
そしてヒカルがそういう態度を見せる時、いつもそれはヒカルが明かせない、
壁の向こうにあるものが原因となっている。
ヒカルのそういう面にアキラはもう慣れていた。
一度ヒカルの言葉が閉じてしまえば触れないで済ませるしかない。
碁の検討になるとヒカルは夢中になっていろいろアキラも思い付かなかったような
解釈や発見を述べる事がある。でも、例えばヒカルが例に出したその棋譜の
対局相手の事を訪ねると、その多くを「覚えていない」と答えられてしまう。
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棋譜を覚えていて相手の名を忘れる事はないだろうが、
追求するとヒカルは言葉を荒げるか、理由を付けて検討を中断してしまう。
何度かキスを交わす間柄ではあってもそれは変わらなかった。
壁の向こうにあるものの存在を、アキラはうっすらと捕らえかけていた。
そしてそれをヒカルも感じている。
後はそれをヒカルが肯定するかどうかだった。
アキラは待つ事にした。
その時期は、そう遠くないような気がしたからだ。
アキラが深く問わなくなってから、ヒカルとの会話はずいぶん
穏やかに長く続くようになった。
「最近ケンカしなくなったわね。そうなると何か物足りない感じ。」
碁会所で怒って席を立つヒカルにカバンを渡す役目だった市河は冗談めかして
そう言っていた。
「進藤くんもアキラくんも大人になったのねえ…。」
としみじみと溜め息をつく。
「ボク“も”なんですか?」
何となく不本意なものを感じてアキラがそう尋ねると、後ろでコーヒーを吹き出す
常連客が居て、市河も返答に困る表情を見せていた。
「あ、…つ、つまりね、アキラくんは、進藤くんと一緒の時“だけ”は、子供みたい
だったってことなのよ…。」
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